梅にウグイス、それともメジロ?
梅一輪と、囀(さえず)るウグイスの声。どちらも春先の長閑(のどか)さを象徴する語だ。二つの言葉の組み合わせは都々逸(どどいつ)や長唄、端唄の題材にもなってきた。ところが、この組み合わせには、しばしば異論を聞く。
「昔はメジロとウグイスを混同していたのさ。花札に描かれた梅にウグイスの絵柄だって、どう見たってウグイスには見えないからね!」
「そう言えば、梅の木にとまったメジロなら見かけるが、ウグイスがとまっているところは見たことがない。ウグイスは警戒心が強いからだろう」
花札のウグイスは派手な原色の緑色と黄色。しかし目の周りが白くないのでメジロにも見えない。図案化は目立つことが第一条件で、緑灰色の地味な外観のウグイスをリアルに描いても花札の絵柄にはなりにくいだろう。それに里ではウグイスよりメジロが圧倒的に多い。地味で目立たないウグイスは見過ごされやすく、メジロなら目につきやすい。組み合わせに異論の出る背景には、そうした理由もありそうだ。
意外に人懐(なつ)っこいウグイス
還暦も過ぎた夏、高校時代からの友人である土田君と中房温泉から燕(つばくろ)岳、表銀座縦走、槍が岳のコースで北アルプスを歩いた。燕岳直下の急登の葛(つづら)折りでのこと。登山道の10メートルほど先を、ピョンピョン跳ねながら山頂方向へ移動する小鳥に気づいた。重い登山靴でドタリドタリと音を立てながら近づいても、驚いて飛び立つ気配がない。間隔をとりながら、まるで我々を先導するように登山道を跳ね登って行く。最初は「燕岳だからツバメだろうか?」とも考えたが、よく見れば間違いなくウグイスだ。何と“道案内”は100メートル以上も続いた。「こんな間近に、こんな形でウグイスを見るとは!」と驚く一方で、幸運にも感謝した。もっとも、当のウグイスは「あの時の人間どもはシツコかったなア。いくら逃げても追って来たなア」とでも思っていたかもしれない。
前年の夏、やはり土田君と北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳と縦走した時のこと。縦走を終えて岳沢から上高地へ下る道で、ウグイスの囀りを聞いた。歩きながら口真似で応えると、ウグイスも応えて鳴き返す(ように思えた)。面白くなって鳴き真似を繰り返す。アチラも囀りを繰り返した。そんなふうに遊びながら(あるいは遊ばれながら)1キロ近くウグイスと歩いた。この時はツキノワグマにも50メートルほどの距離で遭遇した。楽しい思い出だ。
ウグイスは意外に人懐っこい小鳥だ。埼玉県北部・深谷市の荒川に「鶯の瀬」と呼ばれる名所がある。鎌倉武将の畠山重忠が豪雨で増水した荒川を渡れずに困っていると、1羽のウグイスが飛んで来て、鳴きながら水面を跳ねて行く。「そうか、川石の上を跳ねているのだな。すると跳ねた所が浅瀬か!」と、ウグイスの後を追い、無事渡り切ることが出来た。燕岳での体験は、この伝承に似ている。ちなみに筆者の近刊の長編歴史小説『雄鷹(ゆうよう)たちの日々』は重忠が主人公で、この「鶯の瀬」のくだりも登場する。
天神社では「梅にウソ」
菅原道真を祀(まつ)る全国の天神社(天満宮)では、どこも境内に梅の木を植えており、梅の花が名物だ。<東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ>。教科書に載るほど、よく知られた道真の短歌。天神社と梅の花は切り離せない。
ところがウグイスはどうかというと、天神社との密着度は梅ほどではないようだ。むしろ鷽(ウソ)との関わりが深い。頭が黒で首が赤い小鳥のウソ。大宰府天満宮や東京亀戸神社、大阪天満宮、道明寺天満宮などでは木彫りのウソの木像を「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換し合った「鷽替え神事」が有名だ。「鷽」は「嘘」に通じるとして、前年の凶事を「嘘」とみて当年を吉事の年にと祈願する。亀戸神社のホームページでは「鷽」と旧字の「學」は部首のカンムリが同じで、学問の神様菅原道真に通じる、と説明されている。
梅花を好む鳥、梅花が似合う鳥
