弐千円札よ永遠に

Remember the 2000-yen bill!

平和希求紙幣

2010-01-20 20:26:40 | 弐千円札/論説
現在の日本において,多くの人は二千円札について「いらない」,「税金の無駄」,「紛らわしい」,「計算が面倒」と思っている.しかしながら,私が見るところ,彼らの多くは彼ら自身の頭で考え信念を持ってそう思っているわけではない.その大多数は,マスコミのネガティブキャンペーンや他人からの伝聞を鵜呑みにし,あるいはその場の雰囲気に飲まれて,さらには「とりあえず国のやることを批判しておけば無難だ」と考えたりして,二千円札の存在を否定しているのである.

そればかりではない.さらには場の雰囲気に乗じて,二千円札に肯定的な人々に異端者のレッテルを貼り,嘲り糾弾するといった行動に出ることもある.自らが二千円札大使であることを明らかにし,二千円札の普及に向けた行動を取ることは,時として,いばらの道を往くことでもあるのだ.

自分の頭で考えず,場の雰囲気に乗じて事の是非を断じ,異論を唱える者を理不尽に糾弾する...しかしながら,それは別に二千円札の話に限ったことではない.さらには何か別なことを連想させる.約70年前にも,軍部の人間,政治家,民衆は同じような心理に支配されていたのではないか.その戦争に勝ち目がないと分かっていた人間がいたにもかかわらず,彼らに非国民のレッテルを貼って迫害し,結果として悲惨極まりない敗戦を経験したのではないか.

多少論理が飛躍してしまったが,このことは私にあることを気づかせてくれた.やはり,二千円札は「平和希求紙幣」だったのだと.

平和を希求することとは,「何ごとも話し合いで解決できる」,「武器を持たなければ戦争になどなりっこない」,あるいは「日本という国さえなくなれば世界は平和になる」などと考えることでは断じてない.それは,国が無謀な戦争へと突き進み,世論もそれに同調する中で,敢えてそれに異論を唱えることである.場合によっては,死を前にしてなおも主張することである.

異端者として迫害されなおも,異論,正論,持論を唱える信念と勇気があるのか.二千円札は我々二千円札大使に問うている.なぜならば,その信念と勇気こそが二千円札の趣旨である「平和希求」の骨子をなすものだからである.

Comments (4)
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