レバノン内戦
(出典: フリー百科事典『ウィキペディアiWikipeda)』
レバノン内戦(ればのんないせん)はレバノンで1975年に起こった内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。
[編集] 歴史的背景
歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て周辺アラブ国が独立すると中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これはオスマン・トルコ帝国時代にこの地を支配したドルーズ派の領主(エミール)ファハル・アッディーンの支配地を根拠とする。長らくこの地域こそが真のレバノンとされたが、第一次世界大戦後、事実上の宗主国となったフランスは元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、「大レバノン」と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止させたいフランスの分断政策の一つであった。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。
こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡が激しかった。具体的に言えば、独立運動を牽引したのはキリスト教マロン派(以下、マロン派)とイスラム教ドルーズ派(以下、ドルーズ派)であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高いといわれる。一方、イスラム教スンニ派(以下、スンニ派)や同シーア派(以下、シーア派)、キリスト教ギリシャ正教徒はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったとされる。
しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成せず、いずれもがほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか国勢調査が行われず、フランス統治時代の第二次世界大戦中に食糧配給のために調査したものは非公開、公開がなされたのは1932年の調査のみであり、これはキリスト教6:イスラム教5という比率であった。この時の国勢を根拠として独立時に「国民協約」と呼ばれる紳士協定が結ばれた。これは大統領はキリスト教徒、首相はイスラム教スンニ派、国会議長は同シーア派……というように宗派ごとの閣僚・議席のポストを配分したものであった。これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが、実際に国勢調査は行われず、イスラム教徒の増加を無視する形でこの「国民協約」に則った国家運営が続けられた。この事が、不利な立場を強いられるイスラム教徒の反発を買った。
また、レバノンに存在する宗派社会はベイルートを除けばそれぞれすみわけを行っており、集落・学校・社会風習はもとより、軍隊の各部隊までも宗派別に区分されるという有様であった。この事は、統一された国民意識の発達を阻害し、国家よりも自分が所属する宗派に従うという事態を生んだ。
こうした国民意識の希薄は同内戦におけるシリアやイランの介入を誘き寄せる事にもなった。
[編集] 推移
[編集] バランスの崩壊
1958年には汎アラブ主義の台頭を背景にイスラム教徒による内乱が発生する。この時はアメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。しかし、度重なる中東戦争、さらに1970年のヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。イスラム教徒数の自然増加と相まって政治バランスが崩れ始めた。国内に国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在に、マロン派からは懸念が示され、武力闘争によって難民を追放しようという動きも出てきた。
PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された「カイロ協定」とは別物)。これは当初、極秘に取り交わされたが、マスコミに暴露された結果、レバノン社会特にマロン派に衝撃を与えた。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。レバノン国軍にPLOを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが、イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。イスラエルは空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃。当時のレバノンは一定の空軍力こそ保有していたが(ミラージュ3EL戦闘機、ホーカーハンター戦闘攻撃機を装備)、政治力学的にレバノン国軍はこれに報復する事はできなかった。この姿勢はイスラム教徒の怒りを買う事となった。
