marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

〈Ⅵ〉源義家が東北制覇に協力してくれた豪族に名字を与えたことと黒子の秘密:親愛なるSへ(その22)

2022-03-20 20:21:07 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  親愛なるSへ PS:大切なことを忘れていたよ。僕の田舎のお墓に菊の御紋が柏の葉につつまれて刻まれいる墓がひとつあるんだな(写真参照)。東北の田舎にこのようなのがあるのは、曰く古代に源義家の国家権威天皇からが東北の地の制定に協力した地方豪族に名字を与えたからならなのね。無論、天皇が関知しない勝手に争いを沈めて義家は褒章をもらえないこともあったけど。。。

◆源氏は、東北制定に上古代からのその筋の由来の天皇から遣わされた者たちであったから、「青山」という姓を義家に名字をもらったこの墓のご先祖は、忘れぬようにとこの家紋にしたものだと思われる。NHKの日本人のお名前でやってたな。地方豪族で、俺は国権側の協力をしたんだぞと いかばかり誇りに思ったことだろう。16枚が天皇家の菊の御紋だから花弁が下位の者は枚数が少ない、でこれは14枚。草彅剛の草彅もそうだというのは前にブログに書いているよな。弓のうまかった義家の前を草をなぎ倒して道を切り開いて貢献したので名字をもらったという。「彅」という漢字のなりたちが「弓」に「前」に「刀」と書くのが”なぎ倒す”の意味だってさ。田沢湖に行く途中の「わらび座」に行く途中に確かにその部落があったなぁ。ところで、・・・

◆先までのブログ。山形県の出羽三山と関東武士の深い繋がりを理解されただろうか。つまり、極論をいうとね、僕が黒子と言っているのは紀元前からのこの地上の人をも創造したという神を信じて来た民族、つまりそれは、神の存在のこの地上での証明のために存在せしめられたと言われる選ばれた民、ユダヤ人、世界に離散させられた彼らが、その使命を受けたが故の歴史の歩ませ方が、この国の表だって学ぶ歴史の実の深層に関わって来ていた。つまり彼らが国家に東へ行こうと歌われ、順次、島々まで行くと旧約聖書にある、日本を暗示するのだけれど、確かに彼らはこの日本に順次帰化同化し、彼ら各種族の歴史を動かす演出をし続け、戦い、しかし、深層には神の理想の国を目指すという神の思いの実現の下に、黒子として暗躍し、あるいは表だってヒーローを作り出し、加担し、世論操作し、あるいは排除し世相を動かし歴史を作り出していく、そのもって生まれた神からに使命というようなDNAをもっていたからに他ならないからなのであろうと思われて来るのだ。そのような考えが、まさに旧約時代を生き抜いてきたユダヤ人的思考なのだと思うのだな。この発想は、やはり彼らがモーセの出エジプトやその後の捕囚から帰還した、先祖が身に受け、抜けきれないDNAだったと思われる。そして、それを、つまり世界人類に神の存在を知ら占めるための世界中への離散を起こし、世界の人々への同化を図っていったわけなのだという摂理を思い浮かばさざるを得なくなるのだ。現在もその摂理が働いている・・・。

