「広辞苑」の説明
月の美しい季節になった。観月の名所は多いが、古来、歌枕(うたまくら)の地に数えられてきた信州・姥捨(うばすて)もその一つ。そして、姥捨といえば「田毎の月」である。広辞苑(第七版)は「田毎の月」の語について次のように説明している。
<たごと・の・つき。長野県千曲市、冠着山(かむりきやま)(伝説では姥捨山)の山腹の、段々に小さく区切った水田に映る月。蕪村句集「帰る雁(かり)田毎の月のくもる夜に」>
「田毎の月」の名所なのに、月の出ていない、あるいは見えにくい春の夜空を、雁が北の地へと帰って行くことよ--と。段々畑にも似た棚田は全国各所にあるが、とりわけ姥捨の棚田は名高い。平安時代の『大和物語』で信濃国更科の「姥捨て伝説」が広まり、また名歌<わが心なぐさめかねつ更科や姥捨て山に照る月をみて>(『古今和歌集』、詠み人知らず)の影響もあって、この地が月の名所になった。ただし能員法師や西行、小野小町、紀貫之ら平安歌人らが姥捨の月を詠んだ歌に「田毎の月」の言葉は見当たらず、蕪村の句のように江戸時代になってから「田毎の月」が登場する。『更科紀行』を残した芭蕉にも<元日は田毎の日こそ恋しけれ>の句があり、もちろん「田毎の月」を意識すればこその「田毎の日」だ。意味は、秋に田毎の月を見たように、元日を迎えた今は「田毎の日」にカシワ手をポンと打ちたいものだ--である。
「田毎の月」への誤解
歌枕の地でも信州・更科は京や江戸から遠い。交通事情の悪かった時代なら、なおさらだろう。実際に足を運ぶ人が少なければ、逆に想像ばかりがふくらむ。そこに「田毎の月」への誤解の余地が生じたのかもしれない。棚田の水面ごと(一枚ごと)に、同時に、水面の数だけ月が映る--という誤解である。冒頭で紹介したのは『広辞苑』の最新版・第七版の記述だが、筆者の手元にある初版本(第一版第二十九刷、昭和43年刊)のそれは以下の通り。内容は微妙に異なる。
<長野県更級郡冠着山(かむりきやま)(伝説では姥捨山)の山腹の小さく区切った、水田の一つ一つにうつる仲秋の月>
お分かりだろうか。最新版では「山腹の、段々に小さく区切った水田に映る月」だが、初版本では「山腹の小さく区切った、水田の一つ一つにうつる仲秋の月」だった。「水田の一つ一つにうつる」と「仲秋の」が消えたのである。岩波書店の辞書編集担当者や『広辞苑』の編著者サイドに誤解があったとは思えないが、初版本のような「水田の一つ一つにうつる」では誤解を招きやすい、と考えた結果であることは確かなようだ。
別の解釈
歌川広重の『六十余州名所図会 信濃更科田毎月鐘台山』や『本朝名所 信州更科田毎之月』と題した浮世絵は、どちらも棚田の一枚ごとに月が映っている絵柄だ。時代が下って明治に入っても<名月や田毎に月の五六十>(正岡子規)という句が詠まれている。「田毎の月」という語が長く誤解されてきたことは間違いない。
言うまでもなく、棚田一枚につき一面ずつの水面(みなも)がどれほど多くても、一定の時間に映る月は一つ。月と人とを結ぶ月光線は最短距離の一本だけであり、水面で反射する入射角と反射角とは必ず同じ度数になるので、月は一枚の田にしか映らない。どれほど広大な池や湖でも水面に映る月は一つ、という理屈に同じである。
では「田毎の月」を詠んだ先人たちは皆が皆、この点を誤解してきたのか。そうとも思えない。発想を少し変えたら、別の景色が見えて来ないだろうか。たとえば「田毎」という言葉に時間的要素を加味してみる。月見の句(短歌)なら、じっくりと時間をかけて月を観賞したい場面だ。<名月や池を巡りて夜もすがら>(芭蕉)とあるように詠み手が移動しつつ月を見れば、棚田の水面に映る月も詠み手の後から従(つ)いて行く。であれば田毎に月を映したことだろう。『広辞苑』の蕪村の句にしても、夜空を渡る雁の目には、棚田の一枚ずつを月の移動して行く様子が見えるはずであった(実際は曇り夜空なので見えていない)。蕪村自身でなく雁の目線で考えれば興趣は増す。
さらに詠み手は動かず、一か所にとどまっていたら、どうだろう。時間の経過により月が東の空から西の空へ移動すれば、棚田に映る月も幾枚かの田を通過する。この情景を「田毎の月」と表現しても不自然ではない。花鳥風月の中でも西行などは、ことのほか月を愛した。「嘆けとてものを思わする」月を夜通し見続けていたなら、月は田毎に光を落としつつ西の空へと消えたに違いない。
棚田の水面(みなも)の数だけの月が、同時に映る--という、一瞬を切り取る静止画的な理解。時間の要素を加えると、画に動きが出て、詠み手の心の動きまでが伝わる。こちらは動的な理解。句や歌に深みを与えるのは、どちらだろうか。
「田毎の月」の季節は?
