今日も朝から東京のテレビは、食い物と芸能人ねたを放映する。のんきなもんだ。日本と韓国との間で深刻な外交問題が起きてるのを、日本国民は知ってるのか。韓国の軍艦が、同盟国の日本の軍用機にレーザー照射を行った。ミサイルを誘導するためのレーザー照射だ。日本は、かなりなめられたもんだ。だれの命令でこんな事がなされたのか、それが問題だ。船長の命令なのか、ミサイル発射の兵士の誤操作か、意図的になされたのか、意図的ならどのような意図でなされたのか、真相はしっかり解明されなければならない。このような事件の背景には、ぎぐしゃくとした今の日韓関係が見えてくる。徴用工問題であり、従軍慰安婦問題であり、いい関係とは言い難い。幸い、草食化した日本人は、韓国大使館に押し寄せてペットボトルを投げるような過激な事はしない。反対に、日本の軍艦が韓国の軍用機にレーザー照射をしたら、韓国では大騒動になるだろう。日本大使館に大衆が押し寄せて、ペットボトルを投げつけるような事になるだろう。日本でも、韓国でもナショナリズはム高まってるが、韓国のほうが日本より強いようだ。ナショナリズムはやっかいな問題なのだ。国、民族を愛する事は言いことだ。愛さないよりはいい。愛しかたが問題だ。他民族、他国を侮蔑したり、侵略したり、殺したりするようなナショナリズムは、良くない。お互いに敬意を持つべきだ。ささいな事が軍事衝突になり、戦争につながってゆくのだ。直接武器を扱う軍人は、武器の使用には慎重にならなければならない。兵士も感情のある人間なのだ。ナショナリズムに感化された兵士が、自分の意志で勝手に武器を使用する事はあるかもしれない。だからこそ、兵士教育をしっかりしなければならない。今の日本人が考えてる戦争観と、韓国人が考えてる戦争観はかなり違うようだ。侵略された民族はいつまでも恨みを抱く。日本人は過去の事して忘れがちだ。歴史的背景も複雑なのだ。今後もこのような事件は、起こるかもしれない。政府間でしっかり協議して再発しないようにすべきだ。小さいミスが大きいミスにつながってゆくのだ。ダムの小さい亀裂がダムを崩壊させるのだ。お互いに感情的にならずに冷静に対処していただきたい。戦争より平和のほうが圧倒的にいいのだから。
日産の元最高責任者、カルロスゴーン容疑者が再逮捕された。日本の検察はゴーンを開放したくないようだ。長期勾留が日本の刑事司法の主流とは、時代遅れだ。日本の刑事司法は江戸時代から全然進歩してない。ゴーンは殺人などの凶悪犯ではない。有名人だし国外逃亡もしにくい。日本の国境は海だ。車や列車での逃亡はしにくい。多くの証拠も検察は揃えてる。釈放して家から検察庁に出向いて、取り調べをやったほうがいい。ゴーンはまだ、容疑者なのだ。裁判で確定判決が出たわけではない。もしかしたら、無実になるかもしれないのだ。容疑者や犯罪者にも人権はあるのだ。日本は多くの点で人権後進国だ。代用監獄だなんて言われてる長期勾留は問題が多い。警察や検察は容疑者を支配下に置きたいのだ。長期勾留は、冤罪を生み出す温床になってる。日本自身が今の刑事司法を改良する意思はなさそうだ。特に安部政権下では、可能性はなしだ。オウム真理教の多くの元幹部を死刑にするようなやり方は、国際的には評価されない。世界では、死刑は廃止に向かってる。日本のメディアもゴーンの長期勾留を批判する論調は少ない。刑事司法においても、日本はガラパゴスだ。大陸から離れた孤島では生物は独特の進化をする。インターネットの時代と言いながら、日本は精神的にも島国だ。島特有の進化があるのだ。国際標準に合わせなければいけない物は、合わせるべきだ。民族のアイデンティティとか、固有の文化は維持すればいい。なんでもかんでも、国際標準にあわせなくてもいい。ゴーンの逮捕は、世界が注視している。同時に日本の刑事司法の在り方も、世界は注視している。ゴーンの逮捕はひと事ではないのだ。あなたが警察や検察に長期勾留されて、冤罪の汚名をかぶされたらどんな気持ちがするのだ。日本の江戸時代みたいな刑事司法は、変えなければならない。
東京は良い天気だ。しかし、日本を包む閉塞と虚構のくそ溜まりは、どうしようもなく重い。日本は暴動もない、戦争もない、テロもないが、今の秩序と安定感はうそ臭い。国民の心は慢性的にもやもや、いらいらしている。幸福の青い鳥を追い求めても、鳥はつかまらないのだよ。永田町の官邸には、不幸の黒い鳥がいる。日本の一部、いや、かなりの人が黒い鳥を青い鳥と勘違いしている。黒い鳥を追っていったら不幸のどん底を味あうようになる。ファシズムおたくの権力者は、国民を不幸にする。今の閉塞と虚構をぶち壊すのは、日本人というより、自然災害の破壊力であろう。今年は大災害が多く起きたが、もっと大きい災害が日本を襲うであろう。徹底的な破壊が閉塞と虚構のくそ溜まりを一掃して、日本を再生させるだろう。その日は近い。いやでも、変化をよぎなくされる。宇宙137億年、宇宙に存在している物、すべて刻々変化してるのだ。変化しない物はない。今の日本の時間が止まったような閉塞感は、永遠には続かない。大変化が日本を襲うであろう。政治も、経済も、文化も大きく変わるだろう。
