「春なれや(春だなあ) 名もなき山の 薄霞(うすがすみ)」 (野ざらし紀行・芭蕉) 朝や夕方に雲に日が当たって赤く見える現象を霞(かすみ)といいます。 冷え冷えとした「霧」は秋であり、やさしくたなびく「霞」は春そのもの。 「霧」は深く立ち込め 「霞」は夕方遠くに淡く見える。 夜になると「朧(おぼろ)」と表現が変わります。 春になりました。 長い冬が過ぎました。 しかし、友の住む青森はまだ雪が降っているとか。 待ち遠しいでしょうね。 春はすぐそこですよ。 頑張って下さい。 合掌
早く死にたい、こんな命などいらない。 早く迎えに来て欲しい! と愚痴ばかりいうお年寄りがいます。 そう言う人に限って長生きしては苦しんでいます。 そこで命について以前書いた事を思い出しました。 『命が一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった 命より大切なものが あると知った日、 生きているのが 嬉しかった』 (星野富弘) 故渡辺和子シスターが、群馬県勢多郡東村の 富弘美術館を訪れ、星野さんと面会したときの感想を述べています。 「命より大切なものって何ですか」 とお尋ねしたいと、かねがね思っていたのに、いざその場になると聴けなかった。 質問しなくてよかったと、今は思っている。 なぜならば、答をもらうものではなく、私たち一人ひとりが自分の生活の中で求め続け、見いだしてゆくものだろうからだ。 ただ生きているだけの 自分ではなく、人々の愛、神の愛に気づいて生きていくことができる自分にお気づきになった喜びを詩に表されたのだろうと述べています。 「シスターも命より 大切なものを お持ちですかと」 尋ねられたら なんと答えるのだろう とも述べています。 災害時に救出されたとき気づくのかもしれません。 私は何度も命を落としそうな体験をしたのですが、その都度生かされたことに気づかされています。 多くの人の愛、神の愛に気づかされたからです。 神と共に歩み神と共にこの世に恩返しをすることで生かされているのではと感じています。 例えどんな境遇や不自由な身体になったとしてもそれは意味があることだから愚痴は心に納めていこうと思います。 それに気づくのは自分自身なのですから。 合掌
言葉について、 「音を響かせるのは風であり、風は生命の姿を私たちに伝えてくれる天空からの使者である」 (空海) 仏教には、開運のために、心だけでなく、言葉を大切にしなさいという教えがあります。 空海は言葉は 「心を伝える船」と 述べています。 私の導きの言葉になっています。 また、心理カウンセラーの植西聰(アキラ)さんは、世の中には、 運が良い人と、運が悪い人がいます。 両者の違いは、「心の流れ」にあると述べています。 心がプラスに向かって流れている人は運が良く、マイナスに向かって流れている人は運が悪くなるという。 心の流れがマイナスになっている人は、心のスイッチを切り替えて、プラスに変えましょう。 それには、次の3つの心を養ってくださいと述べています。 1.積極心 情熱をもって前向きに 行動する。 2.楽天心 逆境にあっても楽天的に考えて快適な心を保つ。 3.愛他心 人を尊重し、人のために、貢献する。 この3つの心を育てると、心の流れがプラスに変わり、運が良い人になれるそうです。 今日を生きる力になれば。 合掌
『禍(わざわい)や 辛いことは 気づきやすいが、 幸せは気づきにくい』 と思いませんか。 だから、一日の内に嫌なことが一つでもあれば、感じにくい幸せがあったことさえ気づかなく今日一日悪い日だったと思い悩んでしまう。 そんなことありませんか。 人生は辛いことと気づけば、幸せを気づくゆとりがでると思います。 『人生は地獄よりも 地獄的である』 (芥川龍之介) 人生の苦しみは、突然やってきて、無理難題を与える。 数々の責め苦を受ける地獄よりもっと厳しいものだ。 それでも生きていかなければなるまいと述べています。 確かに、禍は突然やってきて苦しめるものです。 しかし、これが人生。 人生は地獄なんだから と受け入れれば少しは納得しませんか。 『人生のどんな隅にも 、どんなつまらなそう な境遇にも、やっぱり 望みはあるのだ』 (菊池寛) 恵まれない境遇にいても、全くの絶望ということはない。 人間は結構強いもので、苦しいながらも望みを抱いていれば未来へ道が開いていけるものだ。 僕の実感でもあります。 悲しみ、苦しみ、禍を 『地獄の花』とすればいい。 サクラの花が満開になれば楽しく花見をしますね。 地獄の花を受け入れて楽しめばいい。 少しでも心にゆとりが出ますように。 合掌
『キリスト様が亡くなられた日。 勝利の日であり、敗北の日のようでもある。 だれの勝利か、だれの敗北かと言うと、その判断はあなたに任せます。 でも私に言わせたら、 キリストの大勝利だとしか思わない。 一見反対者たちの勝ちのようです。 前から彼らがキリスト様を狙っていたから。 だから、彼等の勝利のように見えます。 ところが、福音を調べてみると、キリスト様は大声を出して亡くなりました。 ヨハネは、 「イエスは・・・成し遂げられたと言い、頭をたれて息を引き取られた」とだけ書き残しました。 この「成し遂げられた」という言葉は決して敗北者の言葉ではない。 「やった!ヤッタぞ!」という勝利者のような叫びでした。 自分が与えられた使命を全うしました。 他の三つの福音を見ましょう。 「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ27:50)。 マタイ福音です。 「イエスは大声を出して息を引き取られた」(マルコ15:37)。 マルコの福音です。 「イエスは大声で叫ばれた。 父よ、私の霊をみ手に委ねます。」 こう言って息を引き取られた。 (ルカ福音です)。 最後まで自らの務めを果たし、最後まで信頼して、最後まで力いっぱい生き抜かれましたキリスト様! そして言われました。 「父よ、彼らをお許しください」 (ルカ23:34) すごいではないでしょうか。愛の勝利です! 愛は憎しみより強い! 万歳主よ、万歳! そして、私たちのために命を捧げてくださったことを深く感謝します。 「実るほど 頭をたれ る 稲穂かな」 "A RICE POD SO FRUIT FUL IT BOWS ITS HEAD" またお会いしましょう。』 ~ペトロ神父~ そういう意味がある 金曜日なのですね。 今日もありがたい お言葉に感謝しています。 ★クリスチャンの読者よりメッセージが届きましたので紹介します。 度々聖書からの引用がございますが キリスト教のいう『愛』がどのようなものかご存知でしょうか? 与える愛だの尽くす愛だのいわれ『アガペーの愛』と呼ばれるソレのことですがあれは好き嫌いの感情のものではありません。 他者を愛するという強い意志のことをいうのです。 他人のことを自分のことのようにとらえ 誰彼わけへだてなく接することが愛なのです。 時々信仰者であっても誤解をし、好きになれないことが罪であるかのように苦しむ人がいますが 好きになれなどとは一言もいっていません。 そうではないのです。 嫌いなものは嫌いなのです。 何かの機会にアガペーの愛について 日記ででも説明いただけると幸いです。 好いたはれたはもちろん 感情をこえた所にある愛であるからこそ 人間は愛することができるのです。 アーメン ありがとうございます。 よく分かりました。 ありがたい教えに感謝です。 良い金曜日をお迎えください。 アーメン