残る問題は、どの季節に「田毎の月」が見られるか、である。「月」の季語は秋だが、「田毎の月」という季語はない。しかしながら蕪村の句のように「帰る雁」の語があれば、春の句であることが分かる。田に水が張られるのは田植え前後の時期だから、この季節の情景と見るのが自然だ。しかし蕪村の句にも「月のくもる夜に」とあるように、この季節は曇りがちで、せいぜい「おぼろ月」が望める程度の夜が多い。つまり観月の季節としてはふさわしくない。
すると「月」の季語の通り秋だろうか。『広辞苑』の初版本にも「水田の一つ一つにうつる仲秋の月」と説明されていた。しかし、しかし、である。平場の田でさえ稲刈り前から水が抜かれるというのに、水捌(は)けの良い棚田にこの時期まで水面が残っているものだろうか。それとも雨台風一過の寸時のみに見られる、珍しい光景なのか。どうにも悩ましい。「田毎の月」は、やっかいなコトバである。
月の美しい季節になった。観月の名所は多いが、古来、歌枕(うたまくら)の地に数えられてきた信州・姥捨(うばすて)もその一つ。そして、姥捨といえば「田毎の月」である。広辞苑(第七版)は「田毎の月」の語について次のように説明している。
<たごと・の・つき。長野県千曲市、冠着山(かむりきやま)(伝説では姥捨山)の山腹の、段々に小さく区切った水田に映る月。蕪村句集「帰る雁(かり)田毎の月のくもる夜に」>
「田毎の月」の名所なのに、月の出ていない、あるいは見えにくい春の夜空を、雁が北の地へと帰って行くことよ--と。段々畑にも似た棚田は全国各所にあるが、とりわけ姥捨の棚田は名高い。平安時代の『大和物語』で信濃国更科の「姥捨て伝説」が広まり、また名歌<わが心なぐさめかねつ更科や姥捨て山に照る月をみて>(『古今和歌集』、詠み人知らず)の影響もあって、この地が月の名所になった。ただし能員法師や西行、小野小町、紀貫之ら平安歌人らが姥捨の月を詠んだ歌に「田毎の月」の言葉は見当たらず、蕪村の句のように江戸時代になってから「田毎の月」が登場する。『更科紀行』を残した芭蕉にも<元日は田毎の日こそ恋しけれ>の句があり、もちろん「田毎の月」を意識すればこその「田毎の日」だ。意味は、秋に田毎の月を見たように、元日を迎えた今は「田毎の日」にカシワ手をポンと打ちたいものだ--である。
「田毎の月」への誤解
歌枕の地でも信州・更科は京や江戸から遠い。交通事情の悪かった時代なら、なおさらだろう。実際に足を運ぶ人が少なければ、逆に想像ばかりがふくらむ。そこに「田毎の月」への誤解の余地が生じたのかもしれない。棚田の水面ごと(一枚ごと)に、同時に、水面の数だけ月が映る--という誤解である。冒頭で紹介したのは『広辞苑』の最新版・第七版の記述だが、筆者の手元にある初版本(第一版第二十九刷、昭和43年刊)のそれは以下の通り。内容は微妙に異なる。
<長野県更級郡冠着山(かむりきやま)(伝説では姥捨山)の山腹の小さく区切った、水田の一つ一つにうつる仲秋の月>
お分かりだろうか。最新版では「山腹の、段々に小さく区切った水田に映る月」だが、初版本では「山腹の小さく区切った、水田の一つ一つにうつる仲秋の月」だった。「水田の一つ一つにうつる」と「仲秋の」が消えたのである。岩波書店の辞書編集担当者や『広辞苑』の編著者サイドに誤解があったとは思えないが、初版本のような「水田の一つ一つにうつる」では誤解を招きやすい、と考えた結果であることは確かなようだ。
別の解釈
歌川広重の『六十余州名所図会 信濃更科田毎月鐘台山』や『本朝名所 信州更科田毎之月』と題した浮世絵は、どちらも棚田の一枚ごとに月が映っている絵柄だ。時代が下って明治に入っても<名月や田毎に月の五六十>(正岡子規)という句が詠まれている。「田毎の月」という語が長く誤解されてきたことは間違いない。
言うまでもなく、棚田一枚につき一面ずつの水面(みなも)がどれほど多くても、一定の時間に映る月は一つ。月と人とを結ぶ月光線は最短距離の一本だけであり、水面で反射する入射角と反射角とは必ず同じ度数になるので、月は一枚の田にしか映らない。どれほど広大な池や湖でも水面に映る月は一つ、という理屈に同じである。
