昨日帰宅したら一通の封書が来ていた.差出人はKDDIとプロバイダの連名であった.内容は「旧TEPCOひかり」のサービス終了と「auひかり」への巻き取りに関するものであった.そのサービス終了は2011年9月30日金曜日だそうである.
去年の8月9月あたりから,「旧TEPCOひかり」から「ひかりone」(当時)への乗り換えを促す電話がKDDIからしつこくかかってきていたことから,「旧TEPCOひかり」の終焉が近いことは分かっていたが,意外に早くその日はやってきた.
2003年,我が家がNTTのフレッツなどではなく「TEPCOひかり」を選んだのは,家から基地局までの100 Mbps回線を占有できるからであった.それがなくなるならば,特にKDDIを使いつづける理由は見当たらない.電話2回線(現在はISDN)とTVも1本のファイバーにまとめてしまえるNTTのフレッツを軸に検討していこうと思う.
去年の8月9月あたりから,「旧TEPCOひかり」から「ひかりone」(当時)への乗り換えを促す電話がKDDIからしつこくかかってきていたことから,「旧TEPCOひかり」の終焉が近いことは分かっていたが,意外に早くその日はやってきた.
2003年,我が家がNTTのフレッツなどではなく「TEPCOひかり」を選んだのは,家から基地局までの100 Mbps回線を占有できるからであった.それがなくなるならば,特にKDDIを使いつづける理由は見当たらない.電話2回線(現在はISDN)とTVも1本のファイバーにまとめてしまえるNTTのフレッツを軸に検討していこうと思う.
会社の近所にある山梨中央銀行某支店において20枚の二千円札を仕入れた.40,000円という金額は私にとっては大金であるが,20枚という枚数はせいぜい銀行への挨拶といった程度である.
ところで,窓口で両替を頼むことにはメリットもある.それは,溜まった千円札を効率よく掃けるという点である.カード式両替機の場合,受け入れられる紙幣の枚数に上限があるため,千円札から二千円札への両替に際しては必ずしも便利ではないのだ.
ところで,窓口で両替を頼むことにはメリットもある.それは,溜まった千円札を効率よく掃けるという点である.カード式両替機の場合,受け入れられる紙幣の枚数に上限があるため,千円札から二千円札への両替に際しては必ずしも便利ではないのだ.
現在の日本において,多くの人は二千円札について「いらない」,「税金の無駄」,「紛らわしい」,「計算が面倒」と思っている.しかしながら,私が見るところ,彼らの多くは彼ら自身の頭で考え信念を持ってそう思っているわけではない.その大多数は,マスコミのネガティブキャンペーンや他人からの伝聞を鵜呑みにし,あるいはその場の雰囲気に飲まれて,さらには「とりあえず国のやることを批判しておけば無難だ」と考えたりして,二千円札の存在を否定しているのである.
そればかりではない.さらには場の雰囲気に乗じて,二千円札に肯定的な人々に異端者のレッテルを貼り,嘲り糾弾するといった行動に出ることもある.自らが二千円札大使であることを明らかにし,二千円札の普及に向けた行動を取ることは,時として,いばらの道を往くことでもあるのだ.
自分の頭で考えず,場の雰囲気に乗じて事の是非を断じ,異論を唱える者を理不尽に糾弾する...しかしながら,それは別に二千円札の話に限ったことではない.さらには何か別なことを連想させる.約70年前にも,軍部の人間,政治家,民衆は同じような心理に支配されていたのではないか.その戦争に勝ち目がないと分かっていた人間がいたにもかかわらず,彼らに非国民のレッテルを貼って迫害し,結果として悲惨極まりない敗戦を経験したのではないか.
多少論理が飛躍してしまったが,このことは私にあることを気づかせてくれた.やはり,二千円札は「平和希求紙幣」だったのだと.
平和を希求することとは,「何ごとも話し合いで解決できる」,「武器を持たなければ戦争になどなりっこない」,あるいは「日本という国さえなくなれば世界は平和になる」などと考えることでは断じてない.それは,国が無謀な戦争へと突き進み,世論もそれに同調する中で,敢えてそれに異論を唱えることである.場合によっては,死を前にしてなおも主張することである.
異端者として迫害されなおも,異論,正論,持論を唱える信念と勇気があるのか.二千円札は我々二千円札大使に問うている.なぜならば,その信念と勇気こそが二千円札の趣旨である「平和希求」の骨子をなすものだからである.
そればかりではない.さらには場の雰囲気に乗じて,二千円札に肯定的な人々に異端者のレッテルを貼り,嘲り糾弾するといった行動に出ることもある.自らが二千円札大使であることを明らかにし,二千円札の普及に向けた行動を取ることは,時として,いばらの道を往くことでもあるのだ.