◆古代、先人の利根川近辺の鹿島、香取は、神事を執り行う専門職、つまりユダヤ的にはレビ(司祭、神の言葉を取り次ぐ、あるいは王に神の言葉を伝える役割をもつ)の礼拝所だったわけです。太陽の昇る端に先陣としてきていた来た彼らは、それぞれのレビ(旧約の祭司)を自分たちの部族に中臣、忌部の二部族が預かっていた。本来、政治に係わらない彼らが、新しい神である仏教を天皇が取り入れることによって、あからさまにその政治を動かすDNAがうずき始め、政治に係わるようになってくる。中臣とはのちの藤原である。武御雷という神になって鹿にのって春日大社と今ではなっている社(やしろ)に乗り込んだと言われるが、中臣鎌足、のちの藤原鎌足になり、天才政治家、藤原不比等を輩出、自分の家系のみを藤原とし天皇にも近い地位を持ち家系存続を画策した。実は自分の手は汚さないこの時代の陰の黒幕だったのではないかと言われる。本来の東国、関東を無視し、天皇よりの大和、九州地方からの日本の歴史へと編集していく。頼朝が藤原をみちのく平泉に成敗したのは、弟義経をもヒーロー仕立てにしたてあげ政治を画策しようとした、今までの東国ユダヤ人のと言えば極端だが積年の思いがあった為であろうと思われる。藤原三代はミイラとして残っている。四代目、泰衡はこの秋田の大館で裏切りに遭い亡くなっている。やはり彼らは旧約を知っていた者らだったのではないか。エジプトの地で大臣にもなったヨセフは、死後エジプトの地でミイラになり、そして、父の眠るカナンの故郷の地にモーセによって運ばれたのである。我らは地上においては旅人である。死後、天のエルサレムに帰還するのだと、そこまで考えていたのかは分からないけれど。

鎌倉時代の紀元前の古代から順次、日本に来た渡来人として帰化したユダヤ人たちは、個々の部族にレビ(祭司)がいて、それぞれの覇権を争っていたわけです。神が仏教の木や石の神々に代わったが、彼らが守護地頭に連なるものとして利用され、その争いは旧約聖書の列王記や歴代誌の物語にも見られるではないか。あの織田信長の古い先祖は、祭司の忌部一族に遡るのだそうだ。当時の伴天連を受け容れ、体たらく横暴になった僧兵らに立ち向かい、延暦寺を焼き払ったのも彼の持っていた、あるいは存在した黒子の演出のもとになされたのではなかったか、と思われて来るのである。この国の人の信仰心というものの追及をこれからも続けようと思う。・・・ それでは、お元気で!!

 


〈Ⅴ〉この国の深層に今も流れる精神性について:親愛なるSへ(その21)

2022-03-18 18:50:47 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるSへ 東北の地、出羽三山と東国武士の関係を調べてみてよ。三山は月山、湯殿山、羽黒山で山形県にあるんだよ。僕も訪れたことがあるけれど、平安時代の著名な平将門が羽黒山の社殿を造営し、五重塔を建てたと知らされて何故に東北の地になどと驚いていたら、彼は当時「東国の世直し明神」として民間の深い敬慕を集め信仰されていたという訳だ。これも時代にヒーローを作って世直しをしようという黒子集団の考えだったのじゃないか。東北の地の山々には、古来から彼ら道の奥(みちのく)に修行の場とあらたなる未開の地を開くべく多くの修験者がいたからな。

◆本社には東の客殿大国主命と西の客殿熊野権現が客神としてまつられて来たらしいからオールマイティーみたい。平安時代中期以降は八幡神の本地仏である阿弥陀如来が三山のひとつの月山のそれになったらしいな。いずれ在来の山岳信仰と新来の宗教修行神仏混合が実践の場として起こって、修験道はそうして続けられてくる。さかのぼること蘇我と物部の争いを知っているだろう。蘇我によって逆境に立たされた皇族が逃げてこの北の地に独自の宗教の場を開いたというのだけれど(崇峻天皇皇子の蜂子皇子〈この人、顔が怖い〉が推古天皇元年(593年)に開くから、これまた古い)、歴史の変遷をへて修験者が多くなり教界も俗界もいずれもここを取り組もうとしていた長い歴史があったのだな。「八千八坊」と言われ大変な数の修行僧、僧兵がいたらしいのだ。底辺の流れは終わりなく今までも続いているのさ。古代からね。

