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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序の結びで述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。こうして平安時代の歌論は埋もれ木のようになったのである。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (313)
同じつごもりの日、よめる 躬 恒
道しらばたづねもゆかむもみぢ葉を ぬさとたむけて秋はいにけり
(貫之の歌と同じ九月のつごもりの日、詠んだと思われる・歌……同じく長突きの果ての日、詠んだらしい・歌)みつね
(道知ったならば、訪ねて行こう、もみぢ葉を幣とし、神にたむけて、季節の秋は、去ってしまったなあ……通い路知っているので、訪ね・多づ寝て逝こう、も見じ端を、おんなに幣としてたむけて、我が厭きは去ってしまったなあ)。
「道…通い路…おんな」「しらば…知らば…知っているならば…知っているので」「もみぢ…秋色…飽き色…厭き色…も見じ…見るつもり無し」「見…まぐあい」「葉…端…身の端…おとこ」「ぬさ…弊…かみに手向ける物…おんなに捧げる物」「秋…季節の秋…飽き…厭き」。
道知っていれば、秋を・訪ねて行こう、もみぢ葉を幣とし神にたむけて、季節の秋は、去ってしまったなあ――歌の清げな姿。
通い路知っているので、訪ね、多づ寝て、逝こう、も見じ端を、おんなにぬさとたむけて、我が厭きは去って逝ってしまったなあ――心におかしきところ。
はかなく去るのは、おとこのさが、おんなの心地を思い遣って、多づ寝て逝こうという、男の心意気を表した歌のようである。
季節の秋の果て、おとこの厭きの果ての歌で、巻第五、あき歌下、巻末の歌である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)