『みじか夜の ともし火のこる 御堂かな』
ちらしを変えてみました
こちらは普通かな。
前者のちらしの方が味わい深いです。
さて、『墨』と言う書の月刊誌が今月号で40周年なのだそうです。
多くの書家の寄稿や対談などが載っていて、中々読み応えがあひました。
そのほとんどが日本書道の将来に対する危機感を語っています。
その原因は、学校教育から書道が疎んじられているからだと言うものでした。
書道を志しても教員枠はなく、書道関係の法人もどんどん少なくなっている。
ますます書道を志す人が少なくなって行く。
そんな悪循環を嘆いている意見もありました。
だからこそ文科省に書道教育の充実を働きかけねばならないけれど、署名だけでは力不足。
ユネスコに日本書道を無形文化として認めてもらい、外圧に似た力で文科省にプレッシャーかけるのがよい、と言う意見もみられました。
ユネスコに認められれば、書道のブームがくる!なんて言う楽観的な意見もありましたが、ブームはブーム、一過性ですから1年と経たずに過ぎ去ってしまうでしょうね。
ブームを掴んで書道人口を増やすには、やはり文科省に働きかけて、小中高の授業数を増やす事が一番のように思います。
そのためにユネスコを利用するのは、極めて政治的ですが、有効であると思います。
書道パフォーマンスやタレント化した書道家の露出と、古典をもっと臨書するべきとの意見が相反するような意見もありましたが、私はそうは思いません。
山の頂上は一つでも、そこへ向かうルートはいくつもあってよいはずです。
富士山だっていくつもありますしね。
私は五合目まで車でお気楽に登って、そこからゆっくりと頂上を目指したいタイプです。
麓から重いリュックを背負って、道なき道を登っていくのは私には厳しいです(笑)
極端な事を言えば一人一人に、一つづつのルートがあり、それを見つけてあげるのが師の役目だと思います。
自分が辿ってこなかったルートを勧める事は無責任ですし、どのルートを辿ったから偉いとかダメだとか、優劣つけるのは間違いでしょう。
頂上にたどり着くためのそれぞれのルートには、それぞれの喜怒哀楽があるのです。
それは人生と同じでしょう。
大金持ちの家に生まれ何の苦労もなく育ち、楽しい事をやり尽くして大金持ちのまま死んでいく人の苦労は、その人でなければわからないものです。
貧しい家に生まれ、自分が貧しいことさえ分からぬままに死んでいく人よりは、少しだけマシなぐらいでしょう。
最低限、医療と教育の恩恵を受けている人間ならば、その人の人生で書道に深みを出す事ができます。
書によって自分自身そのものを表現する事ができるのです。
日本人が日本語を使っている以上、日本から書き文字は無くならないとの意見も誌上では見られました。
そのことは正しいと思いますが、もっと極端に言えば
『日本人が日本語を使っている限り、文字を書くことでそれぞれの日本人は一人一人が救われる』
と思っています。
それが書き初めであり、写経であり、書道パフォーマンスであり、古典の臨書であり、創作であると思うのです。
それぞれの人にそれぞれの書道が必要なのです。
私が文科省に書道教育の必要性を求めるところはそこにあります。
まとまったのかまとまってないのかわからない感じの文章になりました(笑)
今日は暑い一日になるとのことです。
水分補給していきましょう!
本日木曜日のお稽古は、18〜22時です。
お仕事帰りにお越しくださいませ。
『書道で救われよう!』
なんかちょっぴり怪しい感じのキャッチコピーですかね(笑)
でも私が救われてきたことは間違いないですからね〜