儒教 じゅきょう R⇔ jiロo
中国で前漢の武帝が董仲舒 (とうちゆうじよ) の献策で儒家の教説を基礎に正統教学として固定し,以後,清末までの王朝支配の体制教学となった思想。この儒教は,政治・文化の担い手であった士人 (官人地主層) の主たる思想となり,その歴史・社会の変化に応じて,仏教・道教の教説を受容して教義を豊かにしたが,この儒教思想の史的展開がとりもなおさず前近代中国の思想史の主流をなす。したがって郡県制帝国の王朝体制が克服される近代化の過程で, 儒教は思想・文化上の打倒目標となり批判された。なお,儒教は過去の朝鮮,ベトナム,日本の文化形成に深刻な影響を与え,とくに朱子学はこれらの地域の諸政権とむすんで長期に正統教学の位置を占めた。通常,儒教の学術面を〈儒学〉と称し,教学的性格をその開祖の名をとって孔子教Confucianismともよばれる。
儒教の基本的教義は,五倫五常,修己治人,天人合一,世俗的合理主義である。 (1)五倫五常 三綱五倫 (君臣・父子・夫婦と兄弟・朋友) の身分血縁的関係をあるべき人倫秩序とし,家族組織から政治体制まで貫く具体規定を備える。この人間関係を支える必要な道徳が,五常 (仁・義・礼・智・信) であり,その修得のための人間論・意識論がくりかえされた。 (2) 修己治人 五常を修養し (修己),五倫秩序の実現につとめる (治人) 不断の教化が,統治層士人 (君子) の任務である。孔子は〈礼楽〉文化を先王周公の政教として祖述したが, 〈礼〉は支配層氏族内部の階層秩序の規定,つまり敬天・崇祖の日常儀礼をともなう父系血縁集団の組織規定であって,いわば祭・政・教一致の秩序規定である。祖孫・父子の上下秩序を根幹として〈孝悌〉道徳によって維持しようとする。春秋後期は社会進展につれてこの一致体制の解体期にあたり,孔子は〈孝悌〉道徳を普遍化した〈仁〉の徳の実践を創唱しつつ,それを主軸に〈礼楽〉文化の再編を試みた。 儒教はかくて〈礼〉の学習と〈仁〉徳の修養が〈修己〉の眼目となり,人民への教化主義が〈治人〉政治の特色となる。 (3) 天人合一 孟子,荀子を経た儒家思想は,〈仁〉〈礼〉すなわち内と外の世界をともに〈天〉 (自然の理法) に根拠づけ,孟子は天与の賦性の実現を人の善とし,荀子は人のふまえる〈礼〉体系を〈天〉に合致すべきものとし,また国家統治の〈君臣の義〉 (君主と臣僚の関係秩序) には法家系の〈刑名〉思想が浸透した秦・漢期以後,董仲舒系〈春秋〉学の〈天〉意にもとづく〈名分〉主義が定着した。 〈礼教〉文化の理法化である。 (4) 世俗的合理主義 これらの教義は,政教的文明を包括する古聖の道として記録した〈経書〉 (五経――易,書,詩,礼,春秋) に述べられ,漢代春秋学の〈名分〉主義と陰陽五行思想が加わって古代帝国的規模に適用され, 《易伝》の宇宙論によって〈三綱〉的家父長制の観念は無限に拡大され,国教に成長した。この過程で,人道を中心に説く原始儒家思想は,神秘的呪術的な色彩を濃くし,漢・魏期の讖緯 (しんい) 説の流行はこの非合理的傾向を増幅した。