◆郷土史などの我田引水の話と片付け方もできるけれど、前九年の役で源軍を助けて三千五百人もの僧兵衆徒の戦死者を出したという記録もあるらしいから、戦役で羽黒山伏が源頼義方について諜者や伝令として果たした役割は大きかったろうな。頼義の長子が八幡太郎義家なんだけど、東北各地には逸話がいっぱい。彼は敗戦して隠れたりするだが(頼朝もそうだったか)隠れている義家を訪ねて山伏が祈願状と弓矢とを請い受け、代わって神前に棒げ祈祷すると、形勢逆転安部氏が滅んだという。義家は社殿を修造、神の恩に報い陸奥、出羽、信濃、越後、佐渡など羽黒山の敷地として恩に報いたという話もあるらしい。歴史も以降、僕らの知っている武将はこの羽黒山に殆どかかわっているのを知るとへぇ~そうなんだなぁ。

◆鎌倉殿の13人に快僧がでてくるだろう。背後には実に多くの僧兵がいて、よく言えばこの国をいい国にしようと祓いをしていたわけだ。何故なら、飛躍して解釈すれば、彼らは唯一の神を信じてこの太陽の昇る国に先祖が旅をし続けて理想の国つくりを願ってきた渡来帰化人のレビのDNAを持った先祖をもつ人々だったから(と僕は解釈する)。あの時代、先人の彼らに大和や北九州に後釜の輩が来て天皇を巻き込み、新しい宗教だった仏教を取り入れ、同根の神を信ずる関東に住んで都からの政治にかかわらなかった先人の輩の物語が、いよいよ歴史に顔を出し始めたのが関東の東国武士の鎌倉時代なんだな。仏教もこの国のアイデンテティーをもった時代だった。親鸞が徘徊したのは関東だったろう。浄土真宗はキリスト教に近いと言われているし。

◆古代失われたといわれたユダヤ人の部族は、順次、太陽を求め関東に流れ着いていたと。九州に後発に渡来したユダヤ人は、大和にいた神々その他の神々を天皇の権威を背後に出雲に封印したのではなかったか。古事記にある大国主の命が兄たちに野原に火をつけられ殺されそうになるところを、ネズミに助けられた場所は「焼津」であるそうな。陸奥に越と東海に使わされた将軍がともに会おうと約束した場所が「会津」なのだそうな。しかし、当時の場所として彼らが多くいたであろう関東はどうなっていたのかわは、殆どわからない。(注意:ユダヤ人の定義は本来、違うがわかりやすく書いた)

◆しかし、古来、鹿島、香取の彼らの基の社(やしろ)は存在したのだな。「古事記」の三種の神器が出てくる章に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが表れるが、それが中臣の連の祖、忌部の連の祖なのであってこの二つの士族は神を司る仕事を占有していたわけだが、つまりレビだった。鹿島の「鹿」がタケミカズチとなった中臣が鹿に乗って都の奈良に乗り込んで「大化の改新」の事件を画策していくわけなのである。まさに政治的天才、本来、政治には直接かかわらないレビが政治に関与し、藤原の栄華を築いていくわけなのであった。諏訪に追いやられた部族が「御頭祭」と言って今ではやってないそうだが、鹿の首を切り取って神事として捧げる行事があったのは、なぜか反旗を翻しているように思われるね。

◆結局、源頼朝は弟である義経などをヒーローに祭り上げ思うままに政治に関与しようとする藤原氏を平泉に成敗したということになるのであけれど、藤原氏は今まで決して自ら手を汚さない。権威のある地位にいるという今までの政治の画策ごとを、源氏は許さなかったのだなぁ。出羽三山の衆徒が加勢したのはその本来の理想の国のあり様を実現しよと願っていたからなのだと思う。藤の花は、他の大木に寄生するからね。

◆源氏である徳川家康が何故、江戸に幕府を開いたか。この日本ので東の京であるとされた東京が首都となったか、解るような気がしてこない? 考えてみると、歴史を動かしている深層で、面には決して出て来ない黒子が今もいるのではないだろうか・・・と思ってしまう。 それでは・・・END


〈Ⅳ〉不思議なこの国の礎は黒子の存在を暗示する:親愛なるSへ(その20)

2022-03-17 16:43:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  親愛なるSへ、先日書きたらなかったことを追伸します。

