知人が肺がんで亡くなった。私の回りでも多くの人がガンで死んでる。日本は世界で一番ガンの罹患率が多いのが実感できる。人は死ぬように設定されてる。生まれると同時に死のゴールに向かって進んでゆく。どんなにか健康でも、10000メートルの高さから落ちたら死ぬ。どんなにかお金や権力を持ったところで死は必ず訪れる。人間の致死率は100%だ。70億人が生きてれば、70億人の死がある。日本人は他人の死には敏感だ。自分の死は遠ざける。自分の死に対して一番敏感にならなければならない。ただただ死は怖いと思ってるようだ。生きても110年の人生だ。宇宙137億年の時間の長さに比べれば110年ぐらい微々たるものだ。死は目前にある。遠い未来にあるものではない。生まれて1時間後に死ぬ事もあるのだ。1時間も100年もさほど変わらない。人間的時間スケールなど、宇宙時間からするとどうでもいい事だ。悟ったような事を言う私だが、死にたくない気持ちは強い。健康には恵まれてるが、突然の死もあるかもしれない。朝、起きて一番に考える事は、もしかしたら今日、死ぬかもしれないと頭に浮かべる事だ。人の運命などわからないのだ。だからこそ、今をしっかり生き抜くのだ。今、ここに生きてる事は確かだ。一寸先は死なのかもしれないのだ。死は逆説的なものかもしれない。死を目前にしたほうが人は生き生きしてくる。限られた時間をしっかり生き抜くのだ。だらだら生きるだけが能ではない。特攻隊のパイロットは死の覚悟で飛び立つのだ。天皇ためとか、国のためとか大義は、私からするとばかばかしいが、死を結晶化した思いは評価できる。今の下痢便垂れ流しのような若者たちの様は、死を覚悟して飛び立つ若者の心情など、全然理解でないであろう。軍国主義をいいなんて言ってるのではない。死があるから、生きるが輝くのだ。もし、人が死ななくなったら、今より人は堕落し下痢便垂れ流しの人生を送るようになるだろう。死のない人生など不幸なのだ。人生には絶対的に死がついてまわる。今日生きる事は、今日死ぬ事だ。今生きる事は、今死ぬ事だ。今、日本人は平和の中で生きる方向性を見失ってる。ふらふらとさまよってるだけだ。戦後民主主義の中で、死を意識させない、死を遠ざけた生き方は、生きる意味を見失う。死を意識し、目前に置いたほうが人生は生き生きとしてくる。この考え方を国家が個人に強要してはいけない。戦前の軍国主義はまさにそうだった。全体の中の死を美化してはいけない。死とはあくまでも個人的なものだ。生き様もいろいろ、死に様もいろいろなのだから。私も1時間後には死んでるかもしれない。なにも後悔はしない。それが運命なのだ。ありのまま受け入れる。毎日、毎秒、死を意識している。私が死のうが、生きようが地球は回り続け、宇宙はあり続ける。私の死など屁みたいなもんだ。今、ガンなどの死の病に直面している人には、私が書いた記事はきついかもしれない。不愉快な思いをされたならお詫びする。あくまでも私の死生感だ。