人が動くと書いて「働く」。 ヘミングウェイは「働くのと動くのを混同するな」と述べています。 また、松下幸之助は「人より一時間、余計に働くことは尊い努力である。 だが、今までよりも一時間少なく働いて今まで以上の成果をあげることも、また尊い。 そこに人間の働き方の 進歩がある。」と述べています。 自分の仕事振りを振り返ってみて下さい。 動くことが、働くこと ばかりではないので。 「穢土(えど)の一日の修業は、深山の千日の修行に勝る」 という言葉があります。 穢土はこの世をいい、 醜い汚れた中で生きていく苦労は、一人きりで深い山の中に入って、千日間の修行をするよりももっと大変な事だという意味です。 今月も負けずに生きて行きましょう! 生きる力になりますように。 合掌
スピリチュアで有名な江原啓之さんの本を読み共鳴しています。
その中から供養について紹介したいと思います。
苦しい苦しいと言って亡くなった方の供養には 『良かったね、もう痛みがないからね』と声をかけましょう。
肉体はもうないので、痛みはないのですから、それにはっと気づくからです。
また、若くして亡くなった人には 『向こうの世界でやりたいことをしっかりやって下さい』と話しましょう。
幽界には現界にあるものは全てあるから。
愛する人を亡くした場合は別の世界に旅立っただけ、また会えるのですから。
また、儀式も特定の宗教しか通用しない儀式は霊界では意味を持たない。
お盆には御先祖様が帰ってくるという仏教も意味がない。
帰りたい時に帰ってくるものだから。
お供え物は好きな酒やタバコが原因で亡くなった場合はそれらを供えるのはタブーです。
この世に執着させてしまうから。
夜霊界が通る道の下でたばこを吸っていた仲間が前の壁に突然二人の大きな影が写ったと驚いていました。
たばこの煙で、成仏を迷っている霊もいるのです。
昨日の朝5時過ぎに丘を散歩していたら、二つの虹が出ていました。
ハワイや南国ではダブルレインボーと言って幸せのサインだそうです。
また、エンジェルサインと言って天界からの見た人への祝福、実現のメッセージという。
北の大地まで並行する二つの虹の不思議さに見とれていました。
朝陽がのぼると消え始め瞬く間にあたりは雨模様になりました。
一時のドラマに感激しました。
日本の気候も南国のようになったのでしょうか。
不思議な朝に出会い手を合わせました。 合掌
兄夫婦が住む葛飾柴又でお蕎麦をごちそうになりました。 帝釈天のことをいろいろ教えて頂きました。 柴又帝釈天の成り立ち 「~帝釈天で産湯を使い、 姓は車、名は 寅次郎~」映画『男はつらいよ』の有名なセリフの一節です。 帝釈天とは、東京都葛飾柴又にある「柴又帝釈天」のこと。下町情緒あふれる東京の観光スポットでもあります。寅さんファンなら誰でも知っている場所ではありますが、果たして帝釈天とはどんなところなんでしょうか? 東京都葛飾区・柴又帝釈天は日蓮宗の寺院 映画『男はつらいよ』の舞台でもあり、利根川水系の江戸川の西側に位置する柴又。 対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場があることでも知られています。 風情溢れる下町風景が広がる中、京成線柴又駅前から続く200mほどの門前町を歩くと、映画でも御馴染みの、大きな屋根と木彫が印象的な門が見えてきます。 日光東照宮の陽明門を模して造られたといわれる二天門。 いつも多くの人で賑わっています。 柴又帝釈天の正式名称は経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)といい、日蓮宗の寺院。 地元の人たちには題経寺の名前でも親しまれている名刹です。 柴又帝釈天はお寺なんです。 ところで、寅さんの口上の「帝釈天で産湯をつかり~」の産湯とは?境内に、「御神水(ごしんすい)」と呼ばれる湧き水があって、ペットボトルに汲んで持ち帰る人の姿も。 昔の人々はこの水を飲んで健康を祈願したのだそうで、きっと寅さんもここで汲んだ水を沸かした産湯に浸かったのでしょう。 江戸初期、1629年(寛永6年)のこと。 下総中山(千葉県市川市)法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)が、この地に立ち寄った際に、立派な松の木の下に泉が湧いているのを発見。日蓮聖人が刻んだと伝わる帝釈天の板本尊(黒塗りや白木の板に刻んだ本尊)です。 