帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (321)ふるさとはよしのゝ (322)わが宿は雪ふり

2017-11-07 19:29:58 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

公任は、歌の様(歌の表現様式)を捉えて「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし(新撰髄脳)」と優れた歌の定義を述べた。歌には多重の意味があり、エロス(生の本能・性愛)が表現されてあったのである。「心におかしきところ」が、中世に「古今伝授」と称して歌の家々では、門外不出、一子相伝の秘事・秘伝となった。和歌の真髄が埋もれ始めたのである。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌321

 

(題しらず)                (よみ人知らず)

ふるさとはよしのゝ山しちかければ ひと日もみゆきふらぬ日はなし

(詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)

(故郷は、吉野の山が近かったので、一日も、冬は・お雪、降らない日はない……触るさ門は、好しのの山ばが近く、すぐ上ったので、一日も、貴身の・見ゆき、降らない日はなかったわ)

 

「ふるさと…故郷…生まれ育った所…古里…触るさ門…振るさ門」「と…門…おんな」「山…山ば」「み雪…見ゆき…身ゆき…おとこ白ゆき」。

 

生まれ育った所は、吉野の山が近かったので、冬ばは、日毎に雪が降っていた――歌の清げな姿。

触るさ門は、好しのの山ば近かったので、貴身の白ゆき、降らない日はなかった――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌322

 

(題しらず)              (よみ人知らず)

わが宿は雪ふりしきて道もなし ふみわけて訪ふ人しなければ

(詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)

(わが宿は雪降り敷きて道もなし、雪踏み分けて訪う人もいないので……わたしのや門は、白ゆき降りしきるので、通い路もわからない、なおも婦身分けて、訪う男なんていなかったので)。

 

「宿…家…女…や門…おんな」「雪…逝き…おとこ白ゆき…おとこの果て」「しき…敷き…頻り…ひっきりなし」「道…通い路…おんな」「ふみわけ…踏み分け…婦身分け」「人し…人も…男も…ひと肢…おとこなんて」。

 

わが宿は、雪降り敷きつめられて、道もない、雪踏みわけて、わざわざ訪う人もないので――歌の清げな姿。

わがや門は、白ゆき降りしきて、通い路わからなくなったのよ、なお、婦身わけて訪う男はいないので――心におかしきところ。

 

二首とも、ある時期までは、恵まれた満足すべき情態にあったものが、繰り返し次々と続くものであはない事を思い知った歌のようである。

 

藤原俊成は、歌の「心におかしきところ」を、煩悩の表出と捉えたようである。「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に」云々と『古来風躰抄』で述べているが、これを「歌の言葉は、浮言綺語のように戯れているけれども、そこに、ことの深い主旨や趣旨も顕れる。これを縁にして仏道に通じさせると(顕れたエロスは言わば)煩悩であるが(歌に詠むほどに自覚したならば)即ち菩提(悟りの境地)であるから(云々)」と読むことができる。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)