映画「はなれ瞽女おりん」を見た後、三味線を抱えて下北半島の深い柔らかい雪に埋もれて死んでゆく絵を見ていた。
ギョーム・ド・マショーの声楽曲を聞いた後、古い町並みの路地で古楽器を弾いて詩を朗読している絵を見た。
その頃、どこであったかコンサートホールでギョーム・ド・マシューの音楽を聞いた。以来<ギョーム・ド・マシュ-・アンサブル>と思ってきたがどうもこのアンサンブル名は違うらしい。6人ぐらいの外国人の声楽であった。
それまで宗教音楽はあまり聞こうとしなかったのになぜ行ったんだろう。しかし初めて聞いた声楽は神秘的だった。霊を信じるとすればその響きだった。吟遊詩人の姿を見た。
「アカシアの雨がやむとき」の詞をを読んでいて<アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩が飛ぶ 紫の羽の色 それはベンチの片隅で 冷たくなった 私のぬけがら>
紫色の雨上がりの公園でサックスを吹いている絵を見ていた。
「The Last Rose Of Summmer」はみんな居なくなってしまって私一人になってしまったという歌だ。去年、「The Last Rose Of Summmer]」(庭の千草)を流しながら、荒廃した国土で戦士した兵士とひょっとして送り込まれるかもしれない市民のことを書いた自作詩「バラン」を朗読した。その後、その会場に居た知人が、そのまま九州である朗読会に持っていかないかと誘ってくれた。
今は、詩による曲ではなくて、既存の曲に乗せて詩を朗読するのもいいと思っている。イギリスやドイツのフォークソング、ナポリのフォークソング(海に来たれ)などを流しながら、自分が作った詩を朗読するのもいいなと、少しの感触を得ている。日本語の訳詩で原曲の響きは出しにくい。全く違う詩であっていい。雰囲気で合いそうな曲を弾きながら、好きな詩の朗読をしてみるのもいいだろう。詩を吟遊して歩きたい。下北の深い雪に埋もれるまで。
ギョーム・ド・マショーの声楽曲を聞いた後、古い町並みの路地で古楽器を弾いて詩を朗読している絵を見た。
その頃、どこであったかコンサートホールでギョーム・ド・マシューの音楽を聞いた。以来<ギョーム・ド・マシュ-・アンサブル>と思ってきたがどうもこのアンサンブル名は違うらしい。6人ぐらいの外国人の声楽であった。
それまで宗教音楽はあまり聞こうとしなかったのになぜ行ったんだろう。しかし初めて聞いた声楽は神秘的だった。霊を信じるとすればその響きだった。吟遊詩人の姿を見た。
「アカシアの雨がやむとき」の詞をを読んでいて<アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩が飛ぶ 紫の羽の色 それはベンチの片隅で 冷たくなった 私のぬけがら>
紫色の雨上がりの公園でサックスを吹いている絵を見ていた。
「The Last Rose Of Summmer」はみんな居なくなってしまって私一人になってしまったという歌だ。去年、「The Last Rose Of Summmer]」(庭の千草)を流しながら、荒廃した国土で戦士した兵士とひょっとして送り込まれるかもしれない市民のことを書いた自作詩「バラン」を朗読した。その後、その会場に居た知人が、そのまま九州である朗読会に持っていかないかと誘ってくれた。
今は、詩による曲ではなくて、既存の曲に乗せて詩を朗読するのもいいと思っている。イギリスやドイツのフォークソング、ナポリのフォークソング(海に来たれ)などを流しながら、自分が作った詩を朗読するのもいいなと、少しの感触を得ている。日本語の訳詩で原曲の響きは出しにくい。全く違う詩であっていい。雰囲気で合いそうな曲を弾きながら、好きな詩の朗読をしてみるのもいいだろう。詩を吟遊して歩きたい。下北の深い雪に埋もれるまで。
聞くだけで伝わるものでしょうか?
でも、日常は会話で成り立っている訳だから、詩句も理解はできるはずですよね。ただ日常会話は日常の延長線上にあるものだから当たり前ですよね。
問題は、詩の持つ世界がすぐに想像できて、気持ちがワープできるか、ということだと思います。
BGMはそれを手助けしてくれる小道具になるのでしょうか。
私は、何度も読み返して、やっと意味を知るタイプで、直感できないみたいなんです。
朗読のCDとかがあったら、お勧めを教えてください。」
散文の朗読でもBGMを流しますね。なんの曲でもいいわけではなく合った曲があるわけです。まして詩は韻文ですから音の要素はついて回っていると思っています。
また言葉の意味を理解しただけでは定型詩の行分け、行間の意味は伝わらないと思います。
中江俊夫の[語彙集」も吉増剛造の「オシリス石の神」も意味だけではその詩の世界は理解し難いと思います。
日常と非日常とを出入りすることによって詩世界は成り立つとも言われますが、その役割を担うのが言葉の自立性だと思います。日常ぼくたちは言葉をその指示性に重きをおいて個々の都合のいいように占有しています。その占有から言葉を解き放つ事によって、ということは、日常の自分から一歩離れて、言葉の本来の機能(意味、音、色、匂いなど)を回復させて詩世界が作り上げられるのではないかと考えます。
高木秋尾氏は短詩系文学を「詩の容器」と言っていますがその中身は色々なものが入っているわけです。それをいじくって楽しむのが詩人の趣味かもしれません。
詩人と言ってもそれだけのことかもしれません。怒られちゃうかな?