「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
私は正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くために来たのです。」
(聖書マタイ9-13)
イエスは軽蔑されていた「罪人」と食事を共にし親しくしていました。それを批判する人たちに形式にしばられて生きるのではなく、ほかの人に対する愛をもって生きなさいといいました。
ここで思い出したのが日本の仏教の僧侶「良寛」です。
ある町に入り、遊郭(ゆうかく)の前を通り過ぎた。
その時、一人の遊女が良寛の袖を引き泣き出した。
良寛は訳が分からなかったが黙って立ち続けた。
そして、声をかけました。
「何があったのか、どうして泣いているのか?」と。
彼女はその訳を話します。
「わたしは幼い頃に事情があって、生まれ故郷を離れ遊郭(体を売る所)に暮らすようになったのです。
父母の姿がどのようであったか覚えていないけれど、お父さんお母さんを慕う気持ちが強くて、とても会いたいと思っていました。
昨夜父が会いに来てくれる夢をみました。
そして、今あなたを見て、お父さんに違いないと思ったのです。」
良寛は彼女の涙をそっとぬぐってあげ、その手を取って優しく話しかけた。
「今はたくさん泣いてもいい。でもまた元気を出しなさい。
今までつらい事にも、たくさん耐えてきたね」遊女は良寛の言葉に聞き入ります。
「仏様の教えは、このように説かれているのだよ。
今つらいことや耐えがたいことに耐えている人には、やがてその百倍も千倍もの良いものが与えられると。
仏様の真の教えというものは、つらい事に良く耐えて、その命を精一杯生き抜いた人を決して裏切ることはない。」彼女の顔には、かすかなほほ笑みと安堵の色が浮かびました。
「元気でいれば、その内またきっと会えることだろう。だから、つらい時にもくじけないように勇気を出して、生きていくんだよ」
そのあと、良寛は遊女とおはじきをして戯れていた。
それが、僧侶の身であるまじき事と非難を受けたが、良寛は「遊女もこの世を生きている人間、自分もまったくそれと同じこの世を生きている人間である。」と答えたといいます。
神が求めるのは苦しむ人と共に苦しみ、彼女らと同じに見られることを惜しまない深い思いやりの愛なのです。
イエスの言葉、良寛の言葉を心に刻んでいます。
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