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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
公任は、歌の様(歌の表現様式)を捉えて「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし(新撰髄脳)」と優れた歌の定義を述べた。歌には多重の意味があり、エロス(生の本能・性愛)が表現されてあった。公任のいう「心におかしきところ」がそれである。中世に「古今伝授」と称して歌の家々では、門外不出、一子相伝の秘事・秘伝となって、今も埋もれ木のようになったままである。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (323)
冬の歌とてよめる 紀貫之
雪ふれば冬ごもりせる草も木も 春にしられぬ花ぞさきける
(冬の歌として詠んだと思われる・歌……厭きの果ての歌として詠んだらしい・歌) きのつらゆき
(雪ふれば、冬ごもりしている草も木も、季節の春には知られない、白い花が咲いたことよ……ゆきふれば、涸れた女も、寒さにちじこまったおとこも、季節の春には知られない、白いお花が咲くのだなあ)
「雪…逝き…ゆき…行き」「ふる…降る…触る…触れる…接する」「冬ごもり…活動休止」「草…言の心は女」「木…言の心は男」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」。
白雪の振りかかった枯れ草や木を、白い花が咲いたと見た、初冬の景色――歌の清げな姿。
行き、触れれば、活動休止中のおんなもおとこも、季節の春には知られない、白いお花が咲くのだなあ――心におかしきところ。
人は、季節の春にならなくとも、肌触れ合えば、白いお花が咲くことよ、と詠んだ歌のようである。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (324)
しがの山こえにてよめる 紀秋岑
しらゆきのところも分かずふりしけば 巌にもさく花とこそ見れ
(滋賀の山越えにて詠んだと思われる・歌……至賀の山ば越えにて詠んだらしい・歌)きのあきみね
(白雪が所も分かず降りしけば、 岩ほにも咲く花とだ、見えることよ……白ゆきが・所かまわず、降りしきるので、岩の上にも・井は山ばの頂上にも、咲く花と、見て思う)
「しらゆき…白雪…おとこ白ゆき」「ところもわかず…所を分別することなく…ところもかまわず…若き男のさが、あきみねは、貫之の縁者の若者だろう」「いはほ…巨岩のつき出たところ…岩の言の心は女…井端ほ…おんなの絶頂・至賀」「花…おとこの白い花」「見れ…見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。
白雪が所も分かず降りしけば、巨岩の先端にも咲く花とだ、見える――歌の清げな姿。
白ゆきが・所かまわず、降りしきるので、岩の上にも・井は山ばの頂上でも、咲く花と、見て思う――心におかしきところ。
若者は、ところかまわず、白ゆき降りしきるので、いはほにも・井はの山ばの頂上にも、白いお花が咲くと見る、と詠んだ歌のようである。人の性(さが)は、季節ヤ時期も無ければ、所もかまわない、触れ合えば花が咲く。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)