日本がIWCから脱退を決めた。今までも日本の捕鯨に対しての態度には、欧米からの反対が強かった。日本は細々と調査捕鯨を行ってきた。調査と言いながら、生け捕りではない。ミンククジラ900頭ばかりを南極海で殺し、その肉を売ってきたのだ。商業捕鯨ではないか。私は昔から日本の捕鯨には反対してきた。日本の食文化の維持のために、捕鯨をやり続けるという主張にはうそとごまかしが多い。現在、日本人の鯨肉の消費量は微々たるもんだ。多くの日本人はクジラ肉を見た事もないし、食べてない。戦後の食糧難の時代には、日本人の胃袋を満たしてくれた。今は飽食の時代だ。鯨を取らなくても、十分に食料は足りる。日本近海で捕獲された鯨と南極海でのミンククジラを合わせても、日本の人口1億2千500万人が食べれば、ひとりあたり1グラムにもならないのではないか。これで食文化と言えるのだろうか。脱退の背景には政治が色濃く反映している。捕鯨の町、下関のある山口県は安部の選挙区だし、大地町のある和歌山は二階堂幹事長の地元だ。捕鯨に関わる選挙民を優遇してるのではないか。日本全体でも捕鯨に関わる人間は微々たるもんだ。自動車産業みたいに基幹産業というようなもんではない。それなのに、IWCを脱退してまで商業捕鯨を開始するのは、国際社から強い非難を浴びるだろう。特に欧米からの避難は強いであろう。今では、自然保護の象徴になってる鯨を殺すのは、日本のイメージを悪くする。日本人は残虐に鯨を殺す最低民族だ、そんなイメージだ。日本でも、小笠原では鯨ウオッチイングは観光資源になってる。鯨を生かして商業に活用したほうが利益を継続的に生み出す。アメリカで、オーストラリアで、EU各地で激しい抗議活動が起きるだろう。日本製品のボイコット運動が起きるかもしれない。日本への観光客の来日が少なくなるかもしれない。欧米人は、本当に日本の鯨殺しには怒ってる。本来、日本で激しい抗議活動が起きなければならないのだ。野党の政治家から反対の声を聞いた事がない。捕鯨反対を言う人は、非国民になるのか。日本のメディアも捕鯨反対の論調は少ない。捕鯨に関してはナショナリズムがむき出しのようだ。日本の悪口をいうやつは、許さないという雰囲気なのかもしれない。トランプみたいに俺流を貫くのは、国際社会との間に大きい摩擦を生み出すだけだ。日本の常識、世界では非常識なのだ。島国日本のガラバガス化は病的レベルだ。今後の展開が楽しみだ。
知人が肺がんで亡くなった。私の回りでも多くの人がガンで死んでる。日本は世界で一番ガンの罹患率が多いのが実感できる。人は死ぬように設定されてる。生まれると同時に死のゴールに向かって進んでゆく。どんなにか健康でも、10000メートルの高さから落ちたら死ぬ。どんなにかお金や権力を持ったところで死は必ず訪れる。人間の致死率は100%だ。70億人が生きてれば、70億人の死がある。日本人は他人の死には敏感だ。自分の死は遠ざける。自分の死に対して一番敏感にならなければならない。ただただ死は怖いと思ってるようだ。生きても110年の人生だ。宇宙137億年の時間の長さに比べれば110年ぐらい微々たるものだ。死は目前にある。遠い未来にあるものではない。生まれて1時間後に死ぬ事もあるのだ。1時間も100年もさほど変わらない。人間的時間スケールなど、宇宙時間からするとどうでもいい事だ。悟ったような事を言う私だが、死にたくない気持ちは強い。健康には恵まれてるが、突然の死もあるかもしれない。朝、起きて一番に考える事は、もしかしたら今日、死ぬかもしれないと頭に浮かべる事だ。人の運命などわからないのだ。だからこそ、今をしっかり生き抜くのだ。今、ここに生きてる事は確かだ。一寸先は死なのかもしれないのだ。死は逆説的なものかもしれない。死を目前にしたほうが人は生き生きしてくる。限られた時間をしっかり生き抜くのだ。だらだら生きるだけが能ではない。特攻隊のパイロットは死の覚悟で飛び立つのだ。天皇ためとか、国のためとか大義は、私からするとばかばかしいが、死を結晶化した思いは評価できる。今の下痢便垂れ流しのような若者たちの様は、死を覚悟して飛び立つ若者の心情など、全然理解でないであろう。軍国主義をいいなんて言ってるのではない。死があるから、生きるが輝くのだ。もし、人が死ななくなったら、今より人は堕落し下痢便垂れ流しの人生を送るようになるだろう。死のない人生など不幸なのだ。人生には絶対的に死がついてまわる。今日生きる事は、今日死ぬ事だ。今生きる事は、今死ぬ事だ。今、日本人は平和の中で生きる方向性を見失ってる。ふらふらとさまよってるだけだ。戦後民主主義の中で、死を意識させない、死を遠ざけた生き方は、生きる意味を見失う。死を意識し、目前に置いたほうが人生は生き生きとしてくる。この考え方を国家が個人に強要してはいけない。戦前の軍国主義はまさにそうだった。全体の中の死を美化してはいけない。死とはあくまでも個人的なものだ。生き様もいろいろ、死に様もいろいろなのだから。私も1時間後には死んでるかもしれない。なにも後悔はしない。それが運命なのだ。ありのまま受け入れる。毎日、毎秒、死を意識している。私が死のうが、生きようが地球は回り続け、宇宙はあり続ける。私の死など屁みたいなもんだ。今、ガンなどの死の病に直面している人には、私が書いた記事はきついかもしれない。不愉快な思いをされたならお詫びする。あくまでも私の死生感だ。