国家神道 こっかしんとう
近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神梢官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。 1868 年 (明治 1) 3 月には神仏分離に関する一連の法令がだされ,それ以後全国的に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。 69 年には宣教使がおかれ,翌年には大教宣布の詔が下されて, 祭政一致のイデオロギーによる国民教化の方針がいっそう明確にされた。また,東京招魂社 (のちの靖国神社),楠社 (のちの湊川神社) など新しい神社がつくられ,天長節,神武天皇祭などの祝祭日を定めて,全国的に遥拝式が行われたりした。
神梢官を中心とするこうした諸政策は, 神道国教化政策と呼ばれている。それは,仏教を排し,伊勢神宮と宮中祭祀を頂点においた整然たる神社の階層秩序をつくりあげ,神道によって国民の宗教生活を掌握することでイデオロギー的統合をはかろうとするものであった。しかし,仏教の完全な排除には執拗な抵抗があり, 仏教の国民生活への定着は度外視できなかったから, 72 年には教部省と大教院を設け,教導職の制度を定めて僧侶も教導職に任命し, 仏教や民俗信仰から生まれた講社なども組みいれた宣教体制がとられた。だが,宣教すべき教説の内容は,〈三条の教則〉などとして定められていたから,この新しい宣教体制も仏教や講社に自由な宗教活動を認めたものではなかった。そのため,真宗を中心として宗教活動の自由を求める動きが活発となり, 75 年には真宗 4 派が大教院から離脱して,こうした宣教体制は崩壊した。 仏教側のこうした自立への動向に加えて, 80 年から翌年にかけて,東京日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界にはげしい論争がおこり,天皇の裁定によってようやく収拾された。 神道に共通する教義体系をつくることは不可能であること,国家が復古神道的な教説で宗教活動を直接に統制することは近代国家にふさわしくないことなどを認識した政府は, 82 年には神官の教導職兼補を廃止し,神官は葬儀に関与しないことを定めた。こうして神社は,祭祀儀礼を中心とすることになり,独自の教義体系をもつ神道教団は教派神道として独立した。広い意味では,維新政府成立直後からの神道国教化政策を含めて国家神道と呼んでもよいが,近代日本において独特の国教制度として定着したのは,右のような過程をへて成立した神社崇拝,神社祭祀,神社制度であり,それが国家神道と呼ばれている。
近代日本においては,全国の神社は伊勢神宮と宮中三殿を頂点として整然とした位階制に編成されており,神社においては国家の定めた祭祀が行われ,祭祀の様式も国家によって統一的に定められていた。神職は国家の官吏ないしその待遇をうける存在であり,すべての国民は特定の神社の氏子であった。それぞれの神社の信仰や祭儀の内容には伝統に由来する特質がなお保持されてはいたが,国家による統制と画一化はいちじるしく強められ,地域の小祠も一村一社の村氏神をつくりあげる方向で統合されて,統合されることのない民俗信仰的な諸次元のものは, 黒祠や迷信として弾圧された。大日本帝国憲法は制限つきながら信教の自由を規定していたが,それはこうした神社崇拝の受容を前提として承認されるものであった。神社崇拝が実際には宗教としての性格をもっていることは,政府当局者も認めていたが,しかし法的にはそれは宗教でないとすることで,憲法における信教の自由の規定や近代国家における政教分離の原則と矛盾しないという強弁がなされて,それが政府の公式見解とされた。神社崇拝がどの程度まで国民に強制されるかは,時代状況によって異なっていたが,1930 年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には,神社は戦争遂行の精神的支柱としてとりわけ重んじられ,たとえばキリスト教の教会やキリスト教系の学校などに対しても,伊勢神宮の大麻の奉祀が強制されたりした。
1945 年 12 月 15 日,連合国総司令部は,いわゆる神道指令 (国教分離指令) によって,神社に対する特別の保護の停止,神道施設の公的機関からの撤去などを指示し,国家と神道との完全な分離を命じた。翌年の元日には天皇の〈人間宣言〉がなされ,つづいて神道関係法令が廃止されて,国家神道は完全に解体した。なお,1935 年の調査によると,神社数は,官・国幣社 199,府県社 1016,郷社 3607,村社 4 万 4864,無格社 6 万 1351 で,神職は約 1 万 5000 人であった。
