■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (338)
ものへまかりける人を待ちて、しはすのつごもりに
よめる みつね
わが待たぬ年はきぬれど冬草の かれにし人はをとづれもせず
(もの詣でにでも出かけた人を待っていて、師走の晦日に詠んだと思われる・歌……どこかへ行った女を待っていて、としの暮れに詠んだらしい・歌) 躬恒
(我の待っていない新年は、来てしまうけれど、都を・離れたあの女人は便りも訪れもしない……わが待たぬ、疾し時は来てしまうけれど、心冷えた女の情の涸れた人は、お門、擦れもせず)。
「年…新年…とし…疾し…早過ぎる…おとこのさが」「きぬ…来た…来てしまう…自然にきてしまう」「冬草の…かれるの枕詞…草の言の心は女…情などの冷えた女」「かれにし…枯れた…離なれた…(涙や愛情などが)涸れた」「人…知人…女人」「をとづれ…訪れ…音沙汰…便り…おと擦れ」「お…おとこ」「と…門…おんな」。
京を離れた人を思って、年の暮れに詠んだ歌――歌の清げな姿。
早すぎる果て方に、情冷え心離れ涸れた吾女が、おと擦れないさま――心におかしきところ。
歌は、姿清げで、妖しく、絶妙であると言えそうである。
優れた歌の定義を述べた藤原公任が撰んだ歌を一首聞いてみよう。四条大納言撰「和歌九品」。
上品上、これは言葉たへにして、余りの心さえあるなり。
春立つといふばかりにやみ吉野の 山もかすみてけさは見ゆらん
(立春というだけでかな、み吉野の山も、春霞にかすんで今朝は見えるのだろう……春情断つというだけでかな、見好しのの好しのの山ばも、目も霞んで今朝は見えるのだろう)。
立春というだけでかな、み吉野の山も、春霞にかすんで今朝は見えるのだろう――歌の清げな姿。
春情断つというだけかな、見好しのの好しのの山ばも、目もかすみ、つとめた今朝は見えるのだろう――心におかしきところ。
「拾遺和歌集」巻第一春、巻頭を飾る壬生忠岑の歌である。
公任の優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし。こと多く添えくさりてやと見ゆるがわろきなり。一筋にすくよかになむよむべき」に適っている。
「すくよかに…実直に…のびのびと…ゆるぎなく」。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)