母が今朝語った隔離病棟の話。おそらく昭和30年頃の体験かと思う。
母は岐阜県郡上市出身だが、集団就職をして一宮の紡績工場に勤めていた。年に2回帰省する。母が帰省した時、郡上で(日本各地かもしれないが)赤痢やチフスが流行していたので、実家の住まいにも保健所がやってきたという話を、家族から聞いた。保健所の人にみんなお尻をみせて赤痢じゃないかどうか確かめたという。たぶん家の消毒もしたんだろう。母はその時ちょうど紡績工場にいたから、お尻を見せずに済んだと思いとてもホッとしたと話していた。(若い女性だったから、そう思うよね…。)母の話によると郡上の駅近くに隔離病棟もあった。それは一般の病院ではなく、当時感染症になった人がそこに強制的に隔離される場所だ。平屋建てで立派な建物でもない。おそらくベットもなく、広い畳敷きの部屋に布団が敷いてあるようなもので患者はそこに寝かされたらしい。感染症の患者がいない時は誰もいない。田んぼの真ん中にポツンとその建物があったと話していた。今はもう道路や住居が立ち並び郡上の駅近くのどこにその病棟があったかは分からないという。
母がその感染病棟のことを記憶していたのは、そのお尻を見せるという恐怖もあったと思うが、数年後郡上で仕事の用事で保健所にいくことがありその記憶に起因していると思われる。保健所の女性と親しくなり、そこでその建物の話になった時誰もいない病棟を見学したのかもしれないと言っていた。親戚や家族で誰かが隔離されたということはなく、どうして自分がその風景を覚えているのか考えたら、たぶんそれだろうと。60年程前にはおそらく郡上のような山奥にも隔離病棟があった話は興味深い。
母の記憶を呼び起こしたものはもちろんコロナ報道だ。今のコロナ禍は当時のそれとも比較にならないほど酷い。母は今の現状を、戦争をしているのと同じだから、今はじっと耐えて辛抱するしかない、たぶん3年はかかるだろうといつも言っている。
80年以上も生きていてもまだ未曾有な体験をくぐっていく母。阪神大震災が起こった今日1月17は母の83歳の誕生日でもある。