ある時私たち4人は聖典やその他の宗教的な書物を勉強していて啓発され、ブラフマンの本質について議論し始めた。私たちのうち一人は、我々は自助努力によって自己を高めるのがよく、他人に頼るべきではないと言った。これに対し二人目は、自分の心を制御するものは恵まれていると答えた。私たちは思考や想念から解放されなくてはならず、私たちなしでは世界には何もないと言った。
三人目は、世界(現象)は常に動いており、形のないものが永遠であるので、私たちは非現実と現実を区別すべきであると言った。そして4人目(ババ自身)は、本で得た知識のみでは役に立たないと主張し、「我々に定められた義務を果たし、我らの肉体と心と5つのプラナをグルの足元に委ねようではないか。グルとは神であり、遍在するものだ。この確信を得るためには、確固とした無限の信仰が欠かせない」と付け加えた。
こんな風に議論をしながら、私たち知識のある4人は神を求めて森の中をあてもなく歩き始めた。3人は誰の助けも借りず自分たちの知識で探求をしたいと考えた。途中、ヴァンジャリ(去勢牛に穀物などの商品を運ばせて売買をする人)に会い、彼は私たちに尋ねた。「こんなに暑い時期に、あなた方はどこへどうして行くんだね?」「森に行くんです」私たちは答えた。彼はさらに尋ねた。
「何を捜し求めているのかね?」私たちは曖昧にその場しのぎの答えを返した。私たちがあてもなく歩き回っているのを見て彼は心を動かされこう言った。「森を良く知らずに、やみくもに彷徨うものではないよ。林やジャングルの中を通りたいのなら、ガイドを連れて行かなくてはダメだ。
なぜこんな暑い昼の太陽の中を不必要に出て行こうとするんだね?探求の秘密を私に明かしてくれないなら、とにかく腰を下ろして、パンを食べ、水を飲み、休養を取ってから出かけなさい。いつも忍耐強くありなさい!」彼はとても優しく話しかけてくれたのだが、私たちは彼の意見を無視して歩き続けた。私たちは自己充足のできた人間であり、誰の助けも必要ないと思っていた。
森は広大で道もなく、木々はとても高く生い茂っていて、太陽の光線は突き抜けてくることはなかった。それで私たちは道に迷い、長い間あちこちを彷徨った。結局、非常に幸運なことに私たちが出発した地点に戻ってくることができた。さきほどのヴァンジャリに再び出会うと彼は言った。「自分自身の賢さに頼って君たちは道を見失ってしまった。物事の大小に関わらず、道を示してくれるガイドは常に必要であり、空っぽの腹ではどんな探求もうまくはいかない。神が意図しない限り、誰も途中で私たちに出会うことはない。
食べ物の差し入れは捨ててはいけないし、施された食事は押し返してはいけない。食事の差し入れは成功への幸先のよいしるしだと考えなさい」こう言いながら、彼はまた私たちに食事を差し出し、落ち着いて我慢強くなるように言った。またしても私の仲間たちはこの頼んでもいない親切を嫌い、彼の施した食事を捨ててしまった。
何の探求をするでもなく、食事を採ることもなく、3人は動き出した。彼らは非常に強情だった。私は空腹で喉も渇いていたので、ヴァンジャリの驚くべき愛情に心を動かされていた。私たちは自分たちがとても博学だと思っていたが、親切には慣れていなかった。ヴァンジャリは読み書きも出来ず、低いカーストに属していた。
だが彼の心は愛に溢れており、私たちにパンを食べるように薦めた。このように区別なく他人を愛する人が本当に啓発されていると言えるのだ。そして私は、彼の親切を受け入れることが知識を得る上で最高の一歩だと思った。そこで私は差し出されたパンの塊を有難く受け取って食べ、水を飲んだ。
すると何ということか!グルが私たちの前に現れたのだ。「何について議論していたのかね?」彼が尋ねたので、私はこれまで起きたことを全て彼に話した。すると彼は言った。「私と共に来るかね?君の求めているものを見せてあげよう。だが私の言うことを信じる者だけが成功するだろう」他の3人は彼の話に同意せずその場を去ったが、私はうやうやしく彼に頭を下げ、彼の意見を受け入れた。
すると彼は私を井戸へ連れて行き、私の足をロープで縛り、頭を下に足を上にして井戸の側にある木から私を吊るした。私は水面から3フィート上方に吊るされ、手も口も届かなかった。こんな風に私を吊るした後、彼はどこかへ行ってしまい、行き先は誰も知らなかった。4,5時間後、彼は戻ってきて素早く私を引き上げると、どんな具合だったか尋ねた。「最高の至福でした。
私のような馬鹿者が私の体験した喜びをどうして表現できましょう?」と私は答えた。私の答えを聞いてグルはとても喜び、私を彼のそばに引き寄せて、その手で私の頭を叩き、私を彼の側に置いた。彼は母鳥が雛鳥にするように、やさしく私の面倒を見た。彼は私を彼の道場へ入れた。そこはなんと美しかったことか!私は両親のことも忘れ、全ての執着は途切れ、私は簡単に解放された。
