癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(ナラヂヤ・キルタン・パッドハティ1)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

一般的に、キルタンを行う時はハリダス2はガラを着るか正装をする。彼らはペータかターバンの頭飾りを付け、シャツを中に着けて、外にはなだらかに流れるような長いコートを着て、肩にウパラニ(短いガウン)を掛け、腰から下にはいつもの長いドタール(衣服)を着ける。

 

シルディ村でキルタンを行うために、ダース・ガヌはこうした衣装を身に着けて一旦ババの処へ行き彼の前にひれ伏した。ババは彼に尋ねた。「なんと、花婿よ!これほど綺麗に着飾ってどこへ行こうというのだね?」「キルタンを行うためです」という答えに対しババはこう言った。

 

「そのきらびやかなコートや、ウパラニやペタは全て私の前に脱いでいきなさい。なんでそんなものを着ているのかね?」ダース・ガヌはすぐさまそれらを脱いで、ババの足元に置いた。それから後、ダース・ガヌはキルタンを行う間、二度とそうした衣装を着ることはなかった。

 

彼は常に腰から上は裸で、一組のチプリスを手に持ち、首の周りに布を巻いていた。一般的に全てのハリダスがこのようないでだちだったわけではないが、これが最高で最も純粋なやり方だった。キルタン・パッドハティを始めた賢人ナーラダは、胴体にも頭にも何も身につけなかった。彼は手にビーナを持ち、主の栄光を歌いながら、あちこちを彷徨い歩いたのだった。

 

1.      パッドハティ:儀式

2.      ハリダス:キルタンを執り行う人物


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シルディ・サイババ(コルカールの砂糖抜き紅茶)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

初めの頃、ババはプーナとアーメドナガール地区のみで知られていたが、ナナサヘブ・チャンドルカールは自らの言葉で、ダース・ガヌは素晴らしいキルタンで、ババの名声をコンカン(ムンバイ地域)に広めたのだった。実際に、大勢の人々をババの元に至らしめたのは、美しく比類のないキルタンを行ったダース・ガヌであった - 彼に神の祝福あれ。キルタンを聞きに来た聴衆は様々な感想を持った。

 

ハリダスの博学ぶりを気に入る人もいれば、彼の身振り手振り、歌、機知やユーモア、ヴェーダンタについての序文、メインテーマなどを気に入る人もいた。だがキルタンを聞いて神や聖者への信仰や献身や愛を得る者はほとんどいなかった。それでもダース・ガヌのキルタンを聴くと、聴衆の心には電気のごとく衝撃が走るのであった。その例をここに述べる。

 

ある時ダース・ガヌはタナにあるコウピネシュワール寺院でサイババの栄光を歌うキルタンを演じていた。タナの民事裁判所で臨時職員として働いていた貧しいコルカール氏が聴衆の中にいた。彼はダース・ガヌのキルタンを熱心に聴き大変に感動した。彼はその時その場で心の中でババに頭を下げ、こう誓った。

 

「ババ、私は貧しくて自分の家族を養うことができません。あなたの恩寵で私が役所の試験に通り、常勤職を得ることができましたら、私はシルディに行ってあなたの足元にひれ伏し、その御名に砂糖飴を献上します」幸運が味方して、コルカール氏は試験に合格し常勤職を得たので、いの一番に自らの誓いを果たしたいと思った。

 

コルカール氏は大家族を抱えて貧しく、シルディまで往復するだけの余裕がなかった。タナ地区のナーン・ガート1やサヤンドリ山脈2ですら越えるのはたやすいと言われているが、貧しい者にとってはアンバー・ガートすなわち自分の家の敷居ですら越えるのがとても難しいのだ。コルカール氏は出来るだけ早く自分の誓いを果たしたかったので、出費を削減してお金を貯める決心をした。彼は自分の食事には砂糖を使わず、紅茶も砂糖なしで飲むことに決めた。こんな風にして彼はいくらかのお金を貯めることが出来たので、シルディへやって来てババのダルシャンを受け、ココナツを献上して、誓い通り清い道義心で砂糖飴を置き、自分はババのダルシャンを受けられてとても嬉しく、今日望みは叶えられましたとババに言った。コルカール氏は案内役のバプサヘブ・ヨグと共にマスジッドにいたが、二人が共に立ち上がってマスジッドを出ようとしたとき、ババがヨグにこう言った。

