全ての人が人生の中でブラフマンを見たり、理解できるわけではない。相応の資格が絶対的に必要である。
1. ムムクシュ、自由になりたいという強い願望。自分は縛られていて、その束縛から自由になりたいと願い、熱心に毅然としてその目標のために努め、他の事柄を気に掛けない者に霊性生活の資格がある。
2. ヴィラクティ、今世や来世の事柄に無執着なこと。自らの行動が今世や来世に持ち込むことになる物事や報酬や名誉をいとわしく思わない限り、霊性の領域に入る資格はない。
3. アンタルムカ(内省)、私たちの感覚は神によって創られ、外側に向かう傾向を持っている。だから人は常に内側ではなく外側を見るのである。自己認識や永遠の人生を求める者はその目を内側に向け、内なる自分を見つめなくてはならない。
4. カタルシス-(全ての基本的な考えや感情を取り除く) - 人は邪悪さから顔を背け、悪い行いを止め、自分自身の気持ちを静めて、心を落ち着かせない限り、たとえ知識という手段を用いたとしても、自己認識に至ることはできない。
5. 正しい行い - 人は真実の人生、苦行、洞察、独身生活の人生を送らない限り、神を悟ることはできない。
6. プレヤス(楽しみ)よりもシュレヤス(善)を好むこと - 善と楽しみの2つのうち、前者は霊的な事柄に付随するもので、後者は世俗的な事柄に伴うものである。どちらも人が受け入れやすいものである。だがここでは考えて、どちらかを選ばねばならない。賢い人は楽しみよりも善を好む。だが浅はかな者は貪欲さや執着を通して楽しみを選ぶ。
7. 心と感覚の制御 - 肉体は四輪馬車であり、自我はその主人であり、知性は馬車を駆る人で、心は手綱、感覚は馬、感覚の対象は彼らが行く道である。理解力がなく、心が統御されておらず、感覚が御しがたく、駆り手からはぐれた馬のようであるならば、その人は目的地(自己認識を得る)に辿り着く事はなく、誕生と死の輪の中を巡るばかりである。だが理解力があり、心や感覚が制御されていて、駆り手に従順な良い馬であれば、その人は目的地すなわち自己認識の状態に至ることができ、そこからは二度と生まれてくることはない。駆り手としての理解力がある人は心を統御することができ、全てに浸透しているヴィシュヌの最高の住処である旅の終着点にたどり着くことができる。
8. 心の浄化 - 人生という場における義務を心行くまで、私心なく果たさない限り、人の心は浄化されることはなく、心が浄化されない限り、自己認識に至ることはできない。ヴィヴェク(非現実への無執着)が現れ、自己認識に至るのは浄化された心だけである。エゴイスムをそぎ落とし、貪欲さを取り除き、心を無欲(純粋)にしない限り、自己認識は不可能である。“私は肉体である”という考えは大きな思い違いであり、その思いにしがみついていると捕らわれの身になってしまう。もし自己認識という目的地にたどり着きたいのであれば、その思いや捕らわれは捨てなさい。
9. グルの必要性 - 自己を知るということは、非常にとらえどころがなく神秘的なことであり、個人の努力だけでは誰もそれを得ることができない。そこで他の人物 - 彼自らが自己認識を得ている師、の助けが絶対的に必要なのである。他の人がいくら血の滲むような努力をしても与えられないものを、そうした師の助けによって容易に得ることができる。なぜなら彼自身がその道を歩いてきたのだから、弟子に霊性の成長の梯子を一歩ずつ容易に登らせることができるのだ。
10. 最後に主の恩寵は一番欠かせないものである。主がその気になれば、人にヴィヴェカやヴァイラギヤを与え、世俗の海の向こうへと無事に運んでくれる。「ヴェーダを学んだり、知性や学問によって自己を得ることはできない。自己が選んだ神がそれを為すのである。その時、人に対して自己はその本質を開示するのだ」と、カタ・ウパニシャドは述べている。
長い学術的な話を終えた後、ババは紳士に向き直って言った。「さて、ご主人、あなたのポケットには5ルピーの50倍のお金の形をしたブラフマンがあるようだが、出してみてくれないかね」紳士はポケットから紙幣の束を取り出して数えてみると、驚いたことに10ルピー札が25枚あった。
ババの全知を知って、彼は心を動かされババの足元にひれ伏して、その祝福を懇願した。それからババは彼に言った。「ブラフマンの束(紙幣)をたたみなさい。あなたはその強欲さ貪欲さを完全に取り除かない限り、本当のブラフマンを得ることはできない。
心が富や子孫や繁栄に夢中になっている者が、そうしたものに対する執着を取り除くことなしに、どうしてブラフマンを知ることができようか?執着の幻影や金銭への愛着は苦悩の大きな渦巻きであり、自負心と嫉妬心という形をしたワニでいっぱいだ。無欲な人のみがこの渦巻きの中を渡って行ける。強欲とブラフマンは対極のものだから、その2つは永遠に互いに対立したままなのだ。強欲であれば、そこにはブラフマンを思ったり瞑想したりする余裕はない。
では強欲な人間はどうすれば冷静になって救いを得ることができるのか?強欲な人間には、平和もなく、満足も落ち着くこともない。心にほんのわずかな強欲さの跡でもあれば、サーダナ(霊的な努力)も全て水の泡になってしまう。書物をよく読んでいる者の知識をもってしても、行いの結果生じる果実への欲望から解放されていなければ役には立たず、自己認識を得る助けにはならない。グルの教えも、エゴイズムに満ちた者や常に感覚の対象について考えてばかりいる者には役に立たない。
心の浄化が絶対的に必要であり、それなしには私たちの霊的な努力は無駄な虚飾と虚栄以外何物でもない。だから人は自分が消化吸収できるものだけを採る方が良い。私の宝庫は満杯で、欲しい物を誰にでも与えることができる。だが私はその人が私の贈り物にふさわしいかどうか見極めなくてはならない。もしあなたが私の話を注意深く聞くのであれば、間違いなく役に立つ。このマスジッドに座っている間、私は真実でないことは言わない」
客が家に招かれている時、家族全員とそこにたまたま居合わせた他の友人知人たちは、その客と共にもてなされることになる。だからその時マスジッドに居合わせた人々全員が、その金持ちの紳士の為にババによって催された霊性の饗宴にあずかることができたのである。ババの祝福を受けた後、その紳士を含めた全員がとても幸福で満ち足りた気持ちでその場を後にしたのであった。