癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(イーシャーの倫理)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

「イーシャー・ウパニシャドの主な特徴の一つは、同書が提示する倫理的な助言であり、興味深いことにウパニシャドの倫理は形而上的な位置づけに明確に基づいているのである。ウパニシャドの冒頭の言葉で、神は全てに浸透していると述べている。対照的に形而上的な位置づけから提示される倫理的助言では、人は神が万物に浸透しているのだから、神から授けられる物は何であれ善い物に違いないという強い信念を持って、これを享受すべきであるとしている。

 

これはウパニシャドが私たちにむやみに他人の持ち物を欲しがるのを禁じていることと自ずと合致する。実際に私たちが時ふさわしくここで得た教訓は、何が起きようと神が定めたことは私たちにとって善いことだと信じることにより、自分自身の運命に満足するというものであった。別の倫理的な助言は、人は常に行動をしていなくてはならず、特に神の意志を甘んじて受け入れ、シャーストラで言われているようなカルマの実践をして人生を送らなくてはならないというものだ。

 

ウパニシャドが言うところの無活動とは、魂が毒されることである。人は行動して人生を送ったときにのみ、理想とするナイシュカルムヤを得る望みがある。最後に同書はこう綴っている。自己の中に万物を見、万物の中に存在するものとして自己を見る者 - 実際、存在する万物が自己となるのであるから - このような者がどうしてのぼせあがるようなことがあろうか?このような者が悲嘆に暮れることなどあろうか?やる気が起きなかったり、のぼせ上がったり、悲嘆に暮れるというのはそれぞれに、万物にアートマンを見ることができないから起きるのだ。

 

だが全ての物が自己になったのであるから、万物の同一性を理解する者は、事実上人間の持つ当たり前の欠点に影響されることを止めるに違いないのである」(ベルヴァルカール、ラナデ共著、”Creative Period” 169-170)

                                                                               

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように

 

 


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シルディ・サイババ(教えの独特なやり方)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

前述の例から、読者にはババのやり方が独特で多様であることが分かるだろう。ババはシルディを離れなかったが、サーダナを実践させるためにある者をマチチンドラガッドに送り、ある者はコルハプールやソラプールに送った。

 

ある者の前にはババの普段の姿で現れ、ある者の前には起きている時や夢の中に、昼や夜に現れて、彼らの望みを満たした。ババがバクタたちに教えを授けた方法の全てを記述するのは不可能だ。この事例に限っていうと、彼はダース・ガヌをヴィル・パールに行かせ、そこで彼は女中を通して問題を解決した。

 

わざわざダース・ガヌを行かせる必要はないではないかと言う向きもあろう。確かにババは個人的に教えを授けることもできただろう。私たちに言えるのは、ババが最善の方法を採っていたということだけだ。そうでなければ、ダース・ガヌは貧しい女中にも彼女のサリーにも主が満ち満ちているという偉大な教訓をどうやって得ることができただろうか。

 

  さて本章はウパニシャドについてのもう一つの美しい文章を引用して締めくくることにする。


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シルディ・サイババ(カカの女中)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

ババの言葉を完全に信じた彼はシルディを後にしヴィル・パール(ムンバイ郊外)へ行き、カカサヘブ・ディクシットのところへ滞在した。

 

翌日ダース・ガヌが午前のうたた寝(彼は礼拝の最中だと言う人もいる)を楽しんでいると、貧しい少女が澄んだ美しい声で旋律の素晴らしい歌を歌っているのを聴いた。歌のテーマは深紅のサリーについてで、いかにそれが見事で、刺繍が素晴らしく、縁取りが美しいかなどといったことだった。

 

彼はその歌がとても気に入って、表に出て見てみると、それを歌っているのはカカサヘブの召使のナムヤの妹の若い少女だった。少女は鍋を洗っていたが、破れたボロ布だけをまとっていた。貧しい身なりも関わらずその幸せそうな気質を見て、ダース・ガヌは彼女を気の毒に思った。

 

そこで翌日ラオ・バハデュル・M.V.プラダンが一着のドタールを持ってきた時に、彼に貧しい小さな少女にもサリーを持ってくるよう頼んだ。ラオ・バハドュルは質のよいチルディ(小さなサリー)を買うと、彼女に渡した。飢えた者が御馳走を与えられたかのように、彼女は大変に喜んだ。

 

翌日彼女は新しいサリーを着て、非常に嬉しかったので陽気になってくるくる回ったり踊ったりして、他の少女たちとフガディ’(伝統的なフォークダンス)を踊ったりした。その翌日、彼女は家の物入れの中に新しいサリーを仕舞い、古くて破れた布を着て出てきたが、彼女は前の日と同じように陽気だった。

 

これを見てダース・ガヌの憐れみは尊敬へと変わった。彼女は貧しく破れた布を着なくてはならなかったが、今では新しいサリーを持っている。それなのに彼女はそれを仕舞って古い布を着て、悲しみや落胆の跡などまったく見せずに気取って歩いている。そこで彼は、痛みや喜びといった私たちの感情は私たちの心の持ちように掛かっているのだと理解した。

 

彼はこの事例を深く考え、人は神が全方にいて守っていることを強く確信しながら、神が授けてくれる物を何でも喜んで受け取るべきであり、神が授けてくれた物は何でも本人にとって善い物に違いないのだと悟った。この例で言えば、貧しい境遇の少女、彼女の破れた布と新しいサリー、寄付をする者、される者、これら全てが主の一部であり、主に満ち満ちているのだ。

 