 

「君の客人に砂糖のたっぷり入った紅茶を出してあげなさい」これを聴いたコルカール氏はその言葉の意味を理解して驚き、また大変感動して、その眼は涙でいっぱいになり、彼は再びババの足元にひざまずいた。ヨグ氏もまたババのこの指示を興味深く思っていた。ババはその言葉によってコルカールの心に信仰と献身の心を生み出したかったのだ。彼の言葉は、コルカールの誓い通り砂糖飴を受け取ったということと、自分の食事に砂糖を使わないという密かな決意のことを充分承知していたことを示唆するものだった。ババはこう言いたかったのだ。

 

あなたが私の前で信仰心を持って両手を広げるなら、私は夜となく昼となくあなたと共にいよう。私の肉体はここにあるが、7つの海を越えた所であなたが何をしているかを知っている。広い世界を渡ってどこへでも好きなところへ行きなさい、私が共にいる。私のレンガはあなたの心の中にある、私はあなたの中にいる。常に私を礼拝しなさい。私は万物の心の中に、そしてあなたの心の中に座している。私を知る者はまさに祝福され幸運である

 

なんと美しく大切な教訓をババはコルカール氏に授けたことか!

 

1,2.タナ近くの西部ガートの中で最も高い山脈

 


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シルディ・サイババ(2匹のトカゲ)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

では二匹の小さなトカゲの話でこの章を締めくくることにしよう。あるときババはマスジッドに座っていた。帰依者がババの前に座ると、トカゲがこそばゆそうに身体を揺すっていた。好奇心から、帰依者はババにこのトカゲがこそばゆがっているのは、何か良い兆候なのかそれとも悪い兆候なのかと尋ねた。

 

ババは、トカゲは彼女の姉がアウランガバッドから彼女に会いに来るので大喜びしているのだ、と言った。帰依者はババの言葉の意味が判らずに黙ったまま座っていた。するとすぐに馬に乗ってアウランガバッドから紳士がババに会いにやってきた。彼は先を急ぎたかったのだが、彼の馬が空腹で餌を欲しがって先に進まなくなったのだった。彼は肩に掛けていた餌の入った鞄を下ろして、泥を払うために地面の上で叩いた。するとそこからトカゲが出てきて、皆の前で壁を登り始めた。

 

ババは質問をした帰依者にそのトカゲをよく見るように言った。彼女はすぐに妹のところへもったいぶるように歩いて行った。この姉妹は久しぶりに再会して、互いにキスをし抱き合って、クルクルと愛のダンスを踊っていた!トカゲにとって、シルディやアウランガバッドとはどこだろうか?馬の背に乗った男はどうやってトカゲを連れてアウランガバッドからそこへやってきたのだろう?そしてどうしてババは二匹の姉妹が出会うと預言することができたのだろうか?こうしたことは本当に素晴らしい出来事で、全知というババの本質を証明しているのである。

 

後記

 

敬意を持って毎日本章を読み励む者は、サドグル・サイババの恩寵によって全ての苦悩を取り除くことができるだろう。

 

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように

 


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シルディ・サイババ(第十六・十七章前置き)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

前章では、コルカール氏の小さな捧げ物の誓いがまもられ、受け入れられた次第について記した。その話の中で、サイババは愛と信仰を持って献上されたものであれば、それを認めてどんな小さな物でも受け取ることを示した。だが同じものでも自尊心と傲慢さが込められていたとすれば、ババは受け取りを拒否したことだろう。

 

サット・チット・アナンド(純粋意識、知識、至福)に満ちた存在であるババは、ただの外面的な形式はほとんど気に掛けず、謙虚な心で捧げられた物であれば、歓迎し喜んで受け入れた。実際、サイババのようなサドグル以上に寛大で情け深い人はいなかった。チンタマニの宝石、カルパタル(私たちの望みを叶える聖なる木)やカマデヌ(私たちの望むものを産み出す聖なる牛)は、ただ私たちの願うものを与えてくれるだけだが、サドグルはこうした物とは比べようも無く、私たちの想像も及ばない不可解な「真実」という最もかけがえのないものを与えてくれるのである。さてババの元へやってきて、ブラフマン・ジュニヤーナを与えてくれと懇願した金持ちの男を、サイババがどのように片付けたのか見てみよう。

