marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅹ>黒子の戦略:信長、秀吉、家康:親愛なるXへ(その26)

2022-03-28 17:46:38 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 添付写真は副川神社(そえがわじんじゃ)といって、その登山途中の常夜塔(塔にもそう書いていたが誰が夜中に火が消えないように努めたんかいな。かなりしんどい登りだぞ。それを修行にしてたのかな。)

遠くに見えるのは男鹿の寒風山。八郎潟湖がかすかに見えるが昔は、ずっと手前まで海(潟)であった。高岳山の頂上にこの神社はあり、ネットでも検索で出てくる歴史ある神社である。(・・・天気も良く、風も穏やかで頂上でcofeeを湧かして一服する。無論、こんなすさびれた田舎の山の上、誰もいない。)

◆”風が吹けば桶屋が儲かる”という言葉。その意味は、風が吹けば砂埃が舞い目に入りメシイが多く出るだろう。その生活の手段は三味線を弾いての歌を歌い歩く流し(ゴゼと呼ばれた)をする人が多くなる。三味線を作るには猫の革が必要だ。猫狩りが行われれば猫が少なくなりネズミが多くなるだろう。ネズミが多くなれば家々の桶を齧り、使えなくなるだろうから桶屋に作ってくれと依頼が多くなるに違いない。桶屋は儲かるはずだというこじつけのような・・・。

このような考えで今までの古代からこの国に上陸して帰化した、あえて黒子の戦略としたのだが、その理屈でいうと、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と神々が存在して古来からその背後に隠れているようなそれ(黒子たちの戦略)は、現在まで続いているように考えられてくるのである。誰でも知っている徳川の時代が約270年ほども続いたのだけれど、そこに至るまで古代からの黒子達が背後でプロデゥースしていたのであると思われてきた。

その会議がすべては本人に了解のもとではなかったが清州会議(その後、何度か面に出て来ないで行われていた)であったというわけだ。なんと、末の世の徳川の安泰な時代になるまでに、例の黒子が背後で演出していたというのである。無論、当人たちも理解はするところもあったが、個人の思いで有頂天になって無謀なことをし始め黒子の歴史を予見する意図からずれてくると(つまり、バックヤードとしてのサポートはするが、当の本人構わず他者を起こして戦火を起こし、成敗するという具合に。ここに義理や人情も犠牲にする世界があった。)

例えば、織田信長は、キリスト教を新しい教えとしてサポートしたのである。本来の仏教が堕落し始め、非常に政治にかかわる勢力となってきたことは本来の宗教にあるまじきことであると。宗教が政治にかかわってくるのは世が堕落すると考える武将であった。尾張のうつけものと言われた信長はそういえば肖像画では鼻が高い。古代、古事記にも出てくるその祖は忌部氏なので神祈職であった(つまり、古い時代からのあの鹿島、香取の著名な神社、それは太陽を求めて東の島国へと渡来し、東の端にたどり着いた渡来帰化人レビであったといわれる)。

宗教なるもの、本来、世のため人のためにあると心から思って、何の宗教とか気にしなかった。信長の前で渡来宣教師と仏教僧正の確か日乗とかいう僧侶が問答しあい、日乗が「魂が死んでも無くならないというのなら、見せてみよ」と宣教師を切りつけようとするような大変な修羅場があったらしいのだが、信長は本来、仏に仕える身ならば殺生はよくないのではないか、おかしいぞ、とたしなめたという話が記録にあるらしい。

延暦寺を焼き討ちにした織田信長、楽市楽座など行い大衆人気のあった信長が人々のよりどころの宗教の寺を焼き討ちにしたらいささか以降、問題を引きずるのではないか、門徒宗も多いし心の根深い問題だ。(ところで最澄が亡くなってから途絶えることがなかった燈明がこの戦乱で消えたのだが、今は途絶えずついているな。どこからこの火が運ばれたのかと言えば、山形県の立石寺、芭蕉が、静けさや岩に染みいる蝉の声、と詠んだ、あの奥の院からなのだそうだ。)しかし、それでもこのままではこの国はダメになるのであると、古代からの黒子のDNAの血が騒ぐ。