結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を欲するイスラム教信者・パレスチナ難民との間で対立が激化する。ファランヘ党をはじめとするマロン派は米国・ロシアから様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化した。また、イスラム教徒もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンニ派)といった民兵組織を構築していった。高級なリゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げられるという不気味な風景が1970年代後半に数多く見られる中、1975年に内戦に発展した。
[編集] 衝突とベイルート分裂
きっかけは1975年4月、ベイルート市内のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会でファランヘ党による集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達のバスが教会を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲。ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展した。この事件は地名を取ってアイン・ルンマーネ事件と呼ばれ、不毛の内戦の始まりであった。また、同じ時期に南部のサイーダにおいてもスンニ派の漁民と、マロン派系の水産会社が設定した漁業権を巡って騒乱が起こった。レバノン国軍がこの鎮圧に乗り出したものの、武装した漁民によってヘリコプターを撃墜されるという事件が起こり、この騒乱もイスラム教左派を煽動する事になった。
戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであった。むしろ、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、こうした残虐行為が頻発した。自動車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。内戦には距離を置いて中立姿勢を保っていたドルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。こうした事態に警察は対処できず職務放棄をしてしまった。また直接は政治と関係のない強盗団も跋扈してベイルートは戦闘と犯罪で荒廃した(ただし、PLOや各民兵組織は強奪した金品を軍資金にした、という指摘もある)。海岸沿いのホテルや観光施設は民兵組織によって占拠された。1975年10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(ホテル戦争)。
こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれた。この「グリーン・ライン」は中立地帯では無く、時には双方で戦闘が起こり、平常時でも周辺の廃墟に狙撃兵が潜んでいる危険地帯となった。
[編集] シリア軍侵攻
寄合所帯であるレバノン政府は内戦終結に消極的であり、レバノン国軍も脱走兵が相次いで機能を喪失してしまった。特にイスラム教徒の国軍兵士は所属宗派の民兵組織に逃げ込み、一部は「レバノン・アラブ軍」という反乱軍を結成した。1976年3月以降、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は軍事力の豊富なPLOやアマルに次第に追い詰められていき、東ベイルートやジュニエといったマロン派の町に閉じ込められてしまった。
こうしたレバノンの事態に、シリアは当初は中立的な立場から静観し、1976年2月には「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を当時のスレイマン・フランジェ大統領に宛てて発表した。この合意は穏健的な政治・社会改革を目指すものであった。しかし、これは基本的に内戦以前のレバノンの現状を維持するものであり、イスラム教徒左派には強い不満を残すものであった。特にドルーズ派やPLOからは強い反発が生まれた。
ドルーズ派の名家出身であり、熱心なソビエト連邦支持者でもあった社会主義進歩党指導者のジュンブラッドはPLOとの連携に積極的であり、レバノンにおける汎アラブ主義政権樹立に積極的であった。彼は内戦勃発前の1968年に「レバノン国民運動」と呼ばれる左派連合体を成立させ、マロン派に偏重している政治権力を取り戻し、汎アラブ主義国家を樹立させる事を目標とした。彼にとって、この内戦はその夢が実現する好機であった。
1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻する。シリアにとってはドルーズ派とPLOの推し進める革命は、イスラエルのレバノン・シリア攻撃を誘発すると考えていた。このため、軍事力によって急進派のPLOやイスラム教ドルーズ派を制圧したのである。PLOや左派、そしてアラブ社会からはシリアの行動に対して非難が出された。1977年3月、シリアを裏切り者としてとくに非難したジュンブラッドは何者かによって暗殺されてしまった。
シリアの軍事介入により、内戦は一時的に沈静化する。しかし、和平に失敗した上にマロン派とシリア軍、さらにPLOとの対立で再燃化してしまう。特にシリア軍の行動はPLOに不信感を与えたが、マロン派内も反シリア・パレスチナを旗印に1976年9月にレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体を結成する。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入の機会を模索した。