そんな日蓮が自ら刻んだと伝わる「帝釈天の板本尊」が寺に安置されていたはずでしたが、長い間所在がわからなくなっていました。 ところが1779年(安永8年)の春、庚申(かのえさる)の日、本道の修理をしていたとき、梁の上からこのご本尊が見つかったのだそうです。 日本には古くから庚申信仰(こうしんしんこう)という暦や季節と結びついた信仰があり、このころ江戸の町で庚申信仰が庶民の間に広まっていました。 そんな流行も相まって「庚申の日に柴又に帝釈天が現れた!」との噂が広まり、題経寺は大変有名なお寺になったのだそうです。 日蓮の板本尊が見つかって間もなくの頃、江戸の町では疫病が蔓延し、飢饉が続いて、人々は日々不安な毎日を送っていました。 いわゆる「天明の大飢饉(1782年~1788年)」の時代です。 第九代住職の日敬上人は板本尊を背負って江戸の町を歩き、飢えや病に苦しむ人たちに拝ませ救済したという話が伝わっています。 これにより、題経寺は庶民の寺としてさらに知られるようになり、人が集まるようになります。 庚申の日には縁日が催されていたそうです。 江戸時代、柴又のあたりは、江戸の町からちょっと遠出して遊びに行くような、小旅行エリアでした。 そのため、評判の帝釈天を拝もうと集まる人々向けの料理屋や土産物屋が出来るようになり、門前町が形成されていったものと思われます。 帝釈天とは仏教の守護神。 なぜ日蓮聖人は帝釈天の本尊を彫ったのでしょうか。 帝釈天とは、仏教の守護神である天部のひとつ。 古くはインドの神話にも登場し、ヒンドゥー教やバラモン教にも存在する、多くの人々に指示される守り神です。 帝釈天はもとはインドの神話に登場する英雄神、インドラであると考えられています。 インドラは天空や雷を司る神様です。 天部とは、仏教で「天界に住む者」のこと。 インドの神話の神様が仏教に取り入れられて生み出された神様が多いようで、帝釈天の他に梵天、弁才天、大黒天、吉祥天、韋駄天、兜跋毘沙門天、聖天、四天王(持国天、広目天、増長天、多聞天)も天部に分類されます。 また、”天”の字は付きませんが、鬼子母神や阿修羅、金剛力士・仁王、夜叉なども天部です。 仏像にはランクがあって、一番高いのが如来、次が菩薩、その次が明王で、天部は4番目。 天部はランクこそ4番目ですが、天界に住み、人と近い位置にあり、仏教を信じる心を妨げるものから人々を守護。 すなわち、仏教を護るという重要なポジションを担っているのです。奈良の東大寺にある法華堂には、高さ4mもの帝釈天像が、梵天像と共に安置されていて、国宝に指定されています。 お顔は険しい表情で迫力あり。 でも鎧兜や甲冑などは身につけておらず、人々に教えを説いているようなお姿をしています。 京都の丹波地方にある福寿寺には「京都帝釋天」と呼ばれる帝釈天堂があり、近畿地方の庚申信仰の拠点ともなっています。 江戸時代には「庚申さん」と呼ばれて人々に親しまれていたのだそうです。 大阪の寝屋川市の静照寺というお寺には、柴又帝釈天の分霊像と言われる帝釈天像が安置されています。 京都三十三間堂には、千手観音の従者(眷属:けんぞく)である二十八部衆の像があり、千手観音を信仰する人々を護っているのだそうです。 帝釈天は二十八部衆に属しているので、金剛力士や毘沙門天と共に安置されています。 日蓮宗では、帝釈天が法華経行者を護る守護神であると考えられているそうで、日蓮宗では帝釈天を大切にするお寺が多いと思われます。 見ごたえ満点!彫刻ギャラリーと邃渓園 帝釈堂の先に、柴又帝釈天のもうひとつの見どころがあります。 「彫刻ギャラリー」という施設で、見事な木彫刻を間近で見ることができるんです。 外壁に施された彫刻は、主に法華経の世界観をモチーフにしたもの。 1922年(大正11年)から12年もの歳月をかけて、10人の彫刻師が1面ずつ担当。 透かしや浮彫の技術がこれでもかと使われていて、思わず見入ってしまうほど秀麗で精巧。 今にも動き出しそうなほど生き生きとしています。 細かい装飾を保護するため、彫刻はガラス張りになっていますので、見入るあまりうっかり触れたり汚したり、といった心配もなし。 じっくり観察することができます。 境内の奥には、邃渓園(すいけいえん)という庭園があり、こちらも見どころのひとつ。 美しく手入れされた日本庭園です。 庭に降りて自由に散策できるわけではないのですが、回廊を歩いて庭を一周することができるようになっています。 このあと亀有の香取神社で足腰のお守り(利用者さんに頼まれた)を買ってから巣鴨に行きました。 皆様の生きる力になれますようにと祈願して参りました。 合掌