安丸 良夫
近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神梢官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。 1868 年 (明治 1) 3 月には神仏分離に関する一連の法令がだされ,それ以後全国的に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。 69 年には宣教使がおかれ,翌年には大教宣布の詔が下されて, 祭政一致のイデオロギーによる国民教化の方針がいっそう明確にされた。また,東京招魂社 (のちの靖国神社),楠社 (のちの湊川神社) など新しい神社がつくられ,天長節,神武天皇祭などの祝祭日を定めて,全国的に遥拝式が行われたりした。
神梢官を中心とするこうした諸政策は, 神道国教化政策と呼ばれている。それは,仏教を排し,伊勢神宮と宮中祭祀を頂点においた整然たる神社の階層秩序をつくりあげ,神道によって国民の宗教生活を掌握することでイデオロギー的統合をはかろうとするものであった。しかし,仏教の完全な排除には執拗な抵抗があり, 仏教の国民生活への定着は度外視できなかったから, 72 年には教部省と大教院を設け,教導職の制度を定めて僧侶も教導職に任命し, 仏教や民俗信仰から生まれた講社なども組みいれた宣教体制がとられた。だが,宣教すべき教説の内容は,〈三条の教則〉などとして定められていたから,この新しい宣教体制も仏教や講社に自由な宗教活動を認めたものではなかった。そのため,真宗を中心として宗教活動の自由を求める動きが活発となり, 75 年には真宗 4 派が大教院から離脱して,こうした宣教体制は崩壊した。 仏教側のこうした自立への動向に加えて, 80 年から翌年にかけて,東京日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界にはげしい論争がおこり,天皇の裁定によってようやく収拾された。 神道に共通する教義体系をつくることは不可能であること,国家が復古神道的な教説で宗教活動を直接に統制することは近代国家にふさわしくないことなどを認識した政府は, 82 年には神官の教導職兼補を廃止し,神官は葬儀に関与しないことを定めた。こうして神社は,祭祀儀礼を中心とすることになり,独自の教義体系をもつ神道教団は教派神道として独立した。広い意味では,維新政府成立直後からの神道国教化政策を含めて国家神道と呼んでもよいが,近代日本において独特の国教制度として定着したのは,右のような過程をへて成立した神社崇拝,神社祭祀,神社制度であり,それが国家神道と呼ばれている。
近代日本においては,全国の神社は伊勢神宮と宮中三殿を頂点として整然とした位階制に編成されており,神社においては国家の定めた祭祀が行われ,祭祀の様式も国家によって統一的に定められていた。神職は国家の官吏ないしその待遇をうける存在であり,すべての国民は特定の神社の氏子であった。それぞれの神社の信仰や祭儀の内容には伝統に由来する特質がなお保持されてはいたが,国家による統制と画一化はいちじるしく強められ,地域の小祠も一村一社の村氏神をつくりあげる方向で統合されて,統合されることのない民俗信仰的な諸次元のものは, 黒祠や迷信として弾圧された。大日本帝国憲法は制限つきながら信教の自由を規定していたが,それはこうした神社崇拝の受容を前提として承認されるものであった。神社崇拝が実際には宗教としての性格をもっていることは,政府当局者も認めていたが,しかし法的にはそれは宗教でないとすることで,憲法における信教の自由の規定や近代国家における政教分離の原則と矛盾しないという強弁がなされて,それが政府の公式見解とされた。神社崇拝がどの程度まで国民に強制されるかは,時代状況によって異なっていたが,1930 年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には,神社は戦争遂行の精神的支柱としてとりわけ重んじられ,たとえばキリスト教の教会やキリスト教系の学校などに対しても,伊勢神宮の大麻の奉祀が強制されたりした。
1945 年 12 月 15 日,連合国総司令部は,いわゆる神道指令 (国教分離指令) によって,神社に対する特別の保護の停止,神道施設の公的機関からの撤去などを指示し,国家と神道との完全な分離を命じた。翌年の元日には天皇の〈人間宣言〉がなされ,つづいて神道関係法令が廃止されて,国家神道は完全に解体した。なお,1935 年の調査によると,神社数は,官・国幣社 199,府県社 1016,郷社 3607,村社 4 万 4864,無格社 6 万 1351 で,神職は約 1 万 5000 人であった。
安丸 良夫