◆鎌倉殿の背後で暗躍した黒子の正体のヒントはこの写真にあります。東国武士が歴史上に現れて、歴史を動かしたのは、集団的相違がありながらも黒子たちが、祈祷によって啓示された国の時勢を先んじて大いに活躍したからなのだ。この地は筆頭であって、東北の各地には今も様々な信仰の形が残されている。「いざ、鎌倉へ」と参じた多くの僧兵はこの当時の聖地に最も多くいて関東、東北の各地の仲間に声を掛けたのだ。彼らの謂れといえば、これもこの国の古代にさかのぼる。古代神聖な神の宿るところは山であり、岩であり、巨木などであった訳で、今も山の頂上ばかりか、登り口に異界を感ずる気配を感ずるところがところどころにあるのを感じるね、少なくとも僕は。神社という社(やしろ)が出来てきたのは、言葉や文字を駆使する渡来人が国に同化して日本人になった神々と称した彼らがいたからなのだということ。しかし、都の天皇を背景にしたこれ見よがしの政治にまとわりつく御殿のような社(やしろ)に彼らは、神の啓示に対する謀反と感じていたのだな。東国武士は初め東北制定に用いられたのだけれど、根は大和や北九州の政権の歴史にたいして自己を守っていくためにも(この地にはさらに古代の同根である帰化人たちがいた)一致団結すべく反乱を起こしていくわけだ。

◆この国の山々は登りに程よい高さだし、第一清める川の流れがきれいじゃないか、太陽が昇るこの島国、山でご来光を拝むことができるこの国は素晴らしい国ではないか、という彼らは第一に思った訳なのさ。政の中間に立つ彼らは、神からのご神託を受けて、決して名前があがらずとも実際にこの世に神のご神託のあるべき姿にしようと行動したのだな。

◆人生の2/3くらい生きて来てようやく僕はこの国に精神的基底を発見したように思っているんだ。そう、今も厳然と流れているね。この正月もBS放送で、世界の民衆の宗教を少しく観た。必ずというほど、正月にはまず、お寺の除夜の鐘をはじめ神社詣で、由緒ある神社や今も行われている荒行や修行僧などの映像を見るだろ。高野山の空海に毎朝供物を捧げることや延暦寺の千日回峰、永平寺の修行僧、それからスペインの聖地巡礼、エチオピアの地下教会、インドのヒンズー教の寺院の人々の祈り、今年の正月は興味深々だったな。

◆雪がいつもながらに多かった東北は、朝目覚めたとき、えらく寒いわけ。ただ、永平寺の僧は4時半にに起床して5時から座禅を組む、150名ほどが息を白くさせながら道場にはいる。マイナス10であると。御粥とたくあんとゴマとみそ汁など、些細な食事。道元禅師はお経など何も隣国などから持ってこなかった。「只管打坐」と。言葉や文字を超越している所作の中に求める物があると・・・。当時の仏教界へのもの言いで、延暦寺の僧は永平寺をつぶそうとかかるが、波多野という豪族が助けるんだな。仏教界の陶冶、宗教界ではいつの時代も起こりうる。歳末助け合いで、雪の中、お坊さんが編み笠をかぶって杖を片手に五人ほどで街を歩く。僕の町では曹洞宗が多いからなのか。少なくとも、太陽が昇る東の果てのこの島国でこのような形而上学的、精神性の継承が行われていることにこの国は決して亡びることはないだろうと思ってしまう訳です。

◆結構、知られる渡来して帰化した秦一族は何故、歴史上に殆ど出て来ないのだろう?聖徳太子のブレーンとして働いた秦河勝の出た秦一族は、まさにとても神の御心に沿った良心的な黒子だったろうと思うのだけれど。今も名前を継承するとか変化して、秦、羽田、畑、波多野、畠山とか・・・優秀な方が多いように思うな。僕が多くの渡来人が日本に来て帰化して、日本人になってこの国の民意が隣国などに比べて高いように思うのは、まさに彼らが日本中の各地にレビ(根が旧約聖書の民という設定をすると、記紀などで海から来た神々が同根のように書かれているように読める、国譲りとかね)が、自分たちのもって生まれた神からの使命をこの国に広めようとこの東北の山々にも修行して歩いたからではないだろうか、と時折、思う。ハレ、ケガレ「我清ければ、汝らも清かるべし(聖書)」と。それが民衆に根付いているように思う。

