帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (336)梅の香のふりおける (337)雪降れば木ごとに

2017-11-17 19:57:48 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌336

雪のうちの梅の花をよめる           紀貫之

梅の香のふりおける雪にまがひせば たれかことことわきておらまし

(雪のうちの梅の花をよめる……白ゆきのうちのおとこ花を詠んだらしい・歌)きのつらゆき

(梅の香が、降り掛かった雪にまじりまぎれれば、誰が、これは異なる、これの如しと分けて、枝折るだろうか……梅の香が、降ったおとこ白ゆきにまざったならば、誰が、毎毎、分別して、折り逝かせるだろうか・女は無我夢中)。

 

「梅の香…梅の花の香り…おとこ花の香り」「梅…木の花の言の心は男」「ことこと…事事、毎毎、異異」「折る…逝く…果てる…逝かせる」。

 

梅の香りが、枝に降り掛かった雪に移り、まぎれれば、誰が、それはそれと、分別して折れるだろうか・雪降る中の梅の木の情景――歌の清げな姿。

おとこ白ゆきにまみれたものを、梅が香か、白ゆきが香かと、毎毎、分別してだれが逝かせ逝くだろうか・吾女は無我夢中よ――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌337

雪の降りけるを見てよめる        紀友則

雪降れば木ごとに花ぞ咲きにける いづれを梅とわきておらまし

(雪が降ったのを見て詠んだと思われる・歌……おとこ白ゆきがふったのを見て詠んだらしい・歌) きのとものり

(雪降れば、木毎に白い花が、咲いたことよ どれを梅と分けて折ったものだろうか……白ゆきふれば、この枝毎に、お花が咲くことよ、どちらのおを、梅と分別して、女は折るだろうか)

 

「雪…おとこしらゆき」「木…言の心は男」「花…木の花…おとこ花」「まし…とまどい…したものだろうか…推量…だろう」。

 

梅の木に雪の降った情景――歌の清げな姿。

おとこ白ゆきふれば、この小枝毎に、お花が咲くことよ、どちらのおを、梅と分別して、吾女は折るだろうか――心におかしきところ。

 

二首は「言の心」が同じ「梅の花」と「雪」の歌。「心におかしきところ」に、妖しさ(生々しさ)の無い歌をあえて詠んだようである。

 

仮名序に「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるにより、あだなる歌、はかなき言のみいで来れば、色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり」とある。

古今集編纂前の、歌の現状を嘆いて、歌は「色に尽きた(余情の色好みのおかしさに尽き果てた)。あだ(浮ついた好色・婀娜)な歌、はかない(その場限りの空しい)歌言葉ばかり出て来たので、色好みの家に埋もれ、(歌の真髄が)人知れぬことになって、まめなる所(真面目な公の場)には、花薄穂に出だすべき(薄ペらで秀いでたものとして差しだすべき)言葉ではなくなったのである」。貫之と公任の歌論で、歌を解いてきた今は、仮名序の難解な部分を、このように読む事ができる。

 

おとなの色好み同好会のような各種の歌合の歌と共に「自らの歌をも奉る」ことになったわけもこの辺にあるのだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (334)梅の花それとは (335)花の色は雪に

2017-11-16 19:07:46 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 平安時代の
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌334

(題しらず)            (よみ人しらず)

梅の花それとは見えず久方の 天霧る雪のなべてふれゝば

           この歌、ある人の曰く、柿本人麿が歌也。

(梅の花、それとは見えず、久方の天空、濃霧のように雪が全面に降ったので……男木の花・我れ、それとは見ることできず、久堅の吾女きる、おとこ白ゆきが、全て降ってしまったので・身も心も萎え)。

           この歌、或る人が言うには、柿本人麿の歌である。

 

「梅の花…木の花…男花…はる待つおとこ花」「それ…冬の男花…罪人・流人…おとこ花」「久方の…枕詞…久堅の(万葉集の表記にある)…盤石の」「天霧る…四面五里霧の中…あまきる…女きる…吾女被る…吾女限る」「それとは見えず…それとは世の人々には見えない…それとして見ることは出来ない」「見…覯…まぐあい」「雪…おとこ白ゆき」「なべて…全て」「ふれれば…降ってしまったので」「れ…り…完了した意を表す」。

 

白梅の花咲いても、それとは見えず、天空濃霧のように白雪が全面に降った情景――歌の清げな姿。

おとこ花、それとは見得ない、盤石の吾女きる、おとこ白ゆきがすべて降ってしまったので・――心におかしきところ。

 

流人とされた時、目の前も頭脳も真っ白の、男の心情を詠んだ歌のようである。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌335

梅の花に雪の降れるをよめる      小野篁朝臣

花の色は雪にまじりて見えずとも 香をだにゝほへ人のしるべく

(梅の花に雪が降ったのを詠んだと思われる・歌……男木の花に白ゆき降ったのを詠んだらしい・歌) おののたかむらあそん(流人となった人・人麿を詠んだのか、自身の事を詠んだのかなわからない)。

