非国民と呼ばれて バリケイト伊東 最近、良く非国民という言葉を目にするようになった。この言葉は戦前の軍国主義の時代に良く使われた言葉だ。戦争反対を主張する人々、政権批判する人々、人権派の人々を非国民扱いして社会から仲間はずれにした。国民は、国の政策方針に100%従わなければいけないような雰囲気を当時の政府が作り出したことだ。今の日本でも、東京オリンピック反対と叫べば、天皇制反対と叫べば、安倍政権反対と叫べば、辺野古の海上への移設反対と叫べば、不倫する人々を、あいつは非国民だとののしるような雰囲気が作られつつある。なんともいやな雰囲気だ。ファシズムとは民主主義とまったく反するイデオロギーだ。全体主義の悪魔が台頭してきてるのだ。多くの国民は危機感を持ってない。危機感を持って、全体主義への動きを監視しなければいけない。民主主義の世の中では、多様な価値観、多様な表現、多様な宗教、言論活動の自由は保障されなければならない。安倍政権が進める憲法改正には、全体主義への回帰が濃厚にでてる。天皇を中心にした政治を復活させたいらしいが、時代錯誤もはなはなだしい。戦前の自由もない、平和もない、豊かさもない、人権もない時代に逆戻りさせてはいけない。国民相互の監視社会にしてはいけない。密告社会にしてはいけない。内向きのゆがんだナショナリズムは、日本を右傾化させ全体主義の雰囲気に国民を少しずつ慣れさせようとしている。歴史は繰り返すのだ。戦前の暗黒時代に日本は少しづつ進んでるようだ。この動きを阻止しなければならない。民主主義は守らなければならない。人々を非国民扱いして、社会から排除するのは絶対にやってはいけない。明日は我が身なのだ。あなたやあなたの家族が非国民扱いされて、社会から排除されるかもしれないのだ。多くの国民は、しっかり、今の日本政治の流れを見守らなければならない。今、日本では民主主義が壊れつつある。壊してはいけない。危機感を持ちましょう。
静かに腐る バリケイト伊東 冬季オリンピックで日本人選手ふたりが金メダルを取って、ナショナリズムの高揚感がたかまってる。それはそれでいい。頑張りにご褒美が与えられた。しかし、期間中も老人ホームでの虐待事件や、オレオレ詐欺、ヘイトスピーチ、貧困格差問題、自殺、いじめ、深刻な人権侵害など、日本の負の側面が変わらず浮き出てる。オリンピックで好成績を上げて、日本は強い、すごい、いい国だと自慢げに話たくなるが、日本社会の負の側面を忘れてはいけない。オリンピックの2週間ぐらいの期間は、お祭りの高揚感で日本の負の側面を一時的に忘れさせてくれる。日本が抱えてる負の側面は何10年も続いてるのだ。今後も続くだろう。日本は衰退期に入ってる。栄える者は滅びるということわざがある。永遠に栄える国、民族などないのだ。あちこちで建物や道路の大規模工事が行われてる。経済発展に見えるが、これは虚構の繁栄だ。人々は盛り場のネオンライトを神とあがめたてまつる。ライトなど虚構の明かりなのだ。多くの日本人は強いストレスと不安の中で、方向性を失い漂流している。虚構のネオンライトを灯台と勘違いしている。このまま行けば、波に飲み込まれ海の藻くずになる。日本は今、虚構と閉塞の中で、静かに腐ってゆく。