◆太秦(うずまさ)は映画村。タイプで”うずまさ”と打つと大秦(だいしん)と漢字が出るでしょう。これは元はおなじで古代ローマのことなのね。僕が聞いているところによるとあの中国を統一した秦(しん)という国が漢に惨敗し、日本に渡ってきた秦氏(はたし)が大変な技術集団だったらしいので、機織(hataori)は秦(hata)からきているらしいし、お酒や漆や製鉄や芸能(能などはまったくそうである)、所謂、何からなにまでという感じで技術をもたらしたらしい。で、彼が元は西からきた失われたイスラエルの10部族の一族だったろうと言われているのは、youtubeでもよく見ることができる。それどころか、僕は古事記などに出てくる神々は海から来たと所どころ書かれているでしょう。彼らは時代を経て順次、来ていたんだな。当時の後発でこの国にたどりついた秦氏らは、当時の天皇に機織物をうずたかく献上したので、その場所が太秦と付けられたらしいのね。

◆神道大辞典などで八幡神社と調べるとね、八幡神社は渡来し帰化した秦氏が日本にもたらしたものだと出ている訳。太陽の昇る今の利根川の東先端部にある鹿島、香取神社は、もっと古くから来ていたわけで。八幡は九州の宇佐八幡が基と言われているけど、部族の中で秦氏は後発で大陸にいる間に(旧約の民だったから)、出て来た故郷に自分達の先祖が将来現れるであろうといわれた救い主、つまりイエス・キリストが誕生したと西からの頼りをを聞き及ぶわけだ。ネストリウス派(景教)と言われて、マリアは聖母といわれるが、カミの母とは言えない、と分離された東ローマから東へ伝道をするだな。当時宗教に寛大だった隣国中国では大変流行したらしい。空海が唐へ行ったとき師の恵果和尚から景教の寺も見るようにと言われ、影響を受けたんだと思うよ。当時、「大秦景教流行碑」が建てられ、そのレプリカが高野山にある。高野山大学では一般教養で聖書も学ぶらしいから。

◆で、秦一族はキリスト教に改宗したんだな。それで、政治の面舞台には日本でキリスト者が0.1%にも満たないといわれるように顔をださない、そう思われてならないのだ。キリストを信じた秦氏は、日本の民衆に神を伝えよとしたんだよ。だから、日本のあちらこちらに八幡(yahataとかhatiman)という地名や神社が多数あるんだな。近江八幡、代々木八幡、僕の近くの住所にも多数ある。秦剛平とかいう聖書学者もいるからね。

◆この国は、テルマロマロエの漫画で、平たい顔の種族がもともとだった訳だが、曰く、順次彼らが、この国に同化してまあ、優秀なというか、深層では同根の唯一のカミ、天地創造のあの神様を信じていた部族が、生命の基であろうとそこの地を目指して東へ東へ来た訳なのだ。んで、鹿島や香取のその先は、もう太平洋だからそこに古代ユダヤ人のレビ(日本では神官)達が礼拝所を設けたというわけなのだね。そういうDNAが多く入り始めたので、活躍する東国武士の源頼朝が鼻が高く、細おもてのうりざね顔のイケメンであったというのは、遺伝学的にも確かなことなのね。

