最近、反家庭連合の紀藤正樹弁護士とかその後輩の阿部弁護士のTweetとかを見ていると、言葉足らずで意を尽くしていないので、なんだか品がないな、と感じる。
ま、多数派に属して、裁判の結果とかがいいと、どうしても言葉足らずになり、それが少数派から「下品」「傲慢」「高慢」って受け取られるんだろう。。
って考えると、本日のさいたまシンポジウムでパネルディスカッション(窪田順生さん、小嶌希晶さん、今中カナさんと)をしながら、ひらめいた。
多数派の言動は、少数派からは、
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
ってのは、ほとんど一般化できる普遍的真理ではないか、と。
こうも言い換えられる:
支配派の言動は、被支配派からは、
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
例えば、
- 日本で、日本人が、外国人に対して、デリカシーがない
- 仕事で、男性が、女性に対して、デリカシーがない
- 健常者が、障害者に対して、デリカシーがない
- 健康な人が、病気がちの人に対して、デリカシーがない
- 能力ある人が、ない人に対して、デリカシーがない
- 学歴ある人が、ない人に対して、デリカシーがない
- 金持ちが、貧乏人に対して、デリカシーがない
- 出世した人が、左遷された人に対して、デリカシーがない
- モテが、非モテに対して、リテラシーがない
- ノッポが、チビに対して、デリカシーがない
- 巨乳が、ペチャパイに対して、デリカシーがない
- 美人が、ブスに対して、デリカシーがない
- イケメンが、ブサメンに対して、デリカシーがない
- 子がある者が、子がない者に対して、デリカシーがない
- ストレートが、LGBTに対して、デリカシーがない
- 英語得意な人が、不得意な人に対して、デリカシーがない
これらすべて、実際に「デリカシーがない」かどうかはともかく、「デリカシーがないように見える」ってことは、たくさんあるはず。
例えば、英語が不得手な人にとっては、だれかが英語を喋るのを聴くだけで、「鼻につく」と受け取られる。そう聞こえちゃう。
私なんか、仕事的には、多数派(ないしは、支配的な地位にいる側)に属するが多い、、
東大卒の私が言うことと、同じことを高卒の人が言ったとして、同じ内容なのに、私が言ったからという理由で、聴き手が腹を立てる、ということはある。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が重要だったりする。
能力の低い人からは、能力の高い人の「存在だけで不愉快」だったりしますから、、 私も私の存在自体がハラスメント的になっている場合もあるだろう、、、 心せねば。
いい他山の石になりました。
この、多数派の言動は、少数派からは、高慢・下品に(デリカシーなく)見えるってのは、多数派には、気が付かない。
自分が多数派に属するということ(少数派が存在するということ)すら自覚的ではない場合がありますから、、、
反家庭連合さんのお陰様で、すごくいい勉強になりました。常に社会の片隅にいる(ように思える)少数派の存在を念頭においた、言動をとらないといけませんね!