気になること バリケイト伊東 気になることがある。それは地震だ。東京ではこのところ地震がまったくない。嵐の前の静けさか。自然災害忘れた頃にやってくる。台湾で地震が起きた。大被害をもたらした。草津でも火山が噴火した。前兆なのかもしれない。関東平野は過去に何度も大地震を経験した。1923年の関東大地震は最近の大地震だ。死亡者は10万人だ。今、東京に大地震が起きても、10万人は死なないであろうが、かなりの人が死ぬであろう。相手は自然なのだ。人間にはコントロールできない。予知もできない。自分の身は自分で守らなければならない。人を助けようにも、自分が怪我していては助けられない。なるようにしかならない。死んだら運命として受け入れるしかならない。遅かれ、早かれ人は死ぬのだから。地震に対して心の準備はしてたほうがいい。その時、生き延びるために、何をするべきなのか考えておいたほうがいい。地震は日本の名産物なのだから。大破壊王はいつも我々の側にいる。彼とは友達になれない。怒らないように祈るだけだ。
また大量殺人 バリケイト伊東 オリンピックで世の中浮かれてるが、アメリカのフロリダの高校で銃の乱射で、17人もの若い命が奪われた。犯人はここの高校の退学処分を受けた19歳の男だ。今まで、アメリカでの銃の乱射による殺人事件は、何度も繰り返されてきた。アメリカは重度の病気だ。アメリカは世界一豊な国だが、アメリカ人の心は病んでる。個人の病理というより、社会の病理なのだ。命を奪われた10代の若者達の無念さが伝わってくる。子供を殺された親の悲しさが伝わってくる。こんな事件これで終わってほしい。日本でも近年大量殺人は起きてる。障害者施設で19人の障害者が殺された。秋葉原での通り魔殺人も記憶に新しい。日本にも誰でもいいから殺したいなんていう人間が多くいるのだ。アメリカは銃規制を強く進めるべきと思うのだが、全然進まない。トランプは銃規制に消極的だ。日本並みに規制すれば銃による殺人は全然少なくなるであろう。銃の製造、販売でめしを食ってる人々の利権の壁が規制を作らせない。また大量殺人は近い未来に起こるであろう。犠牲者のことを思うと気が重くなる。神はなんの為に人間を創造されたのか。殺し合いをするために創造されたのではないであろう。愛しあうために創造されたのであろう。
ブランド品、好きですか バリケイト伊東 日本人のブランド品好きはかなりのものだ。100万円もの時計や200万円ものハンドバックを買う。私はまったくブランド品なんて興味がないので、買ったこともないし、今後も買うことはないであろう。時計は時間がわかればいいのだ。1000円の時計で十分だ。今や。誰でも携帯を持ってる。携帯を見れば時間はわかる。ハンドバックだって小物を入れるだけだ。100万単位のお金で時計やバックを買う必要はまったくない。私は物をステータスにする考え方を持ってない。物で人格、人生を証明しようという考え方を持ってない。薄いぺらぺらの人間性にブランド品を身につけたって、豚に真珠だ。物で人間を大きく見せようとする魂胆が気にいらない。ブランド品を身につけてはいけないと、言ってるわけではない。日本は自由な社会だ。ブランド好きもいれば、嫌いもいる。それでいいのだ。しかし、日本人は買うのではなく、買わされてるのだ。養鶏場の自動給餌器の餌を食わされてるようなもんだ。踊らされてるのだ。権威に弱い民族性はブランドビジネスに最高の市場を与えてる。最近、日本人はさらにブランド品ばかりでなく、物に対しての依存が強くなってるようだ。そんなに物を買い集めたって幸福なのか。心淋しいから物に依存するのではないか。家をゴミ屋敷にするほど物を欲しがる。これは依存症という心の病気だ。日本には物依存症の患者が山程いるのだ。ほとんどの患者は自覚がない。経済界にとっても、消費を活発にするには、物依存症患者が多いほうが好都合なのだ。誰もが清貧の思想に感化されては困るのだ。資本主義とは欲望をエネルギーにしている。欲望の薄い人間ばかりになってしまったら、社会はしぼむ。風船から空気が抜けてゆくようなもんだ。資本主義を健全に運営するためにも、ある程度の物依存は必要なことかもしれない。物依存を認めるにしても、借金してまでブランド品を買うことはない。