ウグイスもウソも体長はスズメと同じ15センチ前後、メジロは少し小型で12センチほど。昆虫やクモ、柔らかい木の実などが主食のウグイスは、梅との縁が特に深いとは言えないが、市街地の公園に姿を見せることもある。梅の木にとまっていても不思議ではない。これに対してメジロは椿(ツバキ)や梅、桜の花蜜を好むので、梅の木にとまる姿をしばしば見かける。「梅花を好む鳥」の代表だろう。ウソも桜や梅の花芽を好んで食べるので梅との縁は深い。
記者をしていた頃、東京・奥多摩湖の湖岸道路沿いのソメイヨシノが、ウソの大群に残らず花芽を食べられたことがあった。「ウソ被害で奥多摩湖の桜は全滅か」という記事を書いたが、その年もソメイヨシノは見事に咲いた。ウソ被害はウソ、というわけでもないが、ウソが花芽を食べることには、無駄な芽を摘み取る摘芽(てきが)の効果があるようだ。
「梅にウグイス」の音風景
筆者がよく行く公園の盆栽園では、春先に梅の盆栽を並べている。盆栽を眺めていると裏の竹やぶからウグイスの声が聞こえて来ることも珍しくない。ほのかな梅花の香りとウグイスの声は、長閑(のどか)な春景色によく似合う。「梅にウグイス」は、そのような「梅花が似合う鳥」を言葉にしたものだ。盆栽の枝にウグイスがとまっている必要はなく、むしろウグイスは姿を見せず、どこからともなく鳴き声だけが聞こえる方が春の風情にふさわしい。音風景(サウンドスケープ)である。日本庭園のどこかから琴の音が流れて来る、古い町屋の中から三味線のつま弾きが聞こえる――という場合と同じだ。鳴かないメジロが梅の枝にとまっていても、音風景を欠けば春の風情はいま一つ伝わらない。
語調の良さも
「梅」と「ウグイス」を図案化するなら、花札のような1枚に収めるよりほかにテはない。花札の原色は写実的でないが、描き手は必ずやウグイスとして描いたはずだ。言葉が先、図案は後である。図案をまず念頭に置き、言葉を後から考えると「ウグイスは間違いでは?」の疑問がわく。順序を逆にすると、思わぬトリックに引っ掛かる。
語調の良し悪しも大事だ。七五調に慣れた日本人は、7字や5字のフレーズに親しみを覚えやすい。「ウメニウグイス」は7字、「ウメニウソ」は5字、「ウメニメジロ」は6字。「ウメニウグイス」がベストか。やはり「ウメニメジロ」は少し分(ぶ)が悪い。
梅一輪と、囀(さえず)るウグイスの声。どちらも春先の長閑(のどか)さを象徴する語だ。二つの言葉の組み合わせは都々逸(どどいつ)や長唄、端唄の題材にもなってきた。ところが、この組み合わせには、しばしば異論を聞く。
「昔はメジロとウグイスを混同していたのさ。花札に描かれた梅にウグイスの絵柄だって、どう見たってウグイスには見えないからね!」
「そう言えば、梅の木にとまったメジロなら見かけるが、ウグイスがとまっているところは見たことがない。ウグイスは警戒心が強いからだろう」
花札のウグイスは派手な原色の緑色と黄色。しかし目の周りが白くないのでメジロにも見えない。図案化は目立つことが第一条件で、緑灰色の地味な外観のウグイスをリアルに描いても花札の絵柄にはなりにくいだろう。それに里ではウグイスよりメジロが圧倒的に多い。地味で目立たないウグイスは見過ごされやすく、メジロなら目につきやすい。組み合わせに異論の出る背景には、そうした理由もありそうだ。
意外に人懐(なつ)っこいウグイス
還暦も過ぎた夏、高校時代からの友人である土田君と中房温泉から燕(つばくろ)岳、表銀座縦走、槍が岳のコースで北アルプスを歩いた。燕岳直下の急登の葛(つづら)折りでのこと。登山道の10メートルほど先を、ピョンピョン跳ねながら山頂方向へ移動する小鳥に気づいた。重い登山靴でドタリドタリと音を立てながら近づいても、驚いて飛び立つ気配がない。間隔をとりながら、まるで我々を先導するように登山道を跳ね登って行く。最初は「燕岳だからツバメだろうか?」とも考えたが、よく見れば間違いなくウグイスだ。何と“道案内”は100メートル以上も続いた。「こんな間近に、こんな形でウグイスを見るとは!」と驚く一方で、幸運にも感謝した。もっとも、当のウグイスは「あの時の人間どもはシツコかったなア。いくら逃げても追って来たなア」とでも思っていたかもしれない。