[編集] レッドライン協定
1976年の軍事介入の際、シリアはイスラエルとの間で(実際には米国の仲介を持って)「レッド・ライン」協定と呼ばれる取り決めを決めていた。これは、ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定であった。また、こうした兵器を用いて必要以上にキリスト教徒に危害を加えないという条件も加えられていた。軍事介入はあくまで内戦終結を目指すものであり、イスラエルに対する敵対行動でない、という事を証明するものだった。
[編集] イスラエル侵攻
LFはレッドライン協定に着目し、1978年にLF部隊をシリア軍に検問で衝突させた。これに怒ったシリアは、レッドライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。イスラエルは協定違反として、シリアを非難した。さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した(リタニ作戦)。しかし、イスラエル軍自身による占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるハダト少佐に占領地を譲り渡して支配させた。彼は占領地で「自由レバノン」軍という民兵組織を結成し、イスラエルの傀儡部隊として協力した(その後、ハダトは病死し、「南レバノン軍(SLA)」と改称)。
1980年にはレバノン各地でシリア軍とLFが衝突した。LFは東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を構築しており、シリアはLFの陣地に攻撃を仕掛けると、LFはイスラエル軍に対して救難を要請し、イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜した。シリアはこの報復としてレッドライン協定に反して地対空ミサイルをベッカー高原に配備した。協定は有名無実になりつつあり、一触即発の事態に陥っていたが、1981年のアメリカの仲介によって、シリアとイスラエルの衝突は避ける事ができた。
[編集] レバノン戦争と多国籍軍の進出
1982年6月6日、駐英大使に対するPLOのテロへの報復と、PLO撤退のためとして、隣国イスラエルが越境して侵攻する(ガリラヤの平和作戦、レバノン戦争)。イスラエル軍はLFやアマルと組んでレバノンに駐留するシリア軍を壊滅させ(この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、当時ソ連の最新鋭戦車であったシリア軍のT-72を多数撃破する戦果を挙げている)、6月13日に西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートの包囲を続けるが、徹底抗戦していたPLOも8月21日に停戦に応じ、8月30日にアラファト率いるPLO指導部および主力部隊がチュニジアへ追放された。ここでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリアなどはPLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。
イスラエルとしてはレバノンを親イスラエル国家として転換させ、シリアひいてはアラブの影響力をレバノンから排除したかった。LFのカリスマ性のある若手指導者バシール・ジェマイエルはイスラエルと親しい反シリアの政治指導者であり、彼を大統領に就任させるつもりであった。事実、1982年8月の大統領選挙において、イスラム教左派のボイコットを受けながらも大統領に当選した。しかし、9月、バシール・ジェマイエル大統領はLF本部に仕掛けられた爆弾によって暗殺される。イスラエルは親イスラエル政権の樹立に失敗し、この事件をPLO残党の犯行とみなした。当時、LFの情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ率いる部隊は、イスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民キャンプで大量虐殺事件を発生させる(サブラ・シャティーラ事件)。この事件によって、虐殺を黙視したイスラエルには特に国際的非難が高まり(イスラエルはキャンプ内においてパレスチナ人の捜査をLFに指示したと主張)、当時のシャロン国防相が辞任する事となるが、ホベイカは後述するように親シリアともいわれており、真相は必ずしも全てが明白ではない。
バシール亡き後、穏健派と目された兄・アミン・ジェマイエルが大統領に就任した。イスラエルはアミンに対して「イスラエル・レバノン和平条約」への調印と国会の可決を要求するが、アミンにバシールほどの政治力は無く、またイスラエルの政治的後退によって、シリアの影響力も隠然として存在していた事から、最終的に1984年2月に破棄された。パレスチナ難民の安全保障を目的としたはずのアメリカ・イギリス・フランスなどの多国籍軍は、内戦終結を望まない各派民兵組織や政治指導者に翻弄される事になる。すでに形骸化されていた国軍はアメリカ海兵隊の訓練と支援により再生され、西ベイルートを中心に若者が召集された。しかし、アミンはイスラム教徒やシリアに対して強硬な態度で臨む様になっていく。この態度は両者の怒りを生み出し、シリアはアマルやドルーズ派、新興勢力であったヒズボラに対してテロリズムも含めたあらゆる支援を与える事となった。
[編集] 山岳戦争