では「田毎の月」を詠んだ先人たちは皆が皆、この点を誤解してきたのか。そうとも思えない。発想を少し変えたら、別の景色が見えて来ないだろうか。たとえば「田毎」という言葉に時間的要素を加味してみる。月見の句(短歌)なら、じっくりと時間をかけて月を観賞したい場面だ。<名月や池を巡りて夜もすがら>(芭蕉)とあるように詠み手が移動しつつ月を見れば、棚田の水面に映る月も詠み手の後から従(つ)いて行く。であれば田毎に月を映したことだろう。『広辞苑』の蕪村の句にしても、夜空を渡る雁の目には、棚田の一枚ずつを月の移動して行く様子が見えるはずであった(実際は曇り夜空なので見えていない)。蕪村自身でなく雁の目線で考えれば興趣は増す。
さらに詠み手は動かず、一か所にとどまっていたら、どうだろう。時間の経過により月が東の空から西の空へ移動すれば、棚田に映る月も幾枚かの田を通過する。この情景を「田毎の月」と表現しても不自然ではない。花鳥風月の中でも西行などは、ことのほか月を愛した。「嘆けとてものを思わする」月を夜通し見続けていたなら、月は田毎に光を落としつつ西の空へと消えたに違いない。
棚田の水面(みなも)の数だけの月が、同時に映る--という、一瞬を切り取る静止画的な理解。時間の要素を加えると、画に動きが出て、詠み手の心の動きまでが伝わる。こちらは動的な理解。句や歌に深みを与えるのは、どちらだろうか。
「田毎の月」の季節は?
残る問題は、どの季節に「田毎の月」が見られるか、である。「月」の季語は秋だが、「田毎の月」という季語はない。しかしながら蕪村の句のように「帰る雁」の語があれば、春の句であることが分かる。田に水が張られるのは田植え前後の時期だから、この季節の情景と見るのが自然だ。しかし蕪村の句にも「月のくもる夜に」とあるように、この季節は曇りがちで、せいぜい「おぼろ月」が望める程度の夜が多い。つまり観月の季節としてはふさわしくない。
すると「月」の季語の通り秋だろうか。『広辞苑』の初版本にも「水田の一つ一つにうつる仲秋の月」と説明されていた。しかし、しかし、である。平場の田でさえ稲刈り前から水が抜かれるというのに、水捌(は)けの良い棚田にこの時期まで水面が残っているものだろうか。それとも雨台風一過の寸時のみに見られる、珍しい光景なのか。どうにも悩ましい。「田毎の月」は、やっかいなコトバである。
クリンの広場(というgooブログ)から参りました。チットと申します。読者登録させていただいております。
私は学生時代から「田毎の月」という言葉が好きで、この響きに、とても古典の世界を感じます。
実際に田毎の月のモデルとなった場所にも行って見てみたいと思いながらも、写真などで見る限り、(なんだか自分のイメージと違うな、この場所)と勝手な印象を持ち、いまだ訪れておりません・・
ですが、以前展覧会で西垣永久という人が作った鍔(刀装具)で「田毎の月図鐸」というのを見つけて、(イメージの具現化が来た!!)と嬉しく思いました。
それはもののみごとに、田毎に月が写ってしまっていて、しかも三日月みたいな細い月で、まったく非現実なデザインでしたが、素敵でした。
田毎の月は古くから「パラレルワールド」の景色なのかも・・
昔の人の中に、自分が感じている田毎を見た気がして、嬉しかったのをおぼえています。
こういうものを解説しなければならないなんて、広辞苑の編者たちも大変だな・・と、、
私だったら、「古典の並行世界の景色の一。古くより日本人の心の琴線に突き刺さるフレーズで美意識の象徴。」って、説明しちゃいます!
現在ほど灌漑設備が発達していなかったために雨水がそのまま貯まっていたり、ふゆみずたんぼというあえて冬の間も田んぼに水を入れておく農法もありました。
もしかするとこれらの理由で、秋でも田んぼに水があったのかも知れません。