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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など出来ない、まして、歌を愛でたり貶したりするのは、必ず的外れとなる。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (339)
としのはてによめる 在原元方
あらたまの年のをはりになるごとに 雪もわが身もふりまさりつゝ
(年の果てに詠んだと思われる・歌……疾しの果てに詠んだらしい・歌)もとかた
(あらたまの年の、終わりになる毎に、雪も降り、わが身も古り増さりつづく……新玉の、疾しのお張りになる毎に、おとこ白ゆきも降り、我が身も振り増さり、つつ・筒)。
「あらたまの…年の枕詞…新玉の…復活し新たになった玉玉」「年…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「をはり…終り…お張り」「ふり…古り…老い…降り…振り」「つつ…反復する意を表す…継続する意を表す…詠嘆を表す…筒…中が空っぽ…おとこの自嘲的表現」。
年末の雪景色とわが身の気色――歌の清げな姿。
唯の筒より復活したお張り、その度毎に、ますます振り、白ゆき降らし続け、筒となる――心におかしきところ。
季節は巡り、身も反復するさまを詠んだ歌のようである。
この歌を、明治の国文学者金子元臣は、「一首の意は、年の終わりになる度毎に、降り増さり増さりするが、自分の身もふるさが増さり増さりしてサ、次第に、年寄って行くは、あゝ情けない事よとなり」と解釈した。現代の国文学的解釈を見ても、ほとんど変わらない。このような平安時代の歌論や言語観を全て無視した解釈が、江戸時代の国学から始まって現代の国文学まで連綿と続いているのである。
鎌倉時代に世は変わり、歌も歌の家々に埋もれ始め、やがて、歌の真髄は秘事、秘伝となり、「古今伝授」と称され一子相伝となると、数代で伝授そのものが朽ち果てたようである。江戸の国学者は伝授の切れ端など無視するのはいいが、平安時代の歌論や言語観をも無視して、独自の解釈を始めた。香川影樹、賀茂真淵、本居宣長らビックネーム達である。金子元臣らは、それに一部批判を加えながらも、その範中から一歩も出られない、現代の国文学的解釈も同じである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)
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