 

事業に成功した金持ちの紳士がいた(残念ながら彼の名前や出身は記載されていない)。彼は莫大な蓄財と、家々、土地、それに多くの使用人や召使を所有していた。ババの評判が彼の耳に届いた時、彼は友人に自分はもう欲しい物は何もないが、シルディに行ってババにブラフマン・ジュニヤーナを与えてくれるように頼んでみたい、それが手に入れば間違いなくもっと幸せになれるだろうからと言った。彼の友人は彼を思いとどまらせようとして言った。「ブラフマンを知るのは簡単なことじゃない。君のようにいつも富や妻や子供に夢中になっている強欲な男には特にそうだ。慈善事業に1パイサも出さないような男のブラフマン・ジュニヤーナの探求を、誰が叶えてくれるというんだね?」

 

この友人の助言を意に介すことなく、男はトンガに乗ってシルディにやってきた。彼はマスジッドに行ってサイババを見ると、彼の足元にひざまずいてこう言った。「ババ、あなたはここへ来た全ての人にブラフマンを見せてくれると聴いて、私も遠い所からはるばるやって来ました。私は長旅でとても疲れています。もしあなたからブラフマン・ジュニヤーナを戴けるなら、私の苦労も報われることでしょう」ババは答えて言った。

 

「おお、親愛なる友よ、心配するな。君にはブラフマンを見せてあげよう。大勢の人々が私の元へやって来ては、富や健康、力に名誉に地位、病気の治癒、その他世間的な事柄を求めてくる。私のところへブラフマン・ジュニヤーナを求めに来る者は滅多にいない。世俗的な物を求める人々は尽きないが、霊的な事柄に興味を持つ人々は非常に稀であり、君のような人が私の元へ来てブラフマン・ジュニヤーナを求めるのは、幸運でめでたいことだ。では直ちに、私は君に喜んでブラフマンとそれに付随する複雑な世界を見せてあげよう」

 

こう言うとババは彼にブラフマンを見せ始めた。ババは彼をそこに座らせ、他の話題に引き込んで、しばらくの間彼に質問のことを忘れさせるように仕向けた。それからババは使いの少年を呼んで、ナンドゥ・マルワディのところに行って彼に5ルピーを借りてくるように言った。少年は出かけてすぐに戻ってきて、ナンドゥは留守で家には鍵が掛かっていたと言った。そこでババは彼に、バラの乾物屋の所へ行って、同じように金を貸してもらうように言った。今回もまたうまくいかなかった。この試みは幾度も繰り返され、同じ結果に終わった。

 

サイババは私たちの知っている通り、生きて動いているブラフマンの化身である。そこでおそらく誰かがこう尋ねるだろう。「なぜ彼は5ルピーというわずかな金を必要としているのか?なぜそんなに手に入れるのに苦労しているのか?」実際には彼はこの金を欲しいわけではなかった。ナンドゥやバラが留守なのを彼は承知していたはずだ。彼はブラフマンを求める者に対するテストとしてこんな方法を取ったようだった。

 

この紳士はポケットに大量の札束を持っていた。もし彼が本当に真剣なのであれば、ババがわずか5ルピーを調達するのに苦心しているのを見て、黙って座ったままただの傍観者になっていることはないだろう。彼はババが必ず債務の返済をしてくれることは分かっていたし、金額は取るに足らないものだった。だが彼は決心ができずその金額を差し出すことができなかった。そんな男がババからこの世で最も偉大なもの、ブラフマン・ジュニヤーナを欲しが

 