再建された政府軍はLFと共に、イスラエル撤退後のレバノン中部シューフ山地(ドルーズ派の本拠地)に生じた空白地帯の奪取に乗り出した。ドルーズ派やアマルもまた奪還に乗り出し、政府軍・LFとドルーズ派・アマルは激突する事となった。この「山岳戦争」において、政府軍はアメリカに空爆や艦砲射撃による援護を要請。イスラム教民兵組織が内戦終結の阻害と考えていたアメリカは、艦載攻撃機や戦艦を繰り出してイスラム教民兵に攻撃を加えた。しかし、このアメリカの軍事介入は功を奏さず、海軍機に損失が出る一方、多国籍軍の意味合いを変質させる事となった。
山岳戦争は「捕虜の存在しない戦争」ともいわれ、LFとイスラム教左派(特にドルーズ派)は敵意を剥き出しにして戦った。いずれの勢力も戦闘で捕らえた兵士・非戦闘員を競うように殺害し、戦闘と関係の無いシューフ山地にある対立する宗派の村落も多くが破壊され、住民は虐殺されるか追放の憂き目に遭った。この戦争でシューフ山地に住んでいた多くのマロン派は東ベイルートやジュニエといったマロン派の都市に国内難民として逃れ、内戦以来の「棲み分け」が完成する状態にまで至った。
[編集] 多国籍軍撤退
さらに、アマルから分離したヒズボラによるアメリカ海兵隊駐屯地、アメリカ大使館に対する自爆攻撃が発生する(アメリカ大使館爆破事件参照)。続いてフランス軍、イタリア軍の駐屯地、イスラエル軍の指揮所にも自爆攻撃が仕掛けられた。この実行犯は当時、急成長しつつあった「ヒズボラ」の下部組織であった。ヒズボラは、元々「イスラミック・アマル」というアマルにおけるイスラム原理主義を主張する非主流派であったが、レバノン戦争時にイラン革命防衛隊から「同胞の支援」を掲げてレバノンに来訪した将兵達によって改称・組織化された民兵組織であった。シーア派は、南部レバノンに多く住み、常にイスラエルの攻撃に曝されていたが、パレスチナ問題には比較的冷淡であった。このため、傲慢さのあるPLOの支配に反感を覚え、イスラエルの「解放」に歓迎の姿勢を見せる者もいた。しかし、イスラエル軍はシーア派に対して無知であり、同派の重要な宗教行事をイスラエル軍が妨害し中止命令を出した事によって一気にイスラエルへの反発が高まった。
シューフ山地における戦闘も政府軍・LFの敗北が決定的となり、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃から1984年2月、アメリカ海兵隊の撤退を皮切りに多国籍軍は撤退を余儀なくされる。サブラ・シャティーラ事件の国際的な非難のなか、イスラエルもまたレバノンから撤退するが、南部国境地帯を半占領下に置いたままであった。逆にアマルやドルーズ派はシューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。再建された国軍は再び瓦解し、東ベイルートに閉じ込められる事となった。
[
(出典: フリー百科事典『ウィキペディアiWikipeda)』
レバノン内戦(ればのんないせん)はレバノンで1975年に起こった内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。
[編集] 歴史的背景
歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て周辺アラブ国が独立すると中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これはオスマン・トルコ帝国時代にこの地を支配したドルーズ派の領主(エミール)ファハル・アッディーンの支配地を根拠とする。長らくこの地域こそが真のレバノンとされたが、第一次世界大戦後、事実上の宗主国となったフランスは元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、「大レバノン」と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止させたいフランスの分断政策の一つであった。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。
こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡が激しかった。具体的に言えば、独立運動を牽引したのはキリスト教マロン派(以下、マロン派)とイスラム教ドルーズ派(以下、ドルーズ派)であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高いといわれる。一方、イスラム教スンニ派(以下、スンニ派)や同シーア派(以下、シーア派)、キリスト教ギリシャ正教徒はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったとされる。
しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成せず、いずれもがほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか国勢調査が行われず、フランス統治時代の第二次世界大戦中に食糧配給のために調査したものは非公開、公開がなされたのは1932年の調査のみであり、これはキリスト教6:イスラム教5という比率であった。この時の国勢を根拠として独立時に「国民協約」と呼ばれる紳士協定が結ばれた。これは大統領はキリスト教徒、首相はイスラム教スンニ派、国会議長は同シーア派……というように宗派ごとの閣僚・議席のポストを配分したものであった。これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが、実際に国勢調査は行われず、イスラム教徒の増加を無視する形でこの「国民協約」に則った国家運営が続けられた。この事が、不利な立場を強いられるイスラム教徒の反発を買った。