一定の〈礼教〉文化を保持するための現実処理の政術としては,王朝権力に依存して世俗的権威を帯び,かつ古聖の伝統を背景にした教学的権威をかね備えた。それ以後,士人の思想は〈経学〉 (経典解釈学) の形式をとって展開した。歴史・社会の進展から〈礼教〉体制の危機がおそうとき, 儒教は〈経書〉解釈の枠を広げ,仏教,道教などを自己の中に組み入れて〈礼教〉体制からの士人の離反を防いだ。宋代 (10 世紀) 以後,隋・唐貴族制の解体に代わって科挙を足場に新興階級が官人支配層として登場してくると,統一王朝の国内・国際的な政治・経済上の緊張状態のなかで,国家主義的〈名分〉思想や正統論を展開させ,仏教・道教の流行による思想的危機感から,道義心を養い古聖の道を主体的に体得しようとする新儒学New Confucianism,すなわち宋学が生まれた。これは〈三綱五倫〉と〈五常〉とを〈理〉 (天理) と宣言し, 〈気〉による万物 (自然と人) の差異を説き,家父長制的〈礼教〉体制を〈理気〉概念で体系づけ,洗練された天人合一思想,朱子学となって完成した。
朱子学が拠った〈四書〉 (《大学》《中庸》《論語》《孟子》) は,在野の聖賢が議論を交わした政教集成であり,宋学によって天下統治の方策を各個人の責任と自発性において修得すべしと解釈した。そこには〈礼教〉体制下の士人が相対的自立性を強めつつ,積極主体的に〈礼教〉イデオローグとして果たすべき政治・社会の状況が反映されており,朱子学が正統教学に帰した理由がある。明・清期に君臨した朱子学は,封建秩序の内部矛盾の増大から,その補強として明代の陽明学が登場する。他方その陽明左派 (王学左派) は,〈礼教〉体制の欺瞞 (ぎまん) 性をつき欲望肯定の〈童心〉説を出して儒教批判を行うが,本格的な儒教否定は,農民運動としてキリスト教に依拠した太平天国の思想であった。 20 世紀を迎える時期に,士人層より変法派,革命派がそれぞれ儒教批判を展開するが,その完全な克服には,辛亥革命 (1911) 後の五・四運動の〈孔家店打倒〉を経て (文学革命, 孔子批判),現実を変革する人民解放の革命運動による体制変革を必要とした。 ⇒中国思想
戸川 芳郎
中国で前漢の武帝が董仲舒 (とうちゆうじよ) の献策で儒家の教説を基礎に正統教学として固定し,以後,清末までの王朝支配の体制教学となった思想。この儒教は,政治・文化の担い手であった士人 (官人地主層) の主たる思想となり,その歴史・社会の変化に応じて,仏教・道教の教説を受容して教義を豊かにしたが,この儒教思想の史的展開がとりもなおさず前近代中国の思想史の主流をなす。したがって郡県制帝国の王朝体制が克服される近代化の過程で, 儒教は思想・文化上の打倒目標となり批判された。なお,儒教は過去の朝鮮,ベトナム,日本の文化形成に深刻な影響を与え,とくに朱子学はこれらの地域の諸政権とむすんで長期に正統教学の位置を占めた。通常,儒教の学術面を〈儒学〉と称し,教学的性格をその開祖の名をとって孔子教Confucianismともよばれる。
儒教の基本的教義は,五倫五常,修己治人,天人合一,世俗的合理主義である。 (1)五倫五常 三綱五倫 (君臣・父子・夫婦と兄弟・朋友) の身分血縁的関係をあるべき人倫秩序とし,家族組織から政治体制まで貫く具体規定を備える。この人間関係を支える必要な道徳が,五常 (仁・義・礼・智・信) であり,その修得のための人間論・意識論がくりかえされた。 (2) 修己治人 五常を修養し (修己),五倫秩序の実現につとめる (治人) 不断の教化が,統治層士人 (君子) の任務である。孔子は〈礼楽〉文化を先王周公の政教として祖述したが, 〈礼〉は支配層氏族内部の階層秩序の規定,つまり敬天・崇祖の日常儀礼をともなう父系血縁集団の組織規定であって,いわば祭・政・教一致の秩序規定である。祖孫・父子の上下秩序を根幹として〈孝悌〉道徳によって維持しようとする。