この影響甚大な大衆の敵となるような騒動に対して、一度、信長を歴史上から消えてもらうように画策したのが、黒子の一人、明智光秀であった(しかし、すごい名前ですねぇ)。つまりこうだ。一時的な歴史上の覇者たる優位性で時代を終わるか、それともこの日本の遠い将来を見据えた深層の土台つくりをするか。旧約の民のDNAをもっていれば、遠い将来のありようも預言者が見据えていたことを知っていたに違いない。

歴史上からは消えた織田信長は実は生きていたというのである。宣教師に布教を赦し、国外からの世界大陸の王者が描かれた大きな屏風ももらい受け、宣教師からヨーロッパのへの旅行をプレゼントされたという訳である。あながち尾張のうつけだったら、下天は夢か、と海外を見て回ったのかもしれないから、嘘ではないかもしれない。

無論、これを画策した黒子の面舞台にでた明智光秀も生きていた。(つまり、すべては黒子の地上の演出という訳である。)慎重だった光秀が百姓の槍につかれて殺されるわけがないというのと、あの自画像は、死んだといわれる年から3年後に生きた本人を目の前に描かれたものである、と言われているのである。そうすれば、門徒宗もこの衆生の混乱は起こるまいと。当時の仏教の僧兵勢力は大変な力をもっていたのであったから。

おぃ、おぃと思われるかも知れないのだが、世界のベストセラーの聖書の旧約の歴代誌や列王記などの部族間の切った貼ったを読んでいると、それぞれの部族には神の言葉を取り次いだと言われるレビ(日本で言えば神主)がいて、預言し政治にも関わっていたのだが、結局、すべての部族が離散する。時代を経て、ヨーロッパはパウロがすべての道はローマへ続くと言われたそこをめざし、今のように知られるようになったが、アジア大陸に太陽の昇る東へひたすら異動した部族もあって、日本に順次、到達する、というのが縄文から弥生時代に関わるあらすじ。この時代、モルモン教で言えば大西洋を渡り昔のアメリカ大陸に渡ったということになっている。こんな膨大な将来の世界観が旧約聖書を書いた預言者たちには見えていた。彼らの流れがこの国来ていたのである。

*いわく、この日本国が表面上、仏教をとりつくろいながらもほとんどの人が無宗教を語るのは、そもそもが古代からの深層に流れる宗教戦争があっての故なのであると思われる。考えてみるとこの国の民意が高いのは限界ある地上から消えゆく肉なる人が、言葉以上の神の存在を引きずりおろすようなことをしなていないのは、こういう争いが絶えず深層で行われてきたからなのではないだろうか。誰でもが命を与える神を畏敬しているのであろう。

後に、後継者となった百姓から関白太政大臣にまで上りつけた豊臣秀吉も、いくら”人たらし”とはいえ、背後のブレーン(黒子)がいなければ天皇に近い地位まで決してのぼり詰めることはできなかっただろう。こうゆう時代の逸脱者が演出側には必要なのであった。秀吉は大変な出世者であった。

信長はキリシタン(伴天連)が日本に来てから擁護したのに対し、その後、秀吉はこの宗教の背後に「害毒となる大変な異国の黒子」があることを知ったのだった。このままでは国が滅びると彼は知った。武力に関与しない大衆がその宣教の背後に黒子達は国を滅ぼし、無理やり従わせる武力をもって制圧しはじめることを知ったのだった。

*キリスト教殉教者が多く出たことは残酷ではあったが、深層を知らなければいけない。今のフィリピンという国も当時のスペインポルトガルの宣教師が来てキリスト教国となったが、国名は当時のフェリペ二世からつけられたのではなかったか。国の名前が乗っ取られたのだな。今の大統領は国名を変えることからしなくてはいけないのではないのか。

