帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (340)雪ふりて年の暮れぬる時にこそ

2017-11-27 19:09:15 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。歌の「心におかしきところ」に、人の本音が顕れる。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌340

 

寛平御時后宮歌合の歌        よみ人しらず

雪ふりて年の暮れぬる時にこそ つゐにもみぢぬ松も見えけれ

(寛平御時、后宮の歌合の歌)      (よみ人しらず・歌合に提出された匿名の女歌として聞く)

(雪降って、年が暮れてしまう時によ、ついに紅葉しない松も見られることよ……白ゆき降って、疾し時の果ててしまう時によ、ついに・津井に、も見じしない、待つ女がまだ見えることよ)。

 

「雪…逝き…しらゆき…おとこ白ゆき」「とし…年…疾し…早過ぎる…おとこのさが」「くれぬる…暮れてしまう…果ててしまう」「こそ…特に強く指示する意を表す」「つゐに…つひに…終に…津井に…おんなにおいて」「もみぢぬ…紅葉しない…常禄の…変わりない…長寿の…も見じしない」「見…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す…つもりのない」「松…言の心は女…待つ…女」

これらは、俊成のいう「歌言葉の浮言綺語に似た戯れ」であり、貫之の云う「言の心」である。「土佐日記」の小松は亡き女児を表す。

 

雪降る年末、常緑の松の風情――歌の清げな姿。

おとこ白ゆきふり、早過ぎる時の果ててしまう時によ、ついに・津井に、も見じぬ・も見ないと言わない、待つ女がよ、まだ見ることよ――心におかしきところ。

 

おとこのはかない性と、おんなの性との違いを、あらためて詠んだ歌のようである。

 

「歌合」で、これを右歌にして、おとこ誇り(男の我が物自慢)らしい左方の歌と合わされる(対峙される)と、両歌の「おかしさ」が増すだろう。合わされたのは、(326)藤原興風の歌である。聞き直してみよう。

浦ちかくふりくるゆきは白浪の 末の松山こすかとぞ見る

(浦近く降りくる雪は、白浪が、陸奥のあの・末の松山、越すかと見えている……女のうら近くにふり繰る、わが白ゆきは、白並みが越すに越せないとかいう、すえの待つ女の山ば越すかと、見て思う)。

 

「浦…言の心は女…うら…みえないところ」「くる…来る…繰る…繰り返す」「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき」「浪…並み…汝身」「汝…な…親しいものをこう呼ぶ」「末…果て」「松…言の心は女…長寿…常磐…待つ」「山…山ば」「見る…目で見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

陸奥の浦、白浪うち寄せる、末の松山の雪景色――歌の清げな姿。

女のうら近くに触れ降り繰り返す、ゆきは、白なみが・わがおとこが、果て待つ女の山ば越すかと、見て思う――心におかしきところ。

 

やはり、この歌は「我褒めの歌」だったようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)