私の大好きな言葉です。 何度も紹介しています。 ある町に4人の妻を持つ男がいました。第1の妻は、彼の最も愛する女で、働いているときでも休んでいるときでも、決して離したくないと思っています。毎日化粧をさせ、寒いにつけ暑いにつけ彼女をいたわり、欲しいものを買い与え、行きたいと言うところには連れて行き、食べたいものは何でも食べさせ、彼女の言いなりに寵愛していました。 第2の妻は、大変苦労して、人と争ってまで得た女で、いつもそばにおいて可愛がっていますが第1の妻ほど愛してはいませんでした。 第3の妻とは時々会って慰めあったり、気ままを言い合ったりしている仲です。一緒にいると互いに飽き、離れていれば会いたくなる仲であります。 第4の妻はほとんど使用人と変わりません。彼女は毎日忙しく立ち回り、罵られながらも夫の意のままに立ち働いています。にもかかわらず夫からは何の愛情も受けず、慰めの言葉も掛けてもらった事がありません。夫の心にはこの第4の妻の存在はほとんどありませんでした。 ある時、彼は第1の妻を呼んで、「私はこれから遠い国へ行かねばならないが、私と一緒に行ってくれるか」と言いました。普段から勝手気ままな彼女は「あなたがどんなに私を愛してくださっても、そんな遠いところへ行くのはいやです」と言って聞きませんでした。 男は第1の妻の非情を恨んで、第2の妻を呼びました。「おまえは私と一緒に行ってくれるだろうな。苦労してやっと手に入れたおまえではないか。」 すると第2の妻は「あなたが一番愛しておられた女性さえ一緒に行かないのに、どうして私が行けますか。あなたは自分勝手に私を求めたのでしょう。私のほうからあなたを求めたのではありません。」と言って辞退しました。 次に彼は第3の妻に頼みましたが、彼女も「私はあなたのご恩を受けていますから、町の外れまでお送りしましょう。でもお伴はいやです。」と断りました。 男は半ばあきらめながらも第4の妻に「私と一緒に行くかい。」と尋ねますと、彼女は「私はあなたにお仕えしている身でございます。苦しくても、また死のうと生きようとあなたのおそばを離れず、どこまでもお伴いたします。と答えました。 彼はいつも愛していた3人の妻を連れて行くことが出来ず、やむを得ず日ごろ愛情のなかった第4の妻を連れて旅立ちました。 この中で、ある町とは生の世界です。遠い国は死の世界です。 彼の第1の妻とは彼自身の肉体であります。人間が自分の身体を愛する様子は第1番目の妻を愛する様子と変わりません。 第2の妻とは彼の持っている財産です。どんなに苦労して手に入れても死ぬときには持って行くことが出来ません。 第3の妻とは父母、兄弟、縁者たちのことです。生きている時はお互いに親しみ、離れがたい間柄ですが、死んだ時は墓場まで送ってはくれます。 第4の妻は彼の心(魂)です。 人間は目に見える物についつい心を奪われ、いつも後回しになります。 とくに他人を思いやる心は希薄になります。 私たちは自分の身体を大切にします。 大事なことですが、いずれそれは滅びてしまいます。 財産も家族もまた大切ですが、永遠に所有することは出来ません。 しかし、心は永遠です。 死後、残された家族やかかわりのあった人たちの心にいつまでも引き継がれていくのです。 以上が四人の妻の物語です。 魂だけはどこまでも ついていくのです。 第四の妻を大切にしたいものです。 合掌
『忍の一字は 衆妙の門(しゅうみょうのもん)』
忍耐はあらゆる道理の 成功の門という意味。 嫌なこと、悲しいこと、辛いこと、悔しいことなどたくさんあるのが人生です。
しかし、これらを乗り切る根本は忍耐しかない。 そういう諺です。
今悩んでいる貴方に捧げます。
「白雲自(おの)ずか ら去来す」
禅の言葉です。
夏の暑い日差しを受けながら畑仕事をしている。 太陽をさえぎる雲もなく、その暑さにじっと耐える。
遠くの方に白い雲が浮かんでいる。 早くあの雲がこっちに来ないかなあ、雲が来るまで仕事をやめようと考えたりする。
しかし、その雲は自分の所には来ないかもしれない。 雲が近づくまで待つのではなく、今すべきことにひたすら取り組むと、知らぬ間に雲がやってくる。
雲とは運のこと。
一生懸命に今やるべきことをやる。 そうすれば運は必ず巡って来るという意味の言葉です。
雲を追いかけても捕まえることはできません。 心に刻みたい言葉です。
九州の大雨被害に心からお見舞い申し上げます。 私も車が流された経験もありますので。 まだまだ残暑厳しいようです。 水分補給を忘れないで下さい。 合掌