(花の色彩は、白雪にまじりて見えずとも 香だけでも匂え、人々が知ることができるように……おとこ花の気色は、白ゆきにまじり、見得ずとも、香りだけでも匂え、女が、知り・汁ることができるだろう)。

 

「花…木の花…梅の花…男花…おとこ花」「雪…おとこ白ゆき」「見えず…目に見えない…見ることができない」「見…覯…まぐあい」「人…人々…女」「しる…知る…汁…にじむ…うるむ」「べく…べし…することができるだろう…するはずだ」。

 

花の色彩は、白雪にまじりて見えずとも 香だけでも匂え、人々が知ることができるように――歌の清げな姿。

おとこ花の気色は、白ゆきにまじり、見られなくとも、香りだけでも匂え、妻女が知り、汁るだろうよ――心におかしきところ。

 

流罪は誰にも知らされず、闇から闇へ粛々と行われ、その人が、都から忽然と居なくなるものらしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (332)あさぼらけありあけの(333)消ぬがうへに又も

2017-11-15 19:33:32 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌332) 

 

大和の国にまかれりける時に、雪のふりけるを見て

よめる                坂上是則

あさぼらけありあけの月と見るまでに よしのゝ里にふれる白雪

(大和の国にでかけた時に、雪が降っていたのを見て詠んだと思われる・歌……山途のくにに行った時に、白ゆきが降ったのを見て詠んだらしい・歌)さかのうへのこれのり

(ぼんやりと夜が明ける頃、大空に残る月と見るほどまでに、吉野の里に降った白雪よ……うすぼんやりする朝方、つとめて未だ残る月人壮士と見るほどに、好しのさ門に、降ったおとこ白ゆきよ)。

 

「あさぼらけ…朝ぼらけ…ほのぼのとした夜明け…浅ぼらけ…少しぼやっとした気はい」「ありあけの月…有り明けの月…夜が明けても空に残る月」「月…大空の月…月人壮士…つき人をとこ…おとこ」「見る…目で見る…見て思う」「見…覯…媾…まぐあい」「までに…状態の極端な事を表す…感動の意を表す」「よしのの里…吉野の里…所の名…名は戯れる。好しののさ門、好きおんな」「白雪…白ゆき…体言止めで余情がある…おとこ白ゆきよ」。

 

ぼんやりとした夜明け、大空に残る月が照るのかと思うほどに、吉野の里に降った白雪よ――歌の清げな姿。

貴女を・あの山ばに送り届けるべくつとめて、薄ぼんやりした明け方、残りの月人おとこは、と思えるほどに、好しのさ問に降りつもった、わが白ゆきよ――心におかしきところ。


  山ば途中で、在り明けの尽きが、おとこのさがの限界のようである。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌333

 

題しらず             よみ人しらず

消ぬがうへに又もふりしけ春霞 たちなばみ雪まれにこそ見め

(題知らず)             (詠み人知らず・匿名で詠まれた女歌として聞く)

(消えない上にに又も頻りに降れ、春霞が立てば、み雪は稀にしか見られないでしょうから……消えないうちに、そのうえに又も頻りに、触れ・降れ、春情が済み、断ったならば、貴身のゆき、稀にしか見られないでしょうが)。

 

「ふりしけ…頻きりに降れ…絶え間なくふれ」「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「たちなば…立ったならば…断ったならば」「み雪…御雪…見ゆき…身ゆき…貴身のおとこ白ゆき」「まれに…稀に…たまに」「見め…見るだろう」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

雪よ、もっと降れと愛でて、止むを惜しみたくなる情景――歌の清げな姿。

消えない上にまたも、頻りに触れ降らしてよ、春情澄み、張るが済んだならば、貴身の白ゆき、稀にしか見られないでしょうが――心におかしきところ。


  この歌が、歌合などで、是則のような男歌と合わされるとさらに、おかしさが増すだろう。

 
 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (331)冬ごもり思ひかけぬを木の間より

2017-11-14 19:29:39 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と、先ず知ることだという。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌331

 

雪の木に降りかかれりけるをよめる    貫 之

冬ごもり思ひかけぬを木の間より 花と見るまで雪ぞふりける

(雪が木に降り掛かっていたのを詠んだと思われる・歌……白ゆきが、男木に降り掛かっていたのを詠んだらしい・歌)つらゆき

(冬ごもりに、思いがけず、木の間より、花かと見るほどに雪が降ったことよ……身も心も・冬ごもりなのに、思いがけず、この間より、お花かと見るほどに、白ゆきが、降ったことあったなあ)。

 

「ふゆごもり…冬籠り…草も木も人も活動を止めること」「を…感嘆・詠嘆を表す…お…おとこ」「木…木の言の心は男…こ…小…股…此れ」「花…木の花は男花…梅花など…おとこ花…おとこ白ゆき」「ける…けり…過去回想…であった…詠嘆…だったことよ」。

 

里で冬籠りしていると、思いがけないことに、木の間より、花かと見えるほどに、白雪降ったことよ――歌の清げな姿。

冬籠りでも・眠っている時でも、思いもしないのに、此の間より、花と思えるほどに、白ゆき降ったことがあったなあ――心におかしきところ。

 