るとは!ババを本当に愛している者なら誰でも、ただの傍観者になどならずに、即座に5ルピーを渡していただろう。この男はそうではなかった。彼は金も差し出さなかったばかりか、黙って座っているのにも耐えられなくなって、焦ってババに懇願した。「ああ、ババ、お願いです。すぐにブラフマン・ジュニヤーナを私に下さい!」ババは答えた。「おお、親愛なる友よ。君がブラフマンを見られるように私がやって見せた手順を理解できなかったのかね?つまりブラフマンを見るためには、人は5つのものを差し出さなくてはならない。(1)5つのプラナ(生命力)(2)五感、(3)心、(4)知性、(5)エゴ。このブラフマン・ジュニヤーナまたは自己認識は、カミソリの刃先を歩くくらいに難しいことである。

 

サイババはそれからこのテーマについてやや長い講和を始めた。その趣旨は次の通りである。

 


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シルディ・サイババ(ブラフマン・ジュニヤーナまたは自己認識に到達するための資格)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

全ての人が人生の中でブラフマンを見たり、理解できるわけではない。相応の資格が絶対的に必要である。

 

1.      ムムクシュ、自由になりたいという強い願望。自分は縛られていて、その束縛から自由になりたいと願い、熱心に毅然としてその目標のために努め、他の事柄を気に掛けない者に霊性生活の資格がある。

 

2.      ヴィラクティ、今世や来世の事柄に無執着なこと。自らの行動が今世や来世に持ち込むことになる物事や報酬や名誉をいとわしく思わない限り、霊性の領域に入る資格はない。

 

3.      アンタルムカ(内省)、私たちの感覚は神によって創られ、外側に向かう傾向を持っている。だから人は常に内側ではなく外側を見るのである。自己認識や永遠の人生を求める者はその目を内側に向け、内なる自分を見つめなくてはならない。

 

4.      カタルシス(全ての基本的な考えや感情を取り除く) - 人は邪悪さから顔を背け、悪い行いを止め、自分自身の気持ちを静めて、心を落ち着かせない限り、たとえ知識という手段を用いたとしても、自己認識に至ることはできない。

 

5.      正しい行い - 人は真実の人生、苦行、洞察、独身生活の人生を送らない限り、神を悟ることはできない。

 

6.      プレヤス(楽しみ)よりもシュレヤス()を好むこと - 善と楽しみの2つのうち、前者は霊的な事柄に付随するもので、後者は世俗的な事柄に伴うものである。どちらも人が受け入れやすいものである。だがここでは考えて、どちらかを選ばねばならない。賢い人は楽しみよりも善を好む。だが浅はかな者は貪欲さや執着を通して楽しみを選ぶ。

 

7.      と感覚の制御 - 肉体は四輪馬車であり、自我はその主人であり、知性は馬車を駆る人で、心は手綱、感覚は馬、感覚の対象は彼らが行く道である。理解力がなく、心が統御されておらず、感覚が御しがたく、駆り手からはぐれた馬のようであるならば、その人は目的地(自己認識を得る)に辿り着く事はなく、誕生と死の輪の中を巡るばかりである。だが理解力があり、心や感覚が制御されていて、駆り手に従順な良い馬であれば、その人は目的地すなわち自己認識の状態に至ることができ、そこからは二度と生まれてくることはない。駆り手としての理解力がある人は心を統御することができ、全てに浸透しているヴィシュヌの最高の住処である旅の終着点にたどり着くことができる。

 

8.      心の浄化 - 人生という場における義務を心行くまで、私心なく果たさない限り、人の心は浄化されることはなく、心が浄化されない限り、自己認識に至ることはできない。ヴィヴェク(非現実への無執着)が現れ、自己認識に至るのは浄化された心だけである。エゴイスムをそぎ落とし、貪欲さを取り除き、心を無欲(純粋)にしない限り、自己認識は不可能である。“私は肉体である”という考えは大きな思い違いであり、その思いにしがみついていると捕らわれの身になってしまう。もし自己認識という目的地にたどり着きたいのであれば、その思いや捕らわれは捨てなさい。

 

9.      グルの必要性 - 自己を知るということは、非常にとらえどころがなく神秘的なことであり、個人の努力だけでは誰もそれを得ることができない。そこで他の人物 彼自らが自己認識を得ている師、の助けが絶対的に必要なのである。他の人がいくら血の滲むような努力をしても与えられないものを、そうした師の助けによって容易に得ることができる。なぜなら彼自身がその道を歩いてきたのだから、弟子に霊性の成長の梯子を一歩ずつ容易に登らせることができるのだ。