ここでダース・ガヌはウパニシャドの教訓を実際に証明してもらうことができた - 何が起きようとも、神によって定められた事柄は私たちにとって最高の善であると信じることで、人は自分自身の運命に満足することができるという教訓である。

 


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シルディ・サイババ(説明する資格と能力を備えているのはサドグルのみ)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

ここまで見てきたように、このウパニシャドはヴェーダの精髄である。これは自己認識の科学であり、人生の束縛や死をバラバラに引き裂き、私たちを自由にすることのできる大鎌であり武器である。そこで彼は、自らが自己認識を獲得している者だけが彼に正しいウパニシャドの解説をし得るのだと考えた。

 

誰もダース・ガヌを満足させることができなかったので、彼はこれについてサイババに相談することを決心した。彼がシルディに行く機会を得てサイババに会うと、彼はババの前にひれ伏してイーシャー・ウパニシャドの翻訳に苦労していることを話し、正しい解説をしてくれるよう頼んだ。サイババは彼を祝福してこう言った。

 

「心配することはない。何も難しいことはないよ。カカ(カカサヘブ・ディクシット)の女中が君の家路の途中にあるヴィル・パールで疑問を解決してくれるだろう」その場にいてこれを聞いていた人々は、ババが冗談を言っていると思ってこう言った。

 

「読み書きのできない女中がどうやってこの不可思議な本質の難問を解決できるというのか」だがダース・ガヌはそうは思わなかった。彼はババの言葉はブラフマン(全能者)の命令であるから、ババが言ったことは何であれ実現するに違いないと確信していた。

                                           

 


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シルディ・サイババ(イーシャー・ウパニシャド)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

ある時ダース・ガヌはイーシャー・ウパニシャドについてマラティ語で解説書を書き始めていた。この話を進める前に、イーシャー・ウパニシャドについてまず少し説明しておこう。これはヴェーディック・サンヒタのマントラの中に統合されているので、マントロパニシャドと呼ばれている。

 

最終章の第四十章がヴァジャサネイ・サンヒタ(ヤジュルヴェーダ)で構成されているので、ヴァジャサネイ・サンヒトパニシャドと呼ばれている。ヴェーディック・サンヒタに統合されている為、これはブラフマンヤクやアランヤカス(マントラや儀式についての説明文)の中に入っているその他のウパニシャドよりも優れていると考えられている。

 

これだけでなく、他のウパニシャドがそれぞれ真実について解説している内容を、イーシャー・ウパニシャドは簡潔にまとめている。例えば、ウパニシャドの中で最も膨大な文書、ブリハッドアーラニャカ・ウパニシャドは、イーシャ-・ウパニシャドの中でパンディット・サタワレカールによって簡潔な解説にまとめられたと考えられている。

 

  R.D.ラナデ教授は述べている。「イーシャー・ウパニシャドはとても短いウパニシャドだが、驚くほど鋭い洞察を示す多くの事実が含まれている。18の詩篇という短い範囲の中で、アートマンについての貴重で不可思議な描写や、誘惑と悲しみの只中で冷静に立つ理想的な賢人の描写、後に形成されるカルマ・ヨガの教義の輪郭を予見させる描写などが為されている。

 

ウパニシャドの根底に流れる最も貴重な思想は、知識と行為という2つの対極の論理の統合であり、どちらもウパニシャドによれば高次元の統合においては消滅を余儀なくされるということだ」(“ウパニシャド哲学の建設的検証”24)別の機会に彼はこうも述べている。「イーシャー・ウパニシャドの詩は道徳的、神秘的、形而上的な知識の混合である」(“ibid”,41)

 

  このウパニシャドに関する前述の短い説明を読むと、ウパニシャドを自国語に翻訳して、正確な意味を把握するのがいかに難しいかが分かるだろう。ダース・ガヌはこれを詩篇ごとにマラティ語に翻訳していたが、ウパニシャドの要点や本質を理解していなかったので、自らの作業に満足できなかった。

 

そこで彼は幾人かの博識な者たちに相談し、自らの疑問点や難点について非常に長い時間議論をした。彼らは疑問を解決できず、合理的で満足のいく説明は得ることができなかった。そんなわけでダース・ガヌはこの件で少し落ち着きをなくしていた。

 

 


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シルディ・サイババ(第二十章前置き)

2011-10-05 | シルディ・サイババ

神は元々無形である。彼はバクタのために形を装っているのだ。マーヤの助けを借りて、彼は宇宙の大きなドラマの中で俳優の役割を演じているのだ。スリ・サイのことを思い出し想像してみよう。

 

シルディに行って正午のアラティの後のプログラムを注意深く見てみよう。アラティが終わると、サイはマスジッドから出てきてその縁に立ち、非常に優しく、慈悲深く、愛情深い表情で帰依者たちにウディを配る。

 

バクタたちも同様の情熱を持って集まり、彼の足を握り、ウディの至福を受け取るのである。ババは一握りのウディを帰依者の手のひらに渡し、その手で彼らの額にもウディを付ける。帰依者のために彼の中では限りない愛情が生まれる。

 

それから彼はバクタたちに言うのだ。「バウ、家に帰って昼食を採りなさい。アンナは宿へ帰りなさい。バプ、食事を楽しみなさい」こんな風に彼は一人一人の帰依者に近寄って話しかけ、彼らを家へ帰すのである。こうした光景を想像の中で再生してみると、今も尚、喜びを禁じえない。だから私たち心の画面でサイを映し、彼の足から顔までを瞑想し、謙虚に、愛情深く、尊敬の念を持って彼の前にひれ伏そうではないか。


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