前年の夏、やはり土田君と北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳と縦走した時のこと。縦走を終えて岳沢から上高地へ下る道で、ウグイスの囀りを聞いた。歩きながら口真似で応えると、ウグイスも応えて鳴き返す(ように思えた)。面白くなって鳴き真似を繰り返す。アチラも囀りを繰り返した。そんなふうに遊びながら(あるいは遊ばれながら)1キロ近くウグイスと歩いた。この時はツキノワグマにも50メートルほどの距離で遭遇した。楽しい思い出だ。
ウグイスは意外に人懐っこい小鳥だ。埼玉県北部・深谷市の荒川に「鶯の瀬」と呼ばれる名所がある。鎌倉武将の畠山重忠が豪雨で増水した荒川を渡れずに困っていると、1羽のウグイスが飛んで来て、鳴きながら水面を跳ねて行く。「そうか、川石の上を跳ねているのだな。すると跳ねた所が浅瀬か!」と、ウグイスの後を追い、無事渡り切ることが出来た。燕岳での体験は、この伝承に似ている。ちなみに筆者の近刊の長編歴史小説『雄鷹(ゆうよう)たちの日々』は重忠が主人公で、この「鶯の瀬」のくだりも登場する。
天神社では「梅にウソ」
菅原道真を祀(まつ)る全国の天神社(天満宮)では、どこも境内に梅の木を植えており、梅の花が名物だ。<東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ>。教科書に載るほど、よく知られた道真の短歌。天神社と梅の花は切り離せない。
ところがウグイスはどうかというと、天神社との密着度は梅ほどではないようだ。むしろ鷽(ウソ)との関わりが深い。頭が黒で首が赤い小鳥のウソ。大宰府天満宮や東京亀戸神社、大阪天満宮、道明寺天満宮などでは木彫りのウソの木像を「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換し合った「鷽替え神事」が有名だ。「鷽」は「嘘」に通じるとして、前年の凶事を「嘘」とみて当年を吉事の年にと祈願する。亀戸神社のホームページでは「鷽」と旧字の「學」は部首のカンムリが同じで、学問の神様菅原道真に通じる、と説明されている。
梅花を好む鳥、梅花が似合う鳥
ウグイスもウソも体長はスズメと同じ15センチ前後、メジロは少し小型で12センチほど。昆虫やクモ、柔らかい木の実などが主食のウグイスは、梅との縁が特に深いとは言えないが、市街地の公園に姿を見せることもある。梅の木にとまっていても不思議ではない。これに対してメジロは椿(ツバキ)や梅、桜の花蜜を好むので、梅の木にとまる姿をしばしば見かける。「梅花を好む鳥」の代表だろう。ウソも桜や梅の花芽を好んで食べるので梅との縁は深い。
記者をしていた頃、東京・奥多摩湖の湖岸道路沿いのソメイヨシノが、ウソの大群に残らず花芽を食べられたことがあった。「ウソ被害で奥多摩湖の桜は全滅か」という記事を書いたが、その年もソメイヨシノは見事に咲いた。ウソ被害はウソ、というわけでもないが、ウソが花芽を食べることには、無駄な芽を摘み取る摘芽(てきが)の効果があるようだ。
「梅にウグイス」の音風景
筆者がよく行く公園の盆栽園では、春先に梅の盆栽を並べている。盆栽を眺めていると裏の竹やぶからウグイスの声が聞こえて来ることも珍しくない。ほのかな梅花の香りとウグイスの声は、長閑(のどか)な春景色によく似合う。「梅にウグイス」は、そのような「梅花が似合う鳥」を言葉にしたものだ。盆栽の枝にウグイスがとまっている必要はなく、むしろウグイスは姿を見せず、どこからともなく鳴き声だけが聞こえる方が春の風情にふさわしい。音風景(サウンドスケープ)である。日本庭園のどこかから琴の音が流れて来る、古い町屋の中から三味線のつま弾きが聞こえる――という場合と同じだ。鳴かないメジロが梅の枝にとまっていても、音風景を欠けば春の風情はいま一つ伝わらない。
語調の良さも
「梅」と「ウグイス」を図案化するなら、花札のような1枚に収めるよりほかにテはない。花札の原色は写実的でないが、描き手は必ずやウグイスとして描いたはずだ。言葉が先、図案は後である。図案をまず念頭に置き、言葉を後から考えると「ウグイスは間違いでは?」の疑問がわく。順序を逆にすると、思わぬトリックに引っ掛かる。
語調の良し悪しも大事だ。七五調に慣れた日本人は、7字や5字のフレーズに親しみを覚えやすい。「ウメニウグイス」は7字、「ウメニウソ」は5字、「ウメニメジロ」は6字。「ウメニウグイス」がベストか。やはり「ウメニメジロ」は少し分(ぶ)が悪い。