「預言」と「予言」。
両者は似た言葉でありますが、意味は全くことなります。
まるぞう流解釈定義によりますと、
預言は神様からの忠告・苦言です。
予言は魔物からの誘導魔術です。
たとえば試験前の学生がいたとします。
もし彼に預言が与えられたとするならばこういうものになるでしょう。
日々怠惰な生活でテレビゲームやスマホにうつつをぬかすならば、赤い数字が汝を後悔と絶望の日々を与えるであろう。
とか、
毎日少しずつの予習と復習という習慣により、汝は賞賛と希望を神から与えられることになるであろう。
などなどです。
とにかく人々を良い方向に誘導したいという目的が根底にあります。
基本的には苦言や叱咤でありながら、しかし自暴自棄にならないように希望もところどころに取り混ぜる内容となっています。
しかし予言は違います。
人間を努力することから逃避させるのが目的です。
たとえば試験勉強から逃避したい学生に次のような予言を与えて見ます。
西側の窓ガラスが割れる時、成績と全く違った尺度で人は評価されることになるだろう。
今まで成績の良かったものは奪われ、成績の悪いものは与えられるだろう。
その生徒のしるしは「1」と「3」。
たとえばこんな予言があったら、もう勉強しない生徒が続出でしょう。
だってただでさえ逃避したいからです。
1と3ってなんだろう。
1年3組かしら。出席番号13番ということだろうかしらん。
1月3日生まれということかしらん。
1は最初をあらわし3は統合をあらわすから、市ヶ谷さんと東郷さんかしらん。
もうその謎解きに心を奪われることでしょう。
そしてこの予言を成就させるために、学校の西側の窓ガラスを破ろうとするものも出てくるでしょう。
いずれも肝心な試験勉強がもうそっちのけです。
これが予言の目的です。
予言は、未来は白紙で自分の努力によっていかようにも変えることができる、ということから遠ざけます。
それは占いと同じです。
あなたは30歳まで結婚できませんね。とか、
来年後半でビジネスで大きなチャンスがあるでしょう。とか、
このような占いは本人の白紙の未来を無意識に誘導します。
本来はするべき努力をしないですませる口実になります。
どんなデタラメでも占いの形式になるとその人の思考を水面下で縛り始めます。
この預言と予言の定義でいいますと、ノストラダムスが残したのは大預言であったといえるかもしれません。
彼の預言のおかげで1999年に人類に起きたかもしれない危機が回避された一面があると思っています。
災害災難について、多くの人が意識を合わせるとそれは起こりづらくなります。
「備えあれば憂なし」とか、「天災は忘れた頃にやって来る」とは人間の想念の実現力の視点では本当のことであります。
人々に最悪の想定を常に想起させる必要があるため、預言とは苦言になりやすいです。
さて紀元前6世紀の時代、北イスラエルと南ユダがバビロンに攻められ捕囚された時代、ユダヤ民族にはいくつかの預言と予言がもたらされました。
イザヤとエレミヤとエゼキエルという三つの預言と、ダニエルの予言でした。
三つの預言とは神(=民族の良心)からユダヤ民族への苦言であり、
一つの予言は魔物からユダヤ民族に与えられた誘惑でありました。
つづく
上記は静止衛星軌道上で観測される太陽からの電子密度グラフです。急な変動がある場合は地震や事故に備えて防災意識を心掛けましょう。特に注意が必要な期間は、メールやTwitterで防災意識リマインダーを受け取ることができます。詳しくはこちら。
おひさま、ありがとうございます。