癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(後記・第十四章)

2011-10-02 | シルディ・サイババ

ババの熱心な帰依者であるタナのB.V. Dev.氏はマムラトダールを退職すると、この主題(ダクシナ)について、”’Sri Sai Leela”誌のVol.II P.6-26に次のような記事を掲載している。

                              

「ババは全員にダクシナを要求したのではなかった。要求されないのにダクシナを渡す者がいると、ババは時々はそれを受け取ったが、それ以外は受け取りを拒んだ。彼がダクシナを要求したのは限られた帰依者のみであった。彼は、ババはダクシナを要求するだろうから、その時は払わなくてはならないと心の中で思っている帰依者たちには、要求をしなかった。

 

もし誰かがババの意志に反して差し出した場合には、彼はそれには触れず、もしその帰依者がそこに置いたままにした時には、ババは彼にそれを持って帰るように言った。帰依者の願いや信仰心、都合によって、ババが要求するダクシナが小額だったり大金だったりした。彼は女性や子供にも要求した。金持ち全てに要求したのでも、貧しい者全てに要求したのでもなかった。

 

ババはダクシナを要求しても払わなかった人々に対して決して怒ったりはしなかった。もし友人にダクシナを託したのにババに渡すのを忘れているような場合は、ババは彼にそのことを思い出させて支払いをさせた。ある場合には、ババはダクシナとして差し出された金額からいくらかを返して、差し出した者の祭壇に置いておくように言ったりした。

 

この通りにすると、帰依者は大きな利益に恵まれた。もし誰かが求められた以上の金額を差し出した場合には、ババは余分な金額を返した。時々ババは、帰依者が元々払おうと思っていた金額より多くのダクシナを求めた。彼らにお金がない時には、ババは他の人に請うなり借りるなりしてくるように言った。中には一日に3回も4回もダクシナを求めることもあった。

 

ダクシナとして集められたお金の中から、ババはほんの小額を、チルム(パイプ)やドゥーニ(聖なる火)の燃料を買うなど、自分自身のために使った。残りは慈善金として様々な金額を様々な人々に配った。シルディ・サンスタンにある装飾品や設備は、ラーダクリシュナマイの要請や提案によって、裕福な帰依者たちによって整えられた。

 

ババは高価で贅沢な物品を持ってくる人がいると、いつも激昂してその人たちを叱った。ババはナナサヘブ・チャンドルカール氏に、自分の財産はコウピン(コッドピース)と、ほつれた布切れ一枚と、カフニ一着、トゥムレル(ブリキのポット)だけなのに、皆があれこれと不必要なぜいたく品を持ち込んで自分を悩ますのだと言っていた」

 

女と富は私たちのパラマルタ(霊性生活)の道における2つの主な障害物であり、ババはシルディに2つの慣例を設けていた。すなわちダクシナとラーダクリシュナマイである。ババのところへ来たときはいつでも、ババがダクシナを要求し、彼らに学校’(ラーダクリシュナマイの家)に行くように言った。

 

彼らがこの2つの試験を通ったとき、すなわち彼らが女と富への執着から解放されたことを示した時、彼らの霊的な成長は速まり、ババの恩寵と祝福が約束されるのであった。

 

Dev氏はギータやウパニシャドからの一節を引用して、神聖な場所あるいは神聖な人物に供与される慈善行為は、寄付者の幸福につながる、と述べた。シルディより神聖な場所、神であるサイババより神聖な人物などあるだろうか!

 

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように

 


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シルディ・サイババ(ダクシナ)

2011-10-02 | シルディ・サイババ

さて本章はダクシナについていくつかのポイントを挙げて締めくくることにしよう。ババがいつも彼に会いに来た人々にダクシナを要求するというのは、よく知られた事実だ。こう尋ねる人がいるかもしれない。「もしババがファーキルで無執着だというなら、なぜ彼はダクシナを求めたり金銭のことを気にしたりするのか?」ここではこの疑問について広く考えてみよう。

 

当初、ババは長い間何も受け取らなかった。ババはマッチの燃え残りを貯めていて彼のポケットはそれでいっぱいだった。彼は相手が帰依者であろうとなかろうと、誰にも何も求めなかった。もし誰かが彼の前に1パイサか2パイサを置いたとしたら、彼は油かタバコを買った。彼はタバコが好きで、いつもバディかチルム(土製パイプ)を吹かしていた。

 

それから幾人かが、聖者の元へ手ぶらで行くべきではないと考えて、ババの前に銅貨を置いた。1パイサが置かれたときは、ババはポケットに入れたが、2パイサだったときはすぐに返していた。やがてババの名声が広く遠く知れ渡ると、人々は群れをなして押し寄せるようになり、ババは彼らにダクシナ(お布施)を要求するようになった。

 

シュルティ(ヴェーダ)の中で、神のプジャは金貨が捧げられない限り、完了しないと言われている。神のプジャに金貨が必要なら、聖者のプジャにはなぜ必要ではないのか?最終的にはシャーストラが、神や王、聖者、グルに会いに行く者は空手で行ってはならない、として収めたのだった。何を捧げてもよいが金が好ましい。

