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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。歌の「心におかしきところ」に、人の本音が顕れる。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (340)
寛平御時后宮歌合の歌 よみ人しらず
雪ふりて年の暮れぬる時にこそ つゐにもみぢぬ松も見えけれ
(寛平御時、后宮の歌合の歌) (よみ人しらず・歌合に提出された匿名の女歌として聞く)
(雪降って、年が暮れてしまう時によ、ついに紅葉しない松も見られることよ……白ゆき降って、疾し時の果ててしまう時によ、ついに・津井に、も見じしない、待つ女がまだ見えることよ)。
「雪…逝き…しらゆき…おとこ白ゆき」「とし…年…疾し…早過ぎる…おとこのさが」「くれぬる…暮れてしまう…果ててしまう」「こそ…特に強く指示する意を表す」「つゐに…つひに…終に…津井に…おんなにおいて」「もみぢぬ…紅葉しない…常禄の…変わりない…長寿の…も見じしない」「見…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す…つもりのない」「松…言の心は女…待つ…女」
これらは、俊成のいう「歌言葉の浮言綺語に似た戯れ」であり、貫之の云う「言の心」である。「土佐日記」の小松は亡き女児を表す。
雪降る年末、常緑の松の風情――歌の清げな姿。
おとこ白ゆきふり、早過ぎる時の果ててしまう時によ、ついに・津井に、も見じぬ・も見ないと言わない、待つ女がよ、まだ見ることよ――心におかしきところ。
おとこのはかない性と、おんなの性との違いを、あらためて詠んだ歌のようである。
「歌合」で、これを右歌にして、おとこ誇り(男の我が物自慢)らしい左方の歌と合わされる(対峙される)と、両歌の「おかしさ」が増すだろう。合わされたのは、(326)藤原興風の歌である。聞き直してみよう。
浦ちかくふりくるゆきは白浪の 末の松山こすかとぞ見る
(浦近く降りくる雪は、白浪が、陸奥のあの・末の松山、越すかと見えている……女のうら近くにふり繰る、わが白ゆきは、白並みが越すに越せないとかいう、すえの待つ女の山ば越すかと、見て思う)。
「浦…言の心は女…うら…みえないところ」「くる…来る…繰る…繰り返す」「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき」「浪…並み…汝身」「汝…な…親しいものをこう呼ぶ」「末…果て」「松…言の心は女…長寿…常磐…待つ」「山…山ば」「見る…目で見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。
陸奥の浦、白浪うち寄せる、末の松山の雪景色――歌の清げな姿。
女のうら近くに触れ降り繰り返す、ゆきは、白なみが・わがおとこが、果て待つ女の山ば越すかと、見て思う――心におかしきところ。
やはり、この歌は「我褒めの歌」だったようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)