◆後発で大和や北九州の古代の物語が記紀として著されるけれど、本来の関東には先んじて部族、それぞれは来ていたのだな。そこで、まさにユダヤ的に(彼らは旧約読むと神の御心であれば殲滅するでしょ。怖いことに。始祖ヤコブのように現生的に欲を満たすこともやるといえばいいか。)本来、自らの神の取次をし啓示を知らしめる立場にある預言者が、政治に恣意的に入り込み、自らのこの世の地位と権威を永遠なるものにしようと天皇の地位を利用し、しかも黒子たる地位をあくまで隠し、政治的天才の素質を笑わし影響を及ぼしていくのが、中臣(のちの藤原)なのであった訳。(この発見は僕にとっては大事件なのさ。まったく政治的天才だよ。)金の湧き出た東北、平泉、馬の供給地でもあり、北の日本海での広域にまで支配が及んでいたが、仏教による安寧な国を築こうとしたが時代のヒーロー義経を作ろうと画策してきた藤原氏、東北の地に藤を佐(たすける)と名字を多く与えた佐藤が多いのはいかに盛大な権力であったかは、NHKの「日本人のお名前」でも知りうるところではあるなぁ。・・・長くなった。続きは次回・・・


〈Ⅲ〉何故、頼朝は義経を殺したのか:親愛なるSへ(その19)

2022-03-15 17:17:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるSへ 先日は、ご自宅に訪問させていただきありがとうございました。お美しい奥方にもお会いできて。ところで君が意外や僕のブログを結構読んでくれていたんで驚きでした。引き続き僕のテーマは変わらず、今生の次元とそれに同期している異次元のハザマのあれこれなので、ブログアイコンと同じ爬虫類イモリなのだな、また、内容に忠告なりをしてくれたまえ。

◆僕はもの作りの仕事にかかわることが出来てよかったと思っている。それは、中途半端な爬虫類にはない緻密で合理的に数値で精査できる、しかも実体として目に見える完成された物として確認できるというすっきりさがあるからね。物理だね。有機化学は別だよ。科学も人に近づくともやもやし始めるというのかな。あれにも携わったんだけど、今は理屈は高校化学Ⅲとかでも学ぶんじゃなかったか、レジン。冷えると固まるフェノールという劇物は簡単にやけどする。昔の”いぼころり"という薬は、これだったのかと臭いで分かったのは、つまり肉片を溶かす薬だったのだ、ということはこの経験で知った。有機は同じ原料でも産地によって微妙に反応が異なるわけだ。まるで使えないのもある。原料は海外でも安価なところからなのだが。熱や圧力や閉鎖環境で自己発熱が起こって、化学反応が自力で起こって進んでいくんだなぁ。亀の甲の有機は苦手だな。

◆人体もそういうところがあるだろう。君と話したあれこれなどは、文系にかかわることで、その真理が誰にも当てはまり理解する検証が究極のところ出来かねるとう歯がゆさがありますね。それがそのように行えば、同じ再現性が現れるという、しかも人が役立ち社会の繁栄をもたらすものであれば、産業がおこり社会の繁栄と幸福がもたらされるかもしれませんが。しかし、逆に科学はそのことの故に命まで大量に破壊できるという手段ともなりえます。医者である貴殿には、検体を解析して患者がどのようにであろうとの前に、その検体がどういう進度で細胞を破壊しているか、今までの判例をもとにまずは従来のものか、破壊の進み具合やその症例のサンプルの回収となるのかもしれません。前線にある医者なら、患者のあれこれまで考えるでしょうが、君の場合は、次から次へとくる資料にただ結果を出すだけのようですから、といっても大切な人命救済にかかわる仕事には変わりないでしょうけど、結果を出す、つまり途中経過の重要な役割を担っているわけだ。

◆ここでなんだが、文章という記録が残され、著者が権威があり記録として残して他の歴史と呼ばれる記録がないとすれば、後々の学問は文献学なりといっても、その制限のあるであろう記録は何をもってこれが日本の歴史と言えるのか。文字というものもままならない時代、先の見えない未開の君に権威が与えられ、人がいうとおりに動き、家系を絶やさずその歴史的地位にいようとして、自分の思い通りに記録を画策した場合だ。つまり、理系ではなく、文系の場合、絶対的権威ある側につき代役も果たせるものとなったものがこれが記録であり、歴史であると残した場合、医学はそうではないだろうけど「白い巨塔」ではないだろうが、君が検体の解析をミスしてそれが人命を落とす事態になった場合。それはミスではないと権威で押し切った場合。しかも、歴史がそれによって作られていった場合。