私は常に彼を抱きしめ、彼を見つめ続けようと思った。彼の姿をこの目で見ていられないなら、私は盲目になったほうがマシだった。道場とはそんな場所だった!そこに入ってきた者は一人として、空手では戻ることができなかった。私のグルは何よりも大切で、私の故郷であり、母であり、父であり、私の全てであった。
私の全ての感覚は持ち場を去り、目だけに集中していた。私の目は彼に注がれていた。つまり私のグルは私が瞑想する唯一の対象であり、他の誰のことも意識になかった。彼を瞑想している間、私の心と知性は静かになったので、私も静かになり静寂の中で彼に頭を垂れたのだった*。
全く様子の異なる別の道場もある。弟子は知識を求めてそこへ行き、金と時間と労力を費やすものの、結局は大したものを得ることができない。そこではグルは秘密の知識と率直さを自慢にしている。彼は自分の神聖さを見世物にしている。彼はよく喋り自分自身の栄光を歌うが、その言葉は弟子の心に触れることはなく、彼らは確信することができない。
自己認識に関する限り、彼はそこへは到達していないのだ。そのような道場が弟子に何の役にたち、どんな恩恵があるだろうか?先に述べたマスターはこれとは違うタイプだった。彼の恩寵で、努力も勉学もすることなしに悟りは私自身の上に閃いた。私は何も探す必要はなく、全てが日の光のように私の前に明らかになった。’頭を下に足を上に’さかさまに吊るされることがどれほどの幸福を与えるかを、グルだけが知っているのである。
4人の中で、一人はカルムカンディ(儀式主義)で、よく観察してどの儀式を控えた方が良いかを知っていた。二人目はドゥニャニで、知識に対する自尊心で得意になっていた。三人目はバクタで、神だけが唯一の行為者だと信じ、彼自身を完全に神に委ねていた。彼らが議論をしていたとき、神についての疑問が起こり、彼らは助力のない自らの知識を頼って、神の探求を始めた。識別と平静の権化であるサイは、4人のうちの一人だった。彼自身がブラフマンだとするならば、”なぜ彼が他の3人と一緒になって愚かな行動をしたのか?”と尋ねる向きもあろう。
彼は模範を示すためにそうしてみせたのだ。彼自身が化身であったとしても、彼は身分の低いヴァンジャリを尊敬し、彼からの食事の施しを、”食べ物はブラフマンである”という堅い信念を持って受け取ることで、ヴァンジャリの親切な申し出を断った者たちは苦難に遭い、グルなしではドゥニャニを得ることが不可能であることを示してみせたのだ。
シュルティ(タイットリヤ・ウパニシャド)は私たちに母や父や教師を尊敬し崇拝すること、神聖な聖典を勉強すること(学び教える)を熱心に薦める。そうしたことは私たちの心を浄化する手段であり、こうした浄化が進んでいない限り、自己認識は不可能である。感覚も心も知性も自己には到達しない。認識や推論のような論証はこの場合私たちの役に立たない。役に立つのはグルの恩寵なのである。ダルマやアルタ、カーマといった私たちの人生の目的は努力次第で達成可能である。だが4つ目の目的、モクシャ(解脱)だけはグルの助けがなければどうにもならない。
スリ・サイの生涯の物語の中には、たくさんの人物が登場しそれぞれに役割を演じている。占星家がやってきて予言をしたり、王子や貴族、普通の人、貧しい人、サニヤーシ、ヨギ、歌手、その他色々な人がダルシャンにやってくる。マハール(現在のパキスタンのシンディ族)ですらやってきて敬礼をし、「サイこそがマイ・バープ(本当の両親)で、誕生と死の輪廻を断ち切ってくださるのだ」と言うのである。
曲芸師やゴンダリス(信仰深い歌を歌う人)、盲目の人、足の不自由な人、ナスパンティス(瞑想を道とするヨギ)、ダンサー、その他の芸人など様々な人たちがやってきて、それぞれにふさわしい応対を受ける。ヴァンジャリもまた適切な時に現れて、彼に与えられた役割を演じたのだ。さてそれでは他の物語へ移ることにしよう。
*私たちは、井戸の中に4,5時間逆さまに吊るされたという表現を文字通りには受け取るべきでないと考えている。ロープで縛られ逆さまに井戸の中に何時間も吊るされて、安らぎや至福を感じることなど誰にもできないからである。これはトランスあるいはサマディ状態の比喩的な描写だと思われる。意識には二種類ある。
(1)感覚的なものと、(2)霊的なもの。神によって創られ、外側へと向かう私たちの感覚と心が対象物に出会うと、私たちは感覚的な意識を受け、そこで私たちは喜びや痛み、それらの混じり合ったものを感じるが、それは最高の幸福、至福ではない。感覚と心が対象物から引っ込められ、反対の方向に向かう時、すなわち内側へ向かって自己に固定されるとき、私たちは別のもの、すなわち霊的な意識を得て、そこに言いようのない純粋な喜びと至福を感じるのである。
” 最高の至福でした。私のような馬鹿者が私の体験した喜びをどうして表現できましょう?”という言葉はそれである。グルが彼をトランスに入れ、落ち着かない感覚と心という水の上方に彼を置いたからである。