ビタミン屋

気が向いた時だけ書いてます。日常や旅行、趣味の記録。

決断②

2014-04-27 20:23:00 | ノンジャンル
祖父は医者でした。
最初から母は祖父に養ってもらうつもりで離婚しています。
そして、祖父もその気でした。
家庭の中は祖父が君臨する絶対王政でした。
祖父に異論を唱えることは許されず、そして、家族の全員が祖父の偉大さにマインドコントロールを受けていました。
私も一緒に暮らすうちにマインドコントロールにかかっていきました。
祖父は「私が世界で一番天才で、正しい」と言っていました。家族の全員がそれを信じこんでいました。
この頃は祖父を喜ばせたい一心で生きていました。
祖父は厳しく、自分の教えとは違う行動をしている人たちを軽蔑。
よく、世間一般の人々は考えのない自分の欲だけに忠実な下等な人間、というようなことを言っており、私は「世間の馬鹿坊主たちと同じになってはいけない」というようなことをよく言われました。

でも、祖父は家族の中で一番私に優しくしてくれました。
両親が離婚してどれだけ苦しい想いをしているか、と慰め、励ましてくれました。
それを言ってくれたのは、祖父だけでした。
私は祖父のために生きようと思うようになっていきました。
祖父の言われるまま医学部を目指すことにしました。
他の道に進みたくなると「がっかりさせないでよ」と言われたので、思い直して医学部に行こうと決意しなおしました。

母は毎日毎日暗くてイライラしていて、その顔を見ることが重荷になっていました。
いつも自分のことでいっぱい、いっぱいで、私のことなんか気遣ってもくれない。
母から離れてくらしたい、と思っていました。
そんな頃、祖父が二人で暮らそう、と言ってきました。
その頃日本橋で開業していた祖父は、体調が悪く、千葉から通うのは大変だから、日本橋の近くにマンションを借りる、というのです。
そのマンションで私と二人で暮らしたい、と言いました。
東京の方がいい予備校があるよ、と言っていました。
私と祖父の世話は、祖父のクリニックの看護師さんがしてくれる、という話でした。
私はとにかく母と離れたかったので、よく考えずにOKしました。

まもなく、とんでもないことになりました。
祖父が倒れたのです。
そして、その看護師は祖父の愛人でした。
その事実を知らなかったのは私だけでした。
祖父は病院で、祖母、母、愛人に看取られてなくなりました。
私には「医者になってくれ」という遺言を残しました。

結局、祖父が死んだあと、私が働くしかありませんでした。
母、親戚中から「働け!」と言われました。
「私は体が弱いから昼間のパートしかできないよ。」
と言われ、私のバイト代、祖母の年金で家計をまかなっていました。
「苦労かけて、ごめんね」と一言いってくれれば、報われたのに、言ってくれませんでした。
あなたが働くのが当たり前なんだよ、って感じだった。
いつも誰かに養ってもらうことばかり考えている母に嫌悪感が湧きました。
自分は自分で稼いでいける女になろう、と決めました。

それでも、祖父の約束を守りたいと思って、医学部になんとかして行こう、と考えていました。
何年でも働いて、学費を貯めよう、と思っていました。
なのに、叔父は「医学部なんて学費の高いところに行くつもりなんて、金のアテがあるんじゃないか?みんなを裏切って影で実父と通じていて金を準備してもらっているんだろ!」と言い出しました。
そんな事実、まったくありません。
私が否定しても信じてくれません。
そして、母も「そうにちがいない」と言い出し、叔父に加担しました。
私よりも叔父を信じる母に失望しました。
そして、この日から私は叔父を心から信頼することができなくなっています。

結局、私は公務員になりました。
公務員になった年、母が再婚し、その再婚相手と私、弟は養子縁組をしました。
この頃は、祖父の死でドン底であった状況が徐々に上向きになっていく感じでした。
それからしばらくは落ち着いた日々が流れました。

長くてすみません(´・ω・`)
次へつづきます。
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決断①

2014-04-27 19:50:00 | ノンジャンル
今日は一日鼻がむずむずして、つまっていました。…今も(´・ω・`)

この1週間はたいへんな毎日でした。
そして、その中で、とてもつらい決断をしなければいけなくなりました。
もう、疲労困憊の1週間でした。

その決断とは、実家との関わりを断つ、ということです。
私にとって、本当につらく、苦しい決断です。
もちろん、一時の感情や怒りで決めたことではありません。
度重なる出来事により、蓄積されていったものが今回限界を迎えた、という感じです。

どうして、そのようなことになったのか。
自分のために、その理由を振り返ってみたいと思います。

私の両親は、私が中学生の頃離婚しています。
両親が離婚したあとは、母、私、弟は母の実家でお世話になりました。
母が言っていた離婚の理由は以下のとおり
①父が母実家の悪口をいう
②姑による嫁いびり&父は常に姑の味方
③夫婦関係が冷めていた
そのあとに知ったことですが、④他に好きな男ができた
です。
当時、実際に母が祖母(姑)にいじめられているのを見ていたので、母をかわいそうに思っていました。
父も、祖父が遺した遺産をめぐり、兄弟で骨肉の争いをしていて、家の中は雰囲気が悪かったのを覚えています。
私は、一度「(私は)お父さんのこともやっぱり好きだから離婚しないで」と母にお願いしたのですが母の決心が強く、結局母に協力しました。
母方の祖父が内緒で私たちに会いにきて、父から逃げ出すための計画を教えられました。
私と母は、父にみつからないように、最小限の荷物だけ用意して、父が仕事に出かけているあいだに弟を連れて母の実家に逃げました。仕事に行く父の後ろ姿を見て、すごく心が痛みました。でも、母をいじめる父と祖母がいけないのだと言い聞かせました。

もちろん、父は母の実家まで私たちを迎えに来ました。
母はヒステリーを起こし、父を罵り、祖父も「離婚しろ」と言いました。
私は、事前に父の悪いところをノートに書かされました。
母はそれを父になげつけました。
結局、父とは2度と会えないことになりました。

叔父や叔母は冷たく、接してきました。
いつもお盆やお正月で会う時は優しかったのに、別人のように冷たい態度で、私はショックを受けました。傷つくことも色々言われました。
肩身がとてもせまかったです。

14歳の誕生日に父から手紙がきて、それを読んで泣いていると叱られました。
父は極悪非道な人間として語られており、そんな男の手紙を読んで泣いているとはどういうつもりだ、ということです。

そして、面倒をみてもらっていることに感謝しろ、とよく言われました。
「あの男の血が流れているから冷たい人間だ」と言われないように、常に良い子であろうと努力しました。
また、良い子以外であることは許されませんでした。
母や親戚たちはよく私の前でいかに父がひどい人であったか、という話題で盛り上がりました。
そのひどい男と血がつながっている自分はいたたまれない気持ちでした。

母はいつも暗い顔をして、時々ヒステリーをおこしました。
離婚して、つらい思いさせてごめんね、とは1回も言ってくれませんでした。
私が耐え切れずに泣いていても、慰めてくれませんでした。

母は自分が一番不幸で、かわいそうなんだ、という感じでした。
そして、いつも仕事が長続きしませんでした。
最後は必ず職場でいじめられて、人間関係でやめました。

母は私が小さい頃も感情的なことがありましたが、優しいことの方がおおかったです。
かわいがってくれ、いい思い出もたくさんあります。
しかし、離婚したあたりから徐々に感情的に行動することが増えていったのではないか、と思います。

重い話ですみませんm(__)m
次につづきます。
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