山登りや険しい坂道をのぼる時に口に出る
『六根清浄』(ろっこんしょうじょう)という言葉があります。
これは、人生道で迷いを生じさせる目、鼻、舌、耳、身(触覚)の五感と、第六感と言われる意(意識)を浄めることを六根清浄といいます。
険しい人生を山道にたとえ、登りながら、六根を浄める。頂上に到達すると何となく身体中が軽くスッキリとする気がします。
季節がよくなったら
山登りもいいかも知れませんね。六根を浄めれば次なる景色が見えて来るかもしれません。ある程度の苦しみストレスを乗り越えなければ喜びを感じないものだから。山登りができなくても、ビルの階段、坂道、神社仏閣の階段登る時に六根清浄と口にしましょう。皆様の身も心も清らかになりますように祈願。
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。
日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。
「み」は水。
「だ」は垂れる。
泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。
「瞳の中にも空がある
澄みきった空がある
晴れ渡った空がある
時折涙雲になり
涙の雨が降る
そのあとは
まぶしい空が
やってくる
涙雲のあとは
瞳の空が晴れ
輝きを取り戻すのだ。」
もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉。(東京の警察から電話があり部屋で弟が死んでいたと連絡来てから1年になりました。身体障害者で良く頑張って生きたねと褒めてやりました。)
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。
静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。
騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。
静かな所にいけば、心落ち着くが、人生そんな環境など寝ている時にしかない。
楽しい時は誰しも楽しいに決まっている。悲しく、苦しい時に楽しみを感じてこそ真実の楽しみなんだ。これを「苦中の楽」という。
古代の人は意味深いことをいいますね。
今の自粛生活の苦難を自分を成長させる試練だと思って楽しさを見つけましょう。
ここでも心癒され勇気が湧いてくれますように祈願しています。
孤独とは惨め(みじめ)、気の毒、かわいそう、情けない等のイメージがあります。私はよく味わいました。
「孤独とは自分一人だけで充分満ち足りて充足していること。他の人のお助けには及びませんという毅然とした誇り高い姿なのです」
(三輪明宏)
孤独とは自分一人の足だけで充分大地を踏みしめて生きている証拠なのです。
そういう自信ある孤独になって欲しいと思っています。孤独に耐えたから人を思う力を頂けるのです。皆様の投稿やコメントから毎日精一杯生きている事が分かります。日々感謝しています。皆様は聖者の道を歩んでいるのです。耳で神の声を聞き、それを口で伝え、大地を踏みしめ歩んでいるのです。
東京の障害者施設にいる重度の脳性マヒで寝たきり、体は動かず、
言葉も話せない20歳の女性の記事を見ました。
彼女はわずかに動く手をボランティアの添える手を借りて詩を書いています。その数1200点。
『せかいのなかで』
このひろいせかいのなかでわたしはたったひとり
たくさんの人のなかでわたしとおなじ人はひとりもいない
わたしはわたしだけ
それがどんなにふじゆうだとしても
わたしのかわりはだれもいないのだから
わたしはわたしのじんせいをどうどうといきる。
『いきていてこそ』
いまのつらさも
かんどうも
すべてはいきていてこそ
どんなにつらいげんじつでも
はりついていきる。
『こえをだせない
わたしたちにも
ことばやいしがあることをしってほしい。
そんざいをみとめて』
このような人々がたくさんいると思います。
また、このような子を持つおとうさん、お母さんの苦しみ、悩みも
大変だと思います。僕達の勤める福祉施設にも体の不自由な方が大勢います。逆にこちらが生きる力をもらっている気がします。
声が出せる。
体が動かせる。
歩くことができる。
一人でトイレに行ける。
これだけでも幸せだと感じないといけませんね。
頑張って生きている姿に生きる力を頂いているのだから。
声なき詩に勇気頂きました。ありがとうございます。