狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

Sympathy for the Devil

2018年04月15日 14時30分56秒 | 曲名がタイトルの日記





 狐は或る日の夕、神社の境内の大きな木の下で友人が坐つてゐるのを見た。
 此の友人は姫君のやうに美しいかんばせを持つてゐる。
 こまねいた両手と云ひ、項垂れた頭と云ひ、恰も何事かに深く思ひ悩んでゐるらしい。
 狐は友人の身を気づかつた。
 友人が悪魔に魅入られてゐるやうな瞳をして美しいかんばせを曇らせ思案をしている姿に唯事ではないと思つたのである。
 狐は友人に近づき、何を悩んでいるのか仔細を問ひ質した。



   「人の価値感は人それぞれで考え方も人それぞれで好みも人それぞれであってそれを無理矢理一つにすることは不可能です。
    人の価値感は人それぞれで考え方も人それぞれで好みも人それぞれで好きな異性のタイプも人それぞれで性癖も人それぞれなわけです。
    『性的な表現がある』というのは直接的な性的な表現があるならば『性的な表現がある』とは言えますが、そうでない場合は人それぞれ感じ方が違うのです。
    『性的な表現がある』から自分は観ないという判断をする或いは『性的な表現がある』から自分の子供には見せないと判断をすることはそれは個人の自由です。
    しかし自分は不快に思うから全ての人が観てはいけないと判断して圧力をかけるのは価値観を無理矢理一つにする行為です。

    自分の性癖が絶対的な価値感となりうる正しさを持っていると自信を持って言える人がこの世にいるのでしやうか?
    人は思わぬものに欲情したり反応したりするものです。
    その意味で『性的な表現がない』ものは本当に存在するのでしやうか?

    人は皆、変態さんである。と私は思つているのです。
    皆、自分の性癖こそがノーマルと思つている変態さんなのだろうと。
    だからといつて開き直る必要はないとは思うのですが……。
    自分の性癖が絶対的な価値感となりうる正しさを持っていると自信を持つて言える人がこの世に居るとは私には思えないのです。
    居たとしてもその人はそう思っているだけの変態さんであると私は思つているのです。
  
    でも、そうは思つていても私は誰にも見せずに描いている漫画の内容に罪悪感を覚える時があるのです。
    私はいやらしい。いやらしい変態なのだ。
    そう思えて自分が厭になって哀しくなると気があるのです。
    これ程不思議な哀しさが又と外にありませうか。
    私はこの哀しさを味ふ度に、昔見た天国の朗かな光と今見てゐる地獄の暗闇とが私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな気がします。
    どうかさう云ふ私を憐んで下さい……。
    私は寂しくつて仕方がありません」

 美しいかんばせをした友人はそう云つて涙を流した。


 狐は友人に云つた。
 「いちいち悩むな。描きたいものを描け。描くがよい。描いて私に讀ませろ」と邪悪な笑みを浮かべて狐は云つた。
 「案ずるな。君の云う通り人はみな変態さんだ。欲情する対象は欲情するシチュエーションは人それぞれだよ。気にするな。欲望の赴くまま思う存分描くが良い。描いて私に讀ませろ。そもそも君は自分がいやらしい人間だと思うことで哀しくもなるのだろうけれども自分で盛り上がって興奮もしているのだろ?」
 友人は瞳を潤ませ悪魔に魅入られたやうな表情でその美しいかんばせを上げて狐を見詰めてこくりと頷いた。
 「変態」
 友人はぽつと頬を朱く染め俯いた。



 神よ。我等を憐れむがよい。
 我等は業が深いのだ。



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