 

10.  最後に主の恩寵は一番欠かせないものである。主がその気になれば、人にヴィヴェカやヴァイラギヤを与え、世俗の海の向こうへと無事に運んでくれる。「ヴェーダを学んだり、知性や学問によって自己を得ることはできない。自己が選んだ神がそれを為すのである。その時、人に対して自己はその本質を開示するのだ」と、カタ・ウパニシャドは述べている。

 

長い学術的な話を終えた後、ババは紳士に向き直って言った。「さて、ご主人、あなたのポケットには5ルピーの50倍のお金の形をしたブラフマンがあるようだが、出してみてくれないかね」紳士はポケットから紙幣の束を取り出して数えてみると、驚いたことに10ルピー札が25枚あった。

 

ババの全知を知って、彼は心を動かされババの足元にひれ伏して、その祝福を懇願した。それからババは彼に言った。「ブラフマンの束(紙幣)をたたみなさい。あなたはその強欲さ貪欲さを完全に取り除かない限り、本当のブラフマンを得ることはできない。

 

心が富や子孫や繁栄に夢中になっている者が、そうしたものに対する執着を取り除くことなしに、どうしてブラフマンを知ることができようか?執着の幻影や金銭への愛着は苦悩の大きな渦巻きであり、自負心と嫉妬心という形をしたワニでいっぱいだ。無欲な人のみがこの渦巻きの中を渡って行ける。強欲とブラフマンは対極のものだから、その2つは永遠に互いに対立したままなのだ。強欲であれば、そこにはブラフマンを思ったり瞑想したりする余裕はない。

 

では強欲な人間はどうすれば冷静になって救いを得ることができるのか?強欲な人間には、平和もなく、満足も落ち着くこともない。心にほんのわずかな強欲さの跡でもあれば、サーダナ(霊的な努力)も全て水の泡になってしまう。書物をよく読んでいる者の知識をもってしても、行いの結果生じる果実への欲望から解放されていなければ役には立たず、自己認識を得る助けにはならない。グルの教えも、エゴイズムに満ちた者や常に感覚の対象について考えてばかりいる者には役に立たない。

 

心の浄化が絶対的に必要であり、それなしには私たちの霊的な努力は無駄な虚飾と虚栄以外何物でもない。だから人は自分が消化吸収できるものだけを採る方が良い。私の宝庫は満杯で、欲しい物を誰にでも与えることができる。だが私はその人が私の贈り物にふさわしいかどうか見極めなくてはならない。もしあなたが私の話を注意深く聞くのであれば、間違いなく役に立つ。このマスジッドに座っている間、私は真実でないことは言わない

 

客が家に招かれている時、家族全員とそこにたまたま居合わせた他の友人知人たちは、その客と共にもてなされることになる。だからその時マスジッドに居合わせた人々全員が、その金持ちの紳士の為にババによって催された霊性の饗宴にあずかることができたのである。ババの祝福を受けた後、その紳士を含めた全員がとても幸福で満ち足りた気持ちでその場を後にしたのであった。

 

 


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シルディ・サイババ(ババの特性)

2011-10-03 | シルディ・サイババ

自らの解脱と救いを得るために、家を出て森や洞穴や隠者の住処などに孤独に住まう聖者はたくさんいる。彼らは他人のことは気に掛けず、常に自己にのみ没頭している。サイババはそのようなタイプではなかった。彼にはどこにも家を持たず、妻も、子孫も、親戚もなかった。

 

だが彼は世俗の社会に住んでいた。彼は4,5軒の家を訪ねてパンを乞い、常にニームの木の下に住み、世俗の諸事を行い、全ての人々にこの世の中でどのように行動し振舞えばよいのかを教えた。神のヴィジョンを得た後に人々の幸福のために努力するサドゥーや聖者は稀である。サイババはそうした稀な人物の筆頭であり、ヘマドパントはこう言うのである。

 

  「このような比類のない、超絶的で、貴重で純粋な宝(サイババ)が生まれた国や、その家族や両親は恵まれている」


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