◆あの鎌倉幕府創設したイケメンの頼朝の肖像画は、実は頼朝ではないのでは、といっても弟の義経も美形だったという話は、いずれも変わらずあったというのは動かない話であり、しかも「源氏」は、字の通り、古来からこの国の源流は、我々なのであるという関東武士、東国武士をなした徳川幕府まで、その底辺に流れてきたのであることは間違いないことなのだ。何を言っているか? あぁ、古代に順次、日本に帰化して日本人になった根の思考がユダヤ人的なのかもしれないということ。彼らは同じ神を信じて来たからね。旧約聖書を読むと訳の分からん部族同士の争いがあるから、神の計らいの元に、その活劇をこの日出る国の島で行ってきた。まさに黒子たちは、その大陸からのそのような大衆操作、プロパガンダを屈指してきた連中で、その政治操作を内面知って動いた者達だったのだのではないかと・・・。大河ドラマにも怪僧が出てくるでしょう。実に多くの背後にこの時代、動いたのだな。

◆なぜ、奥州平泉に仏教による理想郷のごときを作ろとした藤原が、頼朝に成敗されたかというえば、義経をバックアップし世的アイドル化をしてあやつり、世論操作で歴史を動かし、先祖において古代から権力中枢に入り込み大和、北九州での覇権の歴史に書き換え、古代歴史には残らない同根である東国の我らは見ているぞと、古代先祖中臣がレビから政治の中枢に上り詰め画策しはじめて来た藤原の4代め泰衡を成敗したいうわけなのであったのだ・・・と思われてくる。つまるところ武士のように争いにより改革しようとする衝動は大陸からのDNAがユダヤ的だということ。日本各地に散らばった黒子たちは、この日本の人々に需要な形而上学衝動の源泉で一気呵成で賛同し「いざ、鎌倉へ!」となって歴史を動かしたのである。彼はまた、この国の一様な精神性を作り出した重要な働きをこの国の人々の心の歴史に残してきたのであるなぁ。・・・長くなった、また、メールします。 from G


〈Ⅱ〉源頼朝の肖像画はなぜイケメンなのか:親愛なるXへ(その18)

2022-03-12 10:53:37 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ◆Sが見向きもしないブログなどに関して、たまたま読んだらクレームをつけたいと思ったのか、少しく話したいと連絡があったのだ。学生時代のアパートから、しばらくぶりに遭いたいと聞いて出向いた先が、数年ぶりに呼ばれた住所が勤務の大学病院から15分ほどの元の一軒家だった。院まで卒業して、そのまま研究を続けたいのか、落第したからなのか分からんかったけど。やぁ、やぁという具合で、借家だったけど、いずれ故郷の北海道に帰って開業するんだと話していた。歳のわりには老け顔で、医学部に入るくらいの奴は脳みその皺が多いんだろうな。函館ラサールを出て、そこは寮生活だったろうから、ご両親は田畑売って息子の学費を送り続けたんだろうな、などと思ったりした。・・・それはそれとして彼からのブログへの忠告は次のようなものだった。

◆この国は湿気が多くて酸性土壌とすれば、古代から人の骨は残っていないだろうとブログに書いていたことは、間違いであること。ただ、条件があるという点で。これは研究資料から。次に、これは推論だけで古代から歴史の背後からプロデュースしていた黒子は、今、鎌倉殿の13人の大河ドラマをやっているが、古代からのこの国にいすいた黒子が厳然と今も働いていることをアピールしているのではないか、ということなどであった。この後の方の話はとりとめもなく大きくなるのでいずれ・・・。

