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自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

【ノーカット】ノーベル平和賞 日本原水爆被害者団体協議会 記者会見 2024/10/12

2024年10月12日 21時03分05秒 | ノーベル賞

【ノーカット】ノーベル平和賞 日本原水爆被害者団体協議会 記者会見

2024/10/12

たなか てるみ

田中 煕巳
生誕 1932年4月29日
満洲国の旗 満洲国
国籍 日本の旗 日本
職業 教育者、核廃絶運動家

wikipedeia

1932年中国東北部(旧満洲)に生まれた[3][4]陸軍の軍人であった父が脳出血のため他界したため、親類を頼って長崎市に移り住んだ[4]。父の影響を受けて幼少期の夢は軍人になることであった[4]伊良林国民学校を経て長崎県立長崎中学校に入学し[4]、同校1年次の1945年8月9日に長崎市中川町の自宅で被爆[5]。伯母ら親族5人を亡くした[3]。日本の敗戦により陸軍幼年学校に進むという夢は絶たれたが、原爆投下時になぜ自宅のガラスは割れなかったのかという疑問をきっかけとして理工系に興味を持つようになり、貧しい生活の中で物理を学んだ[6]1951年長崎県立長崎東高等学校を卒業後上京し、東京大学生協で働きながら受験勉強に取り組んだ[6]1954年に起きた第五福竜丸事件を契機として大学でや原爆について学びたいという思いを強め、1956年東京理科大学理学部物理学科に入学[7]1960年に大学を卒業後、東北大学工学部助手となり、1995年より助教授[8]1996年の定年まで研究・教育に取り組んだ[3]。また、研究と並行して被爆者運動にも参加するようになり、宮城県の被爆者団体「はぎの会」事務局長などを経て、1985年には日本原水爆被害者団体協議会(被団協)事務局長に就任[9]。多忙が元となって自律神経失調症に陥り一度は事務局長職を退いたが、東北大学の定年退官を機に埼玉県へ移住、2000年には被団協事務局長に復帰[9]。2017年6月、被団協代表委員に就任した[10]

「原子爆弾は、 核爆発装置 に含まれる。 水素爆弾 を含めて「原水爆」とも呼ばれる。 核兵器は 通常兵器 と比較して威力が極めて大きいため、 大量破壊兵器 に位置付けられ、 核不拡散条約 や 部分的核実験禁止条約 などで、実戦での使用が禁止されている。」

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