*今のフィリピンでも国外から不純なものがもたらされたとイスラム教を信ずる民族自決団が存在する(向こうの紙幣の絵柄にとてもおかしなのがあるんだな、この自決団の絵ではなかったかと今でも思う)。僕が知っているのはマルコス大統領がやめる数年前だったが、マニラの都市でものほほんと一人では歩けないところであった。銃を店で買うことができたからね。あの当時、アジアの安い人件費を求めて会社を現地に建てるんだがと日本の派遣者がその出張時にタクシーにのって銃で殺害されるという物盗りが横行した。

*今でもホテルのテレビでは、定期にカトリック司祭の聖書の話が流れるね。いずれ根がつかない所に種まいても育たないという訳で、大きく信者と未信者が区分され、スラムでない街の中には鉄線で区切られた大きな区画におまわり姿の門番がいて遮断機を開閉しながら、きれいな家々が並ぶその中へ車が入る許可が必要なのであった。ビバリーヒルズか何かかと思われるような家々の並びは、今までとは場違いな感じで道が清掃され、私の家はきちんとしたカトリック信者です、と表明するかのように聖家族のレリーフが家々の門に貼り付けられていた。

*現地採用の女子は国内における2年ほどの訓練の時、日曜礼拝に行きたいから教会を紹介してほしいと言われ、寮から一番近いカトリックの教会を紹介したが、毎週日曜、熱心に礼拝に通っていたことを思い出す。日本で訓練を受けた女子はフィリピンに戻り、僕が引き連れ日本で大手の電機メーカーの品質監査を受ける。これが聖書の思考の訓練なのかと感心したのが、この仕事上のことであった。決して学歴は高くないのだが、監査の質問事項に対して、迷うことなくストレートに答えが返ってくるのであった。雪のカマクラの小さな置物お土産に対して、帰りに先方からフィリピンの古代からの人形の彫り物をみやげにいただいた、今も玄関に飾っている。

しかし、天下統一を果たした秀吉も結局、黒子の思いに沿わず、道が外れてくる。黒子の一人、千利休もその手を見破られ晒くびとなる。金の茶室などがあるように、大衆から、その黒子の真髄からは外れてきたのであった。

家康は、幼少時代から人質にもなり辛酸をなめてこの時代のありようを体現していた武将だったろう。何が、そして誰がこの国を動かしているか。その秘密は、松平から徳川となったことに秘密がある。黒子集団はこれからのヒーローは彼しかいないと目をつけていた。彼の祖は、徳阿弥という旅の僧なのである。彼を養子に迎えることによって、松平から徳川となのるようになる。旅の僧?(ここに阿弥という名がついている、先のブログから読まれた方は何かつながっているのを感じないか?そういえば、みすず学苑の創始者、深見東州とかいう人のトト阿弥とかいって能をやる人で万能人のような・・・)まさにこの国を思いやる脈々と流れる黒子の一族なのであった。

豊臣から関東への配置換えを言い渡されたとき、多くの武将たちの不満を抑え、むしろ嬉々としてその地に赴いたのではなかったか。何故なら、東国武将の発祥の地へ向かったのであったから。徳川も源を名乗っていたのであったから。傲慢になった豊臣家に対して、この国の行く末を思いやる家康は豊臣家を滅ぼさなければならなかった。すべての宗教も重んじた人なのであった。(キリシタン弾圧に対してはいつぞや)

徳川家康のブレーンはご存じ天台宗の天海(長寿だった103歳?)と言われる。彼は、実はまさに徳川三代まで仕えた黒子の背後のブレーンだった。実は歴史上からは姿を消した明智光秀の子供だったのではないかと言われているのである。当時、識字率も世界でダントツに高かった江戸は今の日本の主都、東京になっている。

◆僕は日本の国に生まれて本当によかったなと感謝している。・・・