自分の頭で考えず,場の雰囲気に乗じて事の是非を断じ,異論を唱える者を理不尽に糾弾する...しかしながら,それは別に二千円札の話に限ったことではない.さらには何か別なことを連想させる.約70年前にも,軍部の人間,政治家,民衆は同じような心理に支配されていたのではないか.その戦争に勝ち目がないと分かっていた人間がいたにもかかわらず,彼らに非国民のレッテルを貼って迫害し,結果として悲惨極まりない敗戦を経験したのではないか.
多少論理が飛躍してしまったが,このことは私にあることを気づかせてくれた.やはり,二千円札は「平和希求紙幣」だったのだと.
平和を希求することとは,「何ごとも話し合いで解決できる」,「武器を持たなければ戦争になどなりっこない」,あるいは「日本という国さえなくなれば世界は平和になる」などと考えることでは断じてない.それは,国が無謀な戦争へと突き進み,世論もそれに同調する中で,敢えてそれに異論を唱えることである.場合によっては,死を前にしてなおも主張することである.
異端者として迫害されなおも,異論,正論,持論を唱える信念と勇気があるのか.二千円札は我々二千円札大使に問うている.なぜならば,その信念と勇気こそが二千円札の趣旨である「平和希求」の骨子をなすものだからである.
拙ブログに「二千円札 画像」というキーワードでいらっしゃる方々が見受けられる.そのような方々にお見せする画像としては何がふさわしいのか?少し考えた結果,それは以下の2枚ではないかと思うに至った.かれこれ一年以上前に撮影したものであるが,200枚の二千円札が持つ迫力を味わっていただきたい.
わが友人の一人に二千円大使がいる.先の年末年始に彼は故郷へ帰省し,そこでも二千円紙幣流通促進活動に勤しんでくれたようである.
まっちゃんの日記: 今更ですが・・・
彼は私と違って快活かつ社交的な男である.きっと地元の人々に二千円札の存在を効果的に思い出させしめたことであろう.
その彼は,しばらく前からGREEに入れ込みすぎてブログの手入れを怠りがちになっており,そこにはスパムのコメントやトラックバックが放置されている.きちんと手入れをしてもらいたいとの気持ちを込めて,本記事から彼の記事へトラックバックを送信することにする.
まっちゃんの日記: 今更ですが・・・
彼は私と違って快活かつ社交的な男である.きっと地元の人々に二千円札の存在を効果的に思い出させしめたことであろう.
その彼は,しばらく前からGREEに入れ込みすぎてブログの手入れを怠りがちになっており,そこにはスパムのコメントやトラックバックが放置されている.きちんと手入れをしてもらいたいとの気持ちを込めて,本記事から彼の記事へトラックバックを送信することにする.
本日ついに多摩信用金庫のキャッシュカードが届いた.これこそが,かねてより私が手に入れたくて仕方なかったものである.
たましんの支店を訪れてこのカードを両替機に入れることにより,行員さんの手を煩わせることなく「枚数無制限で手数料無料」の両替を実現できるのである.実際に代休を取れるのは幾分先になりそうであるが,たましんの両替機から二千円札の重厚感あふれる札束を取り出すことを想像すると,早くもゾクゾクしてくる.
もちろん,口座を開いた趣旨は「たましんを応援する」ことであるから,両替だけでなくもっと積極的に多摩信用金庫を利用していきたい.
たましんの支店を訪れてこのカードを両替機に入れることにより,行員さんの手を煩わせることなく「枚数無制限で手数料無料」の両替を実現できるのである.実際に代休を取れるのは幾分先になりそうであるが,たましんの両替機から二千円札の重厚感あふれる札束を取り出すことを想像すると,早くもゾクゾクしてくる.
もちろん,口座を開いた趣旨は「たましんを応援する」ことであるから,両替だけでなくもっと積極的に多摩信用金庫を利用していきたい.
会社の近所にあるスーパーで買い物をした.会計のため,私は数あるキャッシャーの一つを選んだわけであるが,そこを担当していたのはこの方であった.
今度は確信犯的に二千円札を出したところ,今回は「二千円...今年もよろしくお願いします.」と言われた.私も「今年もよろしくお願いします.」と返した.彼女の顔も私の顔も半分以上はマスクで覆われていたが,お互いに相手のことを記憶していたのである.そして何より,二千円札を通じて,店員と客の間に心温まる言葉のやりとりが発生したのである.
このようなとき,私は二千円札を使っていてよかったと感じる.
今度は確信犯的に二千円札を出したところ,今回は「二千円...今年もよろしくお願いします.」と言われた.私も「今年もよろしくお願いします.」と返した.彼女の顔も私の顔も半分以上はマスクで覆われていたが,お互いに相手のことを記憶していたのである.そして何より,二千円札を通じて,店員と客の間に心温まる言葉のやりとりが発生したのである.
このようなとき,私は二千円札を使っていてよかったと感じる.