これも、はかないおとこのさがの一つだろう。

 

 

仮名序」を読むと、柿本人麿と山部赤人を仰ぎ見て褒め讃えている。ならの帝の御時「正三位柿本人麿なむ歌のひじりなりける」、「山部赤人という人ありけり。歌に、あやしく、たへなりけり」などとある。貫之、公任、俊成らの解く和歌の表現様式は、
人麿と赤人が確立し実践しからだろう。その歌の例を、仮名序より選んで聞く。


                                              柿本人麿

ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく舟をしぞ思ふ

(ほのぼのと明けゆく、明石の浦の朝霧どきに、島隠れゆく舟を惜しいと見て思う……ほのかに夜が明けゆく、厭かしの心の浅限りに、肢間かげに隠れ逝く夫根を、惜しいとぞ、思う)。

 

「あかし…明石…地名…名は戯れる。夜を明かし、飽きし、厭きし」「浦…言の心は女…うら…裏…心」「朝霧…浅切り…浅限り…薄情な終わり」「島…しま…肢間…股間」「かくれゆく…隠れて行く…隠れ逝く…死にゆく」「舟…ふね…夫根…おとこ」「をしぞ…お肢ぞ…惜しいぞ…愛着あるぞ…執着あるぞ」。

 

流されゆく人の舟より見た、明石の浦の朝霧の中、島陰に隠れゆく舟の景色――歌の清げな姿。

性愛の果ての惜しまれる情況――心におかしきところ。

流人の、己の命、都に残した妻、歌詠みとしての地位などに対する愛着・執着が歌の心のようである。

 

山部赤人

和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ 芦べをさして鶴鳴きわたる

(和歌の浦に、潮満ち来れば,干潟が無くなるので、芦辺をさして、たづ・鶴、鳴き渡る……わかい女のうらに、肢お満ちきたのに、片男波・片お並み、肢部を指して、たづ・多津、泣きつづける)。

 

「わかのうら…和歌の浦…若の浦…若い女の心…若い女の裏」「浦…言の心は女…うら…心…裏…見えないところ」「潮…しほ…肢お」「ば…ので…のに」「潟をなみ…干潟が無くなるため…片男波…片男汝身…片お並み」「片…中途半端な…不完全な」「波…なみ…汝身…並み」「な…汝…親しきもの」「芦辺…あしべ…脚部…肢部…悪し部」「さして…目指して…指さして」「たづ…鶴…鳥の言の心は女…多津…多情なおんな」「鳴き…泣き」「わたる…渡る…つづく」。

 

和歌の浦、潮と干潟と鶴の風景――歌の清げな姿。

わかのうらに、肢お満ち来たのに、はかない並みのおとこ、あし部をさして多づ啼きつづく――心におかしきところ。

エロスには生々しさと、滑稽さもありそう。

 

人麿・赤人において、公任のいう「心深く、姿清げに、心におかしきところ」のある、表現様式は確立されてあった、かつ最高峰に達していた。

仮名序は、人麿を、歌のひじり(歌の達人・歌の道を教える高徳の人)と称し、赤人の歌を、あやし(妖しい・なまめかしい・妖艶)とか、たへ(妙・細部まで巧み・絶妙)とか評したのである。


帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (329)ゆきふりて人も(330)冬ながら空より

2017-11-13 20:12:36 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

公任は、歌の様(歌の表現様式)を捉えて「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし(新撰髄脳)」と優れた歌の定義を述べた。和歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等が、表現されてあったが、エロスは中世に歌の家の秘事・秘伝となって埋もれたままである。今は、歌の「清げな姿」だけが見えている。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌329

 

雪のふれるを見てよめる      凡河内躬恒

ゆきふりて人も通はぬ道なれや あとはかもなく思きゆらむ

(雪が降るのを見て詠んだと思われる・歌……おとこ白ゆきが降るのを見ていて詠んだらしい・歌)(おほしかふちのみつね)

(雪が降って、人も通わない道なのか、跡かたもなく、貴女も我への・思い火、消えているだろう……おとこ白ゆき降って、だれも通わない路になったかな、後、頼りなくて、貴女は我への・思い火、消えているのだろう)。

 

「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき」「人…人々…男」「道…路…通い路…おんな」「や…疑いの意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「あとはかもなく…跡かたもなく…行方もわからず…頼りなくも」「思…思ひ…思火…熱い思い」「らむ…推量…原因の推量」(これらが言の心であり、戯れの意味である)。

 

雪降って人も通わない道なのかな、跡かたもなく・あの後、行く方も知らず、貴女も我への・思い火、消えているだろう――歌の清げな姿。

おとこ白ゆき降って、だれも通わない路になったかな、後、頼りなくて、貴女は我への・思い火、消えているのだろう――心におかしきところ。

 

その後を、うしろめたく思う、おとこの心を詠んだ歌のようである。

 

 

古今和歌集  巻第六 冬歌330

 

雪の降りけるをよみける       清原深養父

冬ながら空より花の降りくるは 雲のあなたは春にやあるらん

(雪が降