 

これに関しては、ウパニシャドが薦めている訓示にも注目すべきだろう。ブリハダラニヤク・ウパニシャドは、主プラジャパティは神々と人間と悪魔に、という一文字で助言をしたと述べている。神々はこの文字を見て、ダマすなわち自己統御をすべきだと理解した。人間はダナつまり慈善心が必要だと理解した。

 

悪魔はダヤつまり哀れみの心が必要だと理解した。人間には慈善心や与える心が推奨された。タイッティリヤ・ウパニシャドでは、師は弟子に慈善やその他の徳業をするように熱心に薦めている。慈善について彼はこう言っている。

 

「信念を持って与えなさい。それができないなら、雅量を持って、つまり気前よく謙虚に与え、畏怖と同情の念を持って与えなさい」帰依者たちに慈善について学ばせ、金銭に対する執着を取り除き、彼らの心を浄化するために、ババは彼らからダクシナを取るのだ。だがこれには特色があって、ババ曰く彼は受け取ったものの100倍以上を返さなくてはならないのだという。

 

このことが実際に起こった事例はたくさんある。一つを例に挙げると、有名な俳優ガンパトラオ・ボダス氏は自伝の中で、ババがしょっちゅうダクシナを強要するので、彼はババの前で財布を空にしてみせたと書いている。その結果ボダス氏は、後の人生で豊かな富に恵まれて、お金に窮することは全くなかったのだった。

 

またダクシナには二つ目の意味があり、ババは多くの場合金銭は取ろうとしなかった。2つの例を挙げてみよう。(1)ババはG.G.ナルケ教授にダクシナ15ルピーを要求したが、彼は自分は全くお金を持っていないと答えた。するとババは言った。

 

「君が金を持っていないのは知っている。だが君はヨガ・ヴァシスタを読んでいる。そこからダクシナを出しなさい」この場合のダクシナとは、書物から教訓を得て、ババの住む心の中にそれを留めておくという意味であった。(2)2つ目の事例では、ババはある女性(R.A.タルカッド夫人)にダクシナ6ルピーを要求した。女性はお金を持っていなかったので、傷ついてしまった。すると彼女の夫が、ババは6つの内なる敵(肉欲、怒り、強欲など)をババに委ねるように言ったのだと説明した。ババはこの説明に同意した。

 

ババはダクシナによって多くの金銭を集めていたが、その全額をその日のうちに配ってしまい、翌日の朝には彼はまたいつもの通り貧しいファーキルに戻っていた、ということを記しておく。ババは十年間に渡ってダクシナとして数千万ルピーを受け取っていたにもかかわらず、マハサマディに入った時には、手元にわずか数ルピーしか持っていなかった。

 

つまりババが帰依者からダクシナを取る主な目的は、放棄と浄化という教訓を教えることだったのである。

 

 


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シルディ・サイババ(ナンデッドのラタンジ)

2011-10-02 | シルディ・サイババ

では本章の主題に移ろう。ニザム州のナンデッドに製粉機の請負契約や仲介をしているラタンジ・シャプルジというパルシー教徒が住んでいた。彼には多額の蓄財があり、田畑や土地も所有していた。彼は牛や馬などの乗り物を持っていて大変に裕福だった。外から見れば彼はとても幸福で満足そうに見えたが、内面はそうではなかった。完全に幸福な者などこの世には存在しないというのが神の摂理で、裕福なラタンジも例外ではなかった。彼は寛大で慈善心があり、貧しい人々に食べ物や衣服を与えて様々なやり方で皆を助けていた。

 

 

人々は彼を善良で幸福な男と見ていたが、ラタンジ自身は長い間子宝に恵まれず惨めな思いでいた。愛や信仰心のないキルタン(主の栄光を歌うもの)やリズムのない歌のように、聖糸のないブラーミンのように、常識のない芸術家のように、過去の罪への後悔のない巡礼の旅のように、ネックレスのない装飾品のように、子のない家長など虚しく役に立たないものであった。

 

 

ラタンジはこの問題を四六時中考えており、心の中で、「神は私に息子を授けて下さるのだろうか?」と呟いていた。彼は不機嫌になり、食事もおいしく食べられなかった。昼も夜も彼は自分が息子に恵まれるだろうかと、その心配で頭がいっぱいだった。彼はダース・ガヌ・マハラジを大変尊敬していた。

 

彼はマハラジに会いに行って彼の前で心の内を打ち明けた。ダース・ガヌは彼にシルディに行ってババのダルシャンを受け、彼の足元にひれ伏して祝福を乞い、子を授かるように祈るといいと助言した。ラタンジはこのアイデアを気に入って、シルディに行くことにした。数日後、彼はシルディに行ってババのダルシャンを受けて、その足元にひれ伏した。そしてバスケットを開けて美しい花輪を取り出しババの首にかけると、果物の入ったバスケットを彼に捧げた。敬意を持って彼はババの近くに座りこう言った。

