おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その3。「平尾入定塚」・「平尾十三塚」。畑地。

2023-04-20 18:43:41 | 都県境を探る

しばらく山道が続きます。右が川崎市、左下が稲城市。

稲城市平尾。

都会境標。

右手には竹林や雑木林が。

                

山道が終わり、公道に。

   この奥の森へは立入禁止区域。 

都県境にあたるの森の左手には、「平尾入定塚」跡、さらにその先には、「平尾十三塚」があります。

「平尾入定塚」は、見逃してしまいましたが、  

「平尾十三塚」解説板。

            奥の森。

平尾十三塚(ひらおじゅうさんづか)

東京都稲城市平尾二丁目と、神奈川県川崎市麻生区五力田の境にある十三塚。東京都内で唯一、13基の全てが現存している十三塚である

稲城市平尾は多摩丘陵を造成して平尾団地が建設されるなど、丘陵地帯だが開発が進んだ地域である。

平尾十三塚は、この平尾団地南側の造成を受けていない区域にあり、稲城市と川崎市との境界をなす丘陵稜線上に13の塚がほぼ東西向きに整然と並んでいる。一般的な十三塚に見られる通り、中央の塚(7号塚)がやや大きく、両側に6基ずつやや小さい塚が並ぶ

なお平尾十三塚の近くには、1536年(天文5年)に長信という僧侶入定を遂げるために埋められた「平尾入定塚」がある。また少し離れた平尾一丁目には江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」があり、平尾仏教関係のが密集している地域でもある。

1959年(昭和34年)と1968年(昭和43年)に発掘調査されており、中央の7号塚を中心に調査が行われたが、これも一般的な十三塚に見られる事例と同じで出土品等が全くなく、造られた年代やその目的などは不明のままとなった

稲城市の馬場家に残る1686年(貞享3年)の裁許状(馬場家文書)によると、平尾村と片平村・古沢村(川崎市側の村)との間で入会地をめぐる争いがあり、昔からこの地にある平尾入定塚と平尾十三塚を結ぶ線を村の境界に定めたという。このため、江戸時代前半よりは古い時代からあったことは確実とみられている

※平尾入定塚(ひらおにゅうじょうづか)

東京都稲城市平尾二丁目にある、16世紀前半(室町時代末期)に築造された発掘調査により、1536年8月31日天文5年8月15日)に長信という修行が内部に埋められ、「入定」を遂げた塚であることが判明した。

稲城市平尾は多摩丘陵の山野を開発して平尾団地が造成された。入定塚は平尾団地内の造成を受けていない区域にあり、フェンスごしに見学することができる。出入り口の近くには入定塚の歴史と、稲城かるたの「入定の 長信坊は 塚残し」という碑文と長信坊の絵札が記載された石碑がある。・・・少し離れた平尾一丁目には、江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」がある。

入定塚は1959年(昭和34年)8月に発掘調査された。塚は一辺が約10.8メートル四方の正方形をしていて 、内部には、礎石を伴う4本柱と板材を組んで作った1.8メートル×2.1メートル、高さ推定1メートルの地下空間があった痕跡があり、板材を打ち付けるための鉄釘7本や、鉄製の刀子1本、銅銭44枚、板碑9枚が発見された。このなかの板碑の1枚に「天文五年丙申八月十五日、長信法印入定上人」と金泥を塗り込んだ文字が彫られていたことから、室町時代の1536年(天文5年)に僧の長信が入定を果たすためにおそらく生きたまま中に入り、そのまま埋められた塚であることが解った。

中世から江戸時代にかけて、真言密教系の僧侶の中には、弥勒菩薩来迎を待ち、衆生の救済を願って、を唱えながら土中に埋められ入定に至るという過酷な修行をする者たちがいたが、平尾の入定塚はその実例であり、作られた年月日まではっきりとわかる遺跡として貴重なものであったため、発掘調査時の図面などの資料と合わせて稲城市の文化財(考古資料)となった

その先、住宅地の右下に畑地が広がる。

       

           農作業に忙しいようす。その脇の小道を保育園児が元気に坂を下りていきます。

コメント
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