斎藤秀俊の眼

科学技術分野と水難救助、あるいは社会全般に関する様々な事象を一個人の眼で吟味していきます。

出家と弟子たち

2015年03月02日 23時43分17秒 | 長岡技術科学大学の広報
本日、材料開発工学課程の課題研究発表が無事終了し、送別会もかねて研究室で懇親会を開催しました。


現在タイに留学中の学生1名を除いて全員が参加した懇親会でした。こういうときに全員出席するとは、ほんとうに自慢の弟子たちです。
一緒に苦しみ、楽しんだ仲間の修了をみんなで喜び合える、これが理想の研究室のひとつの姿だと確信しています。

今回、修士2年生が3名修了し、大学院進学にチャレンジしながら残念ながらかなわなかった1名が研究室を後にします。また、長年研究室を支えてくれた技術職員も一人定年となります。いよいよ別れの春、出会いの春がそこまで来ています。もう3月ですね。

皆さんの職場、学校でも同じように別れの季節が到来しているでしょうか。


======今日の懇親会で、修士2年の姿を見てきた修士1年とのやりとり======

院生 お師匠様、あの修士の学位をとるとはどのようなものでございましょうか。

教授 (まじめに)苦しいものだよ。

院生 学位をとるのは罪の一つで御座いましょうか。

教授 罪に絡まったものだ。この世では罪をつくらずに学位をとることは出来ないのだ。

院生 では学位をとってはいけませんね。

教授 いけなくても院生は一生に一度は学位をとるものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が眼の前に展けるのだ。この関所の越え方の如何で多くの院生の生涯はきまると云ってもいい位だ。

院生 そのように重大なものですか。

教授 二つとない大切な生活材料だ。真面目にこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。学問を知る。すべての智慧の芽が一時に眼醒る。魂はものの深い本質を見る事が出来るようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向えば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向うの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所の此方で精力が耗つきてへとへとになってしまうのだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする