多くの女性を泣かせる曲「さようなら お父さん」
Tango - Piazzolla - Boda Real, Maxima Zorreguieta.mpg
André Rieu - Adiós Nonino (Farewell father)
マクシマ・ソレギエタ・セルティ(Máxima Zorreguieta Cerruti, 1971年5月17日 - )は、第7代オランダ国王・ウィレム=アレクサンダーの王妃(Koningin der Nederlanden)、オラニエ=ナッサウ公妃(Prinses van Oranje-Nassau)。
1971年、バスク系・イタリア系アルゼンチン人のホルヘ・ソレギエタと、2度目の妻でバスク系アルゼンチン人のマリア・デル・カルメン・セルティ・カリカルト(María del Carmen Cerruti Carricart)の娘としてブエノスアイレスで生まれた。父が先妻との間にもうけた異母姉が3人、同母兄2人と同母妹(故人)[1]がいる。
父ホルヘは裕福な農場経営者で、ホルヘ・ラファエル・ビデラ政権時代に農林大臣を務めた。1995年にアルゼンチン・カトリック大学で経済学の学位を取得し卒業した。
2000年頃、2人の交際が公になり、オランダ国内で大きな議論を巻き起こした。マクシマの父ホルヘが、軍事独裁政権であったビデラ政権の閣僚であったことが問題視されたのである。罪のない市民の大量虐殺を引き起こした政権の実力者の娘と、次期王位継承者との結婚を許していいものか、もし結婚を選ぶなら王位継承権を放棄すべきだ、との世論が巻き起こった。結局、ホルヘは大量虐殺には一切関与していなかったとの結論が出された。
2001年1月31日の女王ベアトリクスの誕生日、女王夫妻とウィレム=アレクサンダー、そしてマクシマが並んで写された写真が公表され、女王と王配クラウスが2人の結婚に賛成の意向を示していることを公に示した。
2002年2月2日、アムステルダムのブールス・ファン・ベルラーヘで民事婚を行い、アムステルダム新教会にて宗教婚を執り行った。しかし、結婚の障害になりかけた妃の父ホルヘは式に招かれなかった。また、夫を一人残していけないとして、母マリアも式に欠席した。式中、アストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」(Adiós Nonino 「さよならお父さん」)が流れた時、マクシマは両目から大粒の涙を流した。
(水問題でご一緒)
(雅子様がご体調が悪いときに静養にいらっしゃいと招かれてオランダへ。空港にはベアトリクス女王当時が迎えに出られた)
第二次世界大戦中、日本軍がオランダ植民地インドネシアに進軍してオランダ軍を追ったため、戦後のオランダでは反日世論が渦巻いており、オランダ王族が日本を訪問することは1962年のベアトリクスの非公式訪問までなかった[4]。
2006年夏には皇太子徳仁親王(当時)と同妃雅子ら一家の長期静養を受け入れ、滞在中も種々配慮をしている。ベアトリクスの王配クラウスは若い頃「ヒトラーユーゲント」であったため、結婚当初国民の強い批判に晒され、適応障害に陥って苦しんだことがあった。その経験からベアトリクスは雅子の適応障害のことを非常に心配していたという (ベアトリクス女王wiki)