春秋後期は社会進展につれてこの一致体制の解体期にあたり,孔子は〈孝悌〉道徳を普遍化した〈仁〉の徳の実践を創唱しつつ,それを主軸に〈礼楽〉文化の再編を試みた。 儒教はかくて〈礼〉の学習と〈仁〉徳の修養が〈修己〉の眼目となり,人民への教化主義が〈治人〉政治の特色となる。 (3) 天人合一 孟子,荀子を経た儒家思想は,〈仁〉〈礼〉すなわち内と外の世界をともに〈天〉 (自然の理法) に根拠づけ,孟子は天与の賦性の実現を人の善とし,荀子は人のふまえる〈礼〉体系を〈天〉に合致すべきものとし,また国家統治の〈君臣の義〉 (君主と臣僚の関係秩序) には法家系の〈刑名〉思想が浸透した秦・漢期以後,董仲舒系〈春秋〉学の〈天〉意にもとづく〈名分〉主義が定着した。 〈礼教〉文化の理法化である。 (4) 世俗的合理主義 これらの教義は,政教的文明を包括する古聖の道として記録した〈経書〉 (五経――易,書,詩,礼,春秋) に述べられ,漢代春秋学の〈名分〉主義と陰陽五行思想が加わって古代帝国的規模に適用され, 《易伝》の宇宙論によって〈三綱〉的家父長制の観念は無限に拡大され,国教に成長した。この過程で,人道を中心に説く原始儒家思想は,神秘的呪術的な色彩を濃くし,漢・魏期の讖緯 (しんい) 説の流行はこの非合理的傾向を増幅した。
一定の〈礼教〉文化を保持するための現実処理の政術としては,王朝権力に依存して世俗的権威を帯び,かつ古聖の伝統を背景にした教学的権威をかね備えた。それ以後,士人の思想は〈経学〉 (経典解釈学) の形式をとって展開した。歴史・社会の進展から〈礼教〉体制の危機がおそうとき, 儒教は〈経書〉解釈の枠を広げ,仏教,道教などを自己の中に組み入れて〈礼教〉体制からの士人の離反を防いだ。宋代 (10 世紀) 以後,隋・唐貴族制の解体に代わって科挙を足場に新興階級が官人支配層として登場してくると,統一王朝の国内・国際的な政治・経済上の緊張状態のなかで,国家主義的〈名分〉思想や正統論を展開させ,仏教・道教の流行による思想的危機感から,道義心を養い古聖の道を主体的に体得しようとする新儒学New Confucianism,すなわち宋学が生まれた。これは〈三綱五倫〉と〈五常〉とを〈理〉 (天理) と宣言し, 〈気〉による万物 (自然と人) の差異を説き,家父長制的〈礼教〉体制を〈理気〉概念で体系づけ,洗練された天人合一思想,朱子学となって完成した。
朱子学が拠った〈四書〉 (《大学》《中庸》《論語》《孟子》) は,在野の聖賢が議論を交わした政教集成であり,宋学によって天下統治の方策を各個人の責任と自発性において修得すべしと解釈した。そこには〈礼教〉体制下の士人が相対的自立性を強めつつ,積極主体的に〈礼教〉イデオローグとして果たすべき政治・社会の状況が反映されており,朱子学が正統教学に帰した理由がある。明・清期に君臨した朱子学は,封建秩序の内部矛盾の増大から,その補強として明代の陽明学が登場する。他方その陽明左派 (王学左派) は,〈礼教〉体制の欺瞞 (ぎまん) 性をつき欲望肯定の〈童心〉説を出して儒教批判を行うが,本格的な儒教否定は,農民運動としてキリスト教に依拠した太平天国の思想であった。 20 世紀を迎える時期に,士人層より変法派,革命派がそれぞれ儒教批判を展開するが,その完全な克服には,辛亥革命 (1911) 後の五・四運動の〈孔家店打倒〉を経て (文学革命, 孔子批判),現実を変革する人民解放の革命運動による体制変革を必要とした。 ⇒中国思想
戸川 芳郎