 

「悩みを抱えた大勢の人々があなたの元へ来ると、あなたは彼らを即座に苦痛から解放するといいます。これを聞いて、私はあなたの御足を切望して参りました。どうか私をがっかりさせないで下さい」するとサイババは彼にダクシナとして5ルピーを要求し、ラタンジはこれに応じようとしたが、ババは付け加えて彼からは既に3ルピー14アナを受け取っているから、その差額だけでよいと言った。これを聞いたラタンジはやや困惑した。彼はババが何のことを言っているのか理解できなかった。

 

彼がシルディに来たのはこれが初めてであり、ババが前に3ルピー14アナ受け取っているというのはどういうことなのか?彼にはこの謎が解けなかった。だが彼はババの足元に座ったまま言われた差額のダクシナを差し出し、ババに自分がババの助けを求めて来たわけを全て説明し、息子を授けてほしいとババに祈った。ババは心を動かされ、辛い日々は終わったから、もう心配しないよう彼に告げた。ババは彼にウディを与え、彼の頭に手を置いて祝福しながら、アラーは彼の心の望みを叶えるだろうと言った。

 

そしてババにいとまごいをして、ラタンジがナンデッドに戻ると、シルディで起きたことの全てをダース・ガヌに話した。彼は全てがうまく運んで、ババのダルシャンもプラサドの祝福も受けることができたと言ったが、一つだけどうしても分からないことがあると言った。

 

ババは彼に3ルピー14アナは以前に受け取っていると言ったのだ。彼はダース・ガヌに、ババが何のことを言っていたのか説明して欲しいと頼んだ。「私は以前にシルディに行ったことなどないのに、どうしてババの言った金額を払ったなどということがありえるでしょうか?」ダース・ガヌにとってもこれは難問で、長いことそれについて頭を悩ませていた。その後しばらしくて、数日前にラタンジがモウリサヘブという名のイスラム教の聖者の訪問を受けて、彼を歓迎するためにいくらかのお金を使ったということがふと心に浮かんだ。このモウリサヘブはナンデッドではよく知られた聖者で、門主として働いていた。

 

ラタンジがシルディに行くことを決意したとき、このモウリサヘブはラタンジの家に現れたのだ。ラタンジは彼を知っていて、彼のことが大好きだった。そこで彼は敬意を表して小さなパーティーを開いた。ダース・ガヌはラタンジから、このときの接待費の記載を見せてもらうと、皆が驚いたことに、ぴったり3ルピー14アナであった。それ以上でも以下でもなかった。彼らはババは遍在していて、シルディに住んでいても、遠く離れた場所で起きたことも知っているのだ、と理解するに至った。実際彼は過去も現在も未来も知っていたし、誰のことも自分自身と同一視していた。ここに挙げた例では、彼はどのようにしてモウリサヘブへの接待が行われて、そこで使われた金額を知ることができたのか?それはババがモウリサヘブと自分を同一視でき、彼と一つであったからに他ならないのではないのか?

 

ラタンジはこの説明に満足し、ババへの信頼は強まり高まった。しばらくして彼は息子に恵まれ、彼の喜びはたとえようもなかった。彼は1ダースほどの子宝に恵まれたが、そのうち生き残ったのは4人だけだったと言われている。

 

補足として次の点を述べておく。ババはラオ・バハドゥル・ハリ・ヴィナヤク・サテに対して彼の最初の妻の死後、再婚すれば息子を授かるだろうと言ったとされている。R.B.サテは二度目の結婚をした。最初に生まれた二人の子供は女の子だったので、彼はとてもがっかりした。だが3人目は息子だった。ババの言葉は現実となり、彼は満足だった。

 


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シルディ・サイババ(この聖者の生活)

2011-10-02 | シルディ・サイババ

前章では、ババの言葉と恩寵がいかに多くの不治の病を癒したかについて述べた。今度はババがどのようにラタニジ・ワディア氏を祝福し、子を授けたのかについて述べることにする。

 

この聖者の生活は元々甘美なものである。彼がする様々な事も、食べる様も、歩く様も、普段口にする言葉も、これまた全てが甘美である。彼の生活は至福の権化である。サイは神を思い起こす手段として帰依者たちに至福を与える。

 

彼は様々な勤めや行いについて話をするが、それが最後には本物の信仰に彼らを導く。彼の目的は人々がこの世で幸せに生きることかもしれないが、私たちは常に注意を怠らず、人生の目的すなわち自己認識に到達しなくてはならない。

 

私たちは過去世で積んだ功徳の結果として人間の肉体を持っており、その助けを借りて人生の中で信仰や解脱を得るのは価値のあることである。だから私たちは怠惰になってはならず、常に人生の目標に到達できるよう油断を怠ってはならないのである。

 

サイのリーラ(の物語)を毎日聞いていれば、あなたは常に彼を見るであろう。昼も夜も心の中で彼のことを思い出すであろう。このようにしてサイと同化することで、変わりやすい心は落ち着き、最終的には純粋な意識の中に溶けていくことだろう。


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