また、レバノンに存在する宗派社会はベイルートを除けばそれぞれすみわけを行っており、集落・学校・社会風習はもとより、軍隊の各部隊までも宗派別に区分されるという有様であった。この事は、統一された国民意識の発達を阻害し、国家よりも自分が所属する宗派に従うという事態を生んだ。
こうした国民意識の希薄は同内戦におけるシリアやイランの介入を誘き寄せる事にもなった。
[編集] 推移
[編集] バランスの崩壊
1958年には汎アラブ主義の台頭を背景にイスラム教徒による内乱が発生する。この時はアメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。しかし、度重なる中東戦争、さらに1970年のヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。イスラム教徒数の自然増加と相まって政治バランスが崩れ始めた。国内に国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在に、マロン派からは懸念が示され、武力闘争によって難民を追放しようという動きも出てきた。
PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された「カイロ協定」とは別物)。これは当初、極秘に取り交わされたが、マスコミに暴露された結果、レバノン社会特にマロン派に衝撃を与えた。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。レバノン国軍にPLOを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが、イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。イスラエルは空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃。当時のレバノンは一定の空軍力こそ保有していたが(ミラージュ3EL戦闘機、ホーカーハンター戦闘攻撃機を装備)、政治力学的にレバノン国軍はこれに報復する事はできなかった。この姿勢はイスラム教徒の怒りを買う事となった。
結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を欲するイスラム教信者・パレスチナ難民との間で対立が激化する。ファランヘ党をはじめとするマロン派は米国・ロシアから様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化した。また、イスラム教徒もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンニ派)といった民兵組織を構築していった。高級なリゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げられるという不気味な風景が1970年代後半に数多く見られる中、1975年に内戦に発展した。
[編集] 衝突とベイルート分裂
きっかけは1975年4月、ベイルート市内のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会でファランヘ党による集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達のバスが教会を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲。ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展した。この事件は地名を取ってアイン・ルンマーネ事件と呼ばれ、不毛の内戦の始まりであった。また、同じ時期に南部のサイーダにおいてもスンニ派の漁民と、マロン派系の水産会社が設定した漁業権を巡って騒乱が起こった。レバノン国軍がこの鎮圧に乗り出したものの、武装した漁民によってヘリコプターを撃墜されるという事件が起こり、この騒乱もイスラム教左派を煽動する事になった。
戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであった。むしろ、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、こうした残虐行為が頻発した。自動車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。内戦には距離を置いて中立姿勢を保っていたドルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。こうした事態に警察は対処できず職務放棄をしてしまった。また直接は政治と関係のない強盗団も跋扈してベイルートは戦闘と犯罪で荒廃した(ただし、PLOや各民兵組織は強奪した金品を軍資金にした、という指摘もある)。海岸沿いのホテルや観光施設は民兵組織によって占拠された。1975年10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(ホテル戦争)。
こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれた。この「グリーン・ライン」は中立地帯では無く、時には双方で戦闘が起こり、平常時でも周辺の廃墟に狙撃兵が潜んでいる危険地帯となった。
