とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

日本 「仏教渡来と飛鳥の仏教」 7

2006年12月10日 07時11分31秒 | 宗教・哲学・イズム
【日本】
[仏教の渡来と飛鳥の仏教]
 仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに 6 世紀の初めに信奉されていたと考えられるが,公式の伝来は百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときとされる。この仏教公伝の年について 538 年説と 552 年説があるが,今日では《上宮 (じようぐう) 聖徳法王帝説》や《元興 (がんごう) 寺伽藍流記資財帳》により前者の 538 年 (宣化 3) を公伝の年と考える学者が多い。公伝当初,蘇我稲目 (いなめ) は崇仏を,物部尾輿 (もののべのおこし) は排仏を,天皇は中立の立場をとったといわれるが, 仏教はいくたびかの迫害をうけながらも,蘇我氏を中心に渡来系氏族が多く居住していた飛鳥の地に最初に根づいた。そして,587 年 (用明 2) の排仏派の物部守屋 (もりや) 滅亡を契機に,用明朝つづく摂政聖徳太子の推古朝に,仏法興隆の道がひらけた。この時期の仏教の中心は飛鳥と斑鳩 (いかるが) だった。飛鳥では 6 世紀末,蘇我馬子が百済系の技術を取り入れて日本最古の伽藍とされる法興寺 (飛鳥寺) を建立し,そののち当寺はこの地域の仏教の中心として栄えた。蘇我氏とともに仏教興隆に尽くした聖徳太子の事績も大きい。太子は仏教に深く帰依し,法華・勝鬘 (しようまん)・維摩 (ゆいま) の三経の注釈書,いわゆる《三経義疏(ぎしよ) 》を著した。 594 年 (推古 2) 有名な三宝興隆の詔が出され,これを契機に臣 (おみ)・連 (むらじ) などの豪族が競って寺を建て,またその第 2 条に〈篤 (あつ) く三宝を敬え〉の有名な文言がある十七条憲法は今日偽斤説が主張されるが,それでも太子の政治思想が,仏教を根幹に置いて,その普遍的な教理思想のなかで国家統一を志向したことは確かであろう。太子は 605 年 (推古 13) 斑鳩に移り,この地が飛鳥とならんで当代仏教の中心となった。斑鳩には前後三つの法隆寺が存在したと考えられる。在地豪族の膳 (かしわで) 氏が建立した第 1 次の寺,太子が建てた第 2 次の若草伽藍,そしてその再建の第 3 次の寺である。こうして推古朝期,中央豪族の私寺建立が多くなった。この時代の建立と確認される寺址は,今日,奈良県 21,大阪府 6,京都府 4,兵庫県 1,岡山県 1 の計 33 ヵ寺に達している。これら推古朝期までの寺院は,正確にはすべて豪族の私寺である。推古天皇はその在位中,みずから寺を建てることも,宮廷内で仏事法会を営むこともなく,天皇自身は異国の神である仏教に対して天皇家伝統の傍観的態度で終始した。
 天皇が建立した日本最初の寺院は,舒明天皇が 639 年 (舒明 11) に建立した百済大寺である。舒明天皇の 2 人の皇子,天智・天武両帝も仏教を積極的に受容した。天智天皇は飛鳥の川原寺と大津の崇福寺を建て,天武天皇は諸国の家ごとに仏舎を作り仏像と経典を置くことを命じ,また父舒明天皇が建立した百済大寺の後身として飛鳥京に高市大寺 (たけちのおおでら) を造営した。この寺はのちに大官大寺(だいかんだいじ) と呼ばれて,東大寺ができるまで,官寺第 1 位を占めた。さらに天武朝期,難波の荒陵寺が四天王寺と改称され,また皇后の病気平癒を祈って薬師寺の建立を発願し,これが次の文武朝に完成し,この天皇代に大官大寺,川原寺,薬師寺,法興寺が飛鳥四大寺に指定され,ここで仏教的な国家行事が行われた。こうして舒明,天智,天武,文武に至る時期に, 仏教は氏族受容の段階から宮廷受容のものとなり,天皇が帰依する国家仏教の道を歩みだした。舒明・天智・天武の陵墓が八角墳であることは,仏の世界の象徴である蓮華往生の思想と関連するものと考えられる。白鳳時代の寺院数は,今日 520 余を数え,分布は関東から北九州に及び,仏教の急速な地方伝播が,律令体制の全国的拡張と照応することを示している。
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