6月23日 (金) 米子湊山城址水辺の道と少彦名(すくなひこのみこと)を
祀る粟島神社の周辺散策・ウォーキングに行きました
今月7日に梅雨入りの発表でしたが、私、今年は
20日夜の雨から梅雨入りの、気がしていますが、
みなさんは??
(沖縄は、今日23日が
梅雨明け、山陰地方は7月21日頃に明ける予定)
で、23日の天気は
梅雨の合間
「夏 日」 でしたが、頑張ってウォーキング・歩きました!!
米子市は、昔は伯耆の国と出雲の国の国境としての要衝で、早い時期から城が
築かれていたようです。記録では1,467年山名宗幸が飯山砦(湊山城の9号線を
挟んだ反対側)を築いたことが始まりです。
現在の湊山城は、出雲と伯耆の一部を領有していた吉川広家(毛利元就の家臣)が、
月山富田城が本格的な山城で不便なこと、飯梨川が埋まり港から遠くなったことから、
1,591年に城の移転を目的に築城を開始します。
(堀尾氏が富田城を松江に移さなくても富田城はなくなる運命だったようです)
しかし、毛利家は関ヶ原の役で敗れ吉川家も岩国に転封となります。
その後、伯耆の国(18万石)を領有したのは、関ヶ原の役で軍功を上げた
中村家で嫡男の中村一忠はそれまでに7割完成していた湊山城をさらに拡大し、
吉川家が建てた4層の天守閣の横にさらに5層の天守閣を造りました。
当時、
湊山城の「 天守は 山陰随一」と、
言われていたようです。
しかし、
中村一忠は若くして他界し、後継ぎがなかったので藩は絶藩となります。
10:00 安来市役所駐車場でマイクロバスに乗車 ⇒ 米子駅前イオン駐車場近くの
加茂川遊歩道で降車 ⇒ サァー! 午前の部 ウォーキングを開始
まずは、感応寺の
中村一忠公 墓所へ ⇒ 山の中腹の墓碑に到着「合 掌」 ⇒ 湊山城址横 水辺の道 ⇒
途中鎮座の色々なオブジェや、始めてみる海側からの風景を眺めながら歩く!歩く!! ⇒
途中から、湊山公園を横切り、プラネタリウム駐車場へ、ここでマイクロバスに乗車 ⇒
昼食会場の 皆生「松の江」へ
感応寺の中村一忠公 墓所へ 昭和34年5月 再建立碑 2人の追従碑
水辺遊歩道に多数あるオブジェの内の二作品
右の 米子湾 と 午後に行く「粟 島」を
遠望
ここでバスに
➡ 昼食の会場へ
う みに ゆ が ~わ く
米子の かいけぇぃ ~
昼食会場 と 本日のお昼で ~ す
昼食・休憩後、皆生 「松の江」駐車場でバスに乗車
※ 近くの「足 湯」を、楽しまれた方もおられました
粟島神社は「色々な神話や迷信」がある場所で、米子の地名も「この粟島の金持ちが
長く子供がなく、88歳の米寿にはじめて子供を授かったことから米寿の子で
米子になった」とか「人魚の肉を食べた少女が800歳まで生きた洞窟」とかが、
あります。
この粟島神社の神話も残っていて、伯耆の国風土記や日本書紀に、
小人の神少彦名(一寸法師のモデルとも)が、天界から下界の海に落ちてしまい、
空豆の皮で船を造り辿り着いたのがこの「粟 島」と言われています。
ここで、出雲の神大国主命と地巳になります。神少彦名が排便した際、天界で食べた
栗のタネ落ち、粟島は数年で栗に覆われました。
すると、栗畑に立てられた案山子のお告げで天界に帰るよう命を受けます。そこで
粟の茎を曲げて穂につかまり茎が戻る力で弾け飛んで、天界に帰っていきました。
そのことから、大国主命がこの島を「粟島」と読んだとあります。
彦名 粟島神社駐車場で降車 ⇒ 午後のウォーキング開始
⇒ 山頂の粟島神社に参拝・人魚伝説の地 静の岩・⇒ 米子水鳥公園 駐車場でバス乗車 ⇒
安来道の駅「あらエッサ」休憩予定を変更 ⇒ 一路 安来市役所駐車場へ 16時前に到着
粟島神社鳥居 と 神社ゆかり詳細
みなさんは!
「おまじない」を、されますか?
(上記案内板より抜粋)
こーから神頼み! 参拝!!
手すりを持って! がんばらい や ~!!
平和で! 元気でありますように!!
800歳の洞窟だって!!
どんな顔 か な ~?!
粟島ここから最後のウォーキング開始、水鳥公園まで頑張って歩きました
パンフレットを借用
ツー ショット
✳ 長いのに、よーここまで見て下さいました! だんだんね ~!!
では、では この辺で失礼 しま ~ す