S:「お前のいつもいう聖書ね、あの世界のベストセラーは、わざと読みずらく書かれているのではないのか、なぜなんだ。黒子集団が後で編集しているんではないのか。少し、専門書のようなもの、神学者の本を読むとね、確かに神の言葉だからそのまま元の文字や書いていることを変えようとせんだろうけれど、第一、文字自体が神聖なものらしいからさ。けれど、現代の神学者がいうには、この章は飛ばして、この章につなげるとすっきりする、間に編集者(僕の言う黒子だろう)が文章をうやうやしく挟み込んでいるに相違ない。と書いているのに、まさにそう読めばさもありなんの文章となるな。これは一体、どういうことか。」

G:「いや、そうかもしれない。それは、旧約聖書の中にも神の使いと呼ばれるような人が訪れてきたり、助けたり、キリストのよみがえりに墓の傍に白い服を来た若者がいてとか・・・。実際、僕らは目には見えないけど、いや、誰かに入り込んで本人も気が付かずその黒子まがいの働きをしている人が多数現存するんでしょう。気が付かないだけですねぇ。・・・で、彼らがこの国の古代から順次、帰化して住み着いて歴史をなして来たのであろうというのが帰化したユダヤ人・・・、いや、宇宙人ではという人もいるらしいけれど。」

S:「源頼朝のあのイケメンの肖像画は本物なのか、違う武将ではないのか、と言われ、僕らは日本史ではあのイケメンの肖像画だったけどね。今、教科書に載ってんのか、あれも当時の黒子のプロパガンダだったのかもしれんけど、第一、弟の義経も美形だったしいから、彼も16歳ころまで鞍馬山で修行したというから、んで、まさにその教育者の天狗が黒子一族でだっただろうと思われてくるな、お前のブログを読んでの推論を押し通すとさぁ。」

G:「結構、読んでんのね。ポチしてくれよな。」

S:「海外では研究例は少ないらしいが、幸い、お前の話とちがって日本では、縄文、古墳、鎌倉、室町、江戸時代まで連続的にそれぞれの骨が残ってんだなぁ。無論、昔は土葬だし、多くが桶に遺体を入れたから土に埋めれば朽ちるもが多いだろうけれど、骨が残っているというのは、その時代の地位のある者はそれなりに、丁重に埋葬されただろうからね。そこでだ。頼朝の肖像画がうりざね顔のイケメンなのは嘘ではないんだなぁ。一連の骨を頭蓋骨を見ていくと時代と共に変化していってて、まさに鎌倉時代が頂点なのだ。つまりすらりとした美形骨格の顔つきになるのは。お前がいうところの東海、関東には多くの大陸からの帰化人が流れ着いて、つまり草木成長に欠かせない太陽を拝みに流れついたとなるだろうけれど、鎌倉は関東武士の活躍した時代な訳だ。関東ローム層で田畑はダメだったのではと言われているけど、彼らは海からの豊富な魚を食ってたんだ、それを肥料にしていたんだな。後の江戸前寿司にもなる魚・・・つまり、人の進化の上で食っているものが、食生活の進化によって巨大な歯と頑強な上下の顎は、時代の経過とともに縮小、退化して原人が旧人となり新人となって、ジャガイモ顔からきゅうり顔になってイケメンになったという訳なのであるなぁ。人も文化によってよって顔つきまで変わるんだな。・・・古いけどこの研究も結構されて来てるのよね。人間の進化と文化、日本人形質の時代的変化のグラフもあるけど・・・読んでみる?」

G:「今の日本の首都、東京になったのは、彼らのDNAが、古代からこの国のあちらこちらに黒子を派遣して、ここが日本の首都となるこの地、古来から祖先がもっともはやく住み着いて最も相応しいと彼らが、見込んでいたからなのだなぁ。背後で活躍した黒子のDNA集団が争いの無い理想とする国作りをし260年間も続いた徳川家康の時代を開いた礎に結集したと思っているんだ。取り巻きのブレーン(黒子の書斎派と言えるだろうが)それが居なければこの国にの精神的礎はなりたたなかっただろうと思ってるよ。それを追い求めている訳。それが人を創造して誰もが死んだら次の世界まで備えていると衆生が考える、世界人類が考える”天になるごとく地にもなさせ給え”の働きに加担すべく今も黒子たちは働いているという訳さ。」