[編集] シリア軍侵攻
寄合所帯であるレバノン政府は内戦終結に消極的であり、レバノン国軍も脱走兵が相次いで機能を喪失してしまった。特にイスラム教徒の国軍兵士は所属宗派の民兵組織に逃げ込み、一部は「レバノン・アラブ軍」という反乱軍を結成した。1976年3月以降、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は軍事力の豊富なPLOやアマルに次第に追い詰められていき、東ベイルートやジュニエといったマロン派の町に閉じ込められてしまった。
こうしたレバノンの事態に、シリアは当初は中立的な立場から静観し、1976年2月には「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を当時のスレイマン・フランジェ大統領に宛てて発表した。この合意は穏健的な政治・社会改革を目指すものであった。しかし、これは基本的に内戦以前のレバノンの現状を維持するものであり、イスラム教徒左派には強い不満を残すものであった。特にドルーズ派やPLOからは強い反発が生まれた。
ドルーズ派の名家出身であり、熱心なソビエト連邦支持者でもあった社会主義進歩党指導者のジュンブラッドはPLOとの連携に積極的であり、レバノンにおける汎アラブ主義政権樹立に積極的であった。彼は内戦勃発前の1968年に「レバノン国民運動」と呼ばれる左派連合体を成立させ、マロン派に偏重している政治権力を取り戻し、汎アラブ主義国家を樹立させる事を目標とした。彼にとって、この内戦はその夢が実現する好機であった。
1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻する。シリアにとってはドルーズ派とPLOの推し進める革命は、イスラエルのレバノン・シリア攻撃を誘発すると考えていた。このため、軍事力によって急進派のPLOやイスラム教ドルーズ派を制圧したのである。PLOや左派、そしてアラブ社会からはシリアの行動に対して非難が出された。1977年3月、シリアを裏切り者としてとくに非難したジュンブラッドは何者かによって暗殺されてしまった。
シリアの軍事介入により、内戦は一時的に沈静化する。しかし、和平に失敗した上にマロン派とシリア軍、さらにPLOとの対立で再燃化してしまう。特にシリア軍の行動はPLOに不信感を与えたが、マロン派内も反シリア・パレスチナを旗印に1976年9月にレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体を結成する。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入の機会を模索した。
[編集] レッドライン協定
1976年の軍事介入の際、シリアはイスラエルとの間で(実際には米国の仲介を持って)「レッド・ライン」協定と呼ばれる取り決めを決めていた。これは、ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定であった。また、こうした兵器を用いて必要以上にキリスト教徒に危害を加えないという条件も加えられていた。軍事介入はあくまで内戦終結を目指すものであり、イスラエルに対する敵対行動でない、という事を証明するものだった。
[編集] イスラエル侵攻
LFはレッドライン協定に着目し、1978年にLF部隊をシリア軍に検問で衝突させた。これに怒ったシリアは、レッドライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。イスラエルは協定違反として、シリアを非難した。さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した(リタニ作戦)。しかし、イスラエル軍自身による占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるハダト少佐に占領地を譲り渡して支配させた。彼は占領地で「自由レバノン」軍という民兵組織を結成し、イスラエルの傀儡部隊として協力した(その後、ハダトは病死し、「南レバノン軍(SLA)」と改称)。
1980年にはレバノン各地でシリア軍とLFが衝突した。LFは東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を構築しており、シリアはLFの陣地に攻撃を仕掛けると、LFはイスラエル軍に対して救難を要請し、イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜した。シリアはこの報復としてレッドライン協定に反して地対空ミサイルをベッカー高原に配備した。協定は有名無実になりつつあり、一触即発の事態に陥っていたが、1981年のアメリカの仲介によって、シリアとイスラエルの衝突は避ける事ができた。
[編集] レバノン戦争と多国籍軍の進出
1982年6月6日、駐英大使に対するPLOのテロへの報復と、PLO撤退のためとして、隣国イスラエルが越境して侵攻する(ガリラヤの平和作戦、レバノン戦争)。イスラエル軍はLFやアマルと組んでレバノンに駐留するシリア軍を壊滅させ(この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、当時ソ連の最新鋭戦車であったシリア軍のT-72を多数撃破する戦果を挙げている)、6月13日に西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートの包囲を続けるが、徹底抗戦していたPLOも8月21日に停戦に応じ、8月30日にアラファト率いるPLO指導部および主力部隊がチュニジアへ追放された。ここでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリアなどはPLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。
イスラエルとしてはレバノンを親イスラエル国家として転換させ、シリアひいてはアラブの影響力をレバノンから排除したかった。LFのカリスマ性のある若手指導者バシール・ジェマイエルはイスラエルと親しい反シリアの政治指導者であり、彼を大統領に就任させるつもりであった。事実、1982年8月の大統領選挙において、イスラム教左派のボイコットを受けながらも大統領に当選した。しかし、9月、バシール・ジェマイエル大統領はLF本部に仕掛けられた爆弾によって暗殺される。イスラエルは親イスラエル政権の樹立に失敗し、この事件をPLO残党の犯行とみなした。当時、LFの情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ率いる部隊は、イスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民キャンプで大量虐殺事件を発生させる(サブラ・シャティーラ事件)。この事件によって、虐殺を黙視したイスラエルには特に国際的非難が高まり(イスラエルはキャンプ内においてパレスチナ人の捜査をLFに指示したと主張)、当時のシャロン国防相が辞任する事となるが、ホベイカは後述するように親シリアともいわれており、真相は必ずしも全てが明白ではない。
バシール亡き後、穏健派と目された兄・アミン・ジェマイエルが大統領に就任した。イスラエルはアミンに対して「イスラエル・レバノン和平条約」への調印と国会の可決を要求するが、アミンにバシールほどの政治力は無く、またイスラエルの政治的後退によって、シリアの影響力も隠然として存在していた事から、最終的に1984年2月に破棄された。パレスチナ難民の安全保障を目的としたはずのアメリカ・イギリス・フランスなどの多国籍軍は、内戦終結を望まない各派民兵組織や政治指導者に翻弄される事になる。すでに形骸化されていた国軍はアメリカ海兵隊の訓練と支援により再生され、西ベイルートを中心に若者が召集された。しかし、アミンはイスラム教徒やシリアに対して強硬な態度で臨む様になっていく。この態度は両者の怒りを生み出し、シリアはアマルやドルーズ派、新興勢力であったヒズボラに対してテロリズムも含めたあらゆる支援を与える事となった。
[編集] 山岳戦争
再建された政府軍はLFと共に、イスラエル撤退後のレバノン中部シューフ山地(ドルーズ派の本拠地)に生じた空白地帯の奪取に乗り出した。ドルーズ派やアマルもまた奪還に乗り出し、政府軍・LFとドルーズ派・アマルは激突する事となった。この「山岳戦争」において、政府軍はアメリカに空爆や艦砲射撃による援護を要請。イスラム教民兵組織が内戦終結の阻害と考えていたアメリカは、艦載攻撃機や戦艦を繰り出してイスラム教民兵に攻撃を加えた。しかし、このアメリカの軍事介入は功を奏さず、海軍機に損失が出る一方、多国籍軍の意味合いを変質させる事となった。
山岳戦争は「捕虜の存在しない戦争」ともいわれ、LFとイスラム教左派(特にドルーズ派)は敵意を剥き出しにして戦った。いずれの勢力も戦闘で捕らえた兵士・非戦闘員を競うように殺害し、戦闘と関係の無いシューフ山地にある対立する宗派の村落も多くが破壊され、住民は虐殺されるか追放の憂き目に遭った。この戦争でシューフ山地に住んでいた多くのマロン派は東ベイルートやジュニエといったマロン派の都市に国内難民として逃れ、内戦以来の「棲み分け」が完成する状態にまで至った。
[編集] 多国籍軍撤退
さらに、アマルから分離したヒズボラによるアメリカ海兵隊駐屯地、アメリカ大使館に対する自爆攻撃が発生する(アメリカ大使館爆破事件参照)。続いてフランス軍、イタリア軍の駐屯地、イスラエル軍の指揮所にも自爆攻撃が仕掛けられた。この実行犯は当時、急成長しつつあった「ヒズボラ」の下部組織であった。ヒズボラは、元々「イスラミック・アマル」というアマルにおけるイスラム原理主義を主張する非主流派であったが、レバノン戦争時にイラン革命防衛隊から「同胞の支援」を掲げてレバノンに来訪した将兵達によって改称・組織化された民兵組織であった。シーア派は、南部レバノンに多く住み、常にイスラエルの攻撃に曝されていたが、パレスチナ問題には比較的冷淡であった。このため、傲慢さのあるPLOの支配に反感を覚え、イスラエルの「解放」に歓迎の姿勢を見せる者もいた。しかし、イスラエル軍はシーア派に対して無知であり、同派の重要な宗教行事をイスラエル軍が妨害し中止命令を出した事によって一気にイスラエルへの反発が高まった。
シューフ山地における戦闘も政府軍・LFの敗北が決定的となり、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃から1984年2月、アメリカ海兵隊の撤退を皮切りに多国籍軍は撤退を余儀なくされる。サブラ・シャティーラ事件の国際的な非難のなか、イスラエルもまたレバノンから撤退するが、南部国境地帯を半占領下に置いたままであった。逆にアマルやドルーズ派はシューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。再建された国軍は再び瓦解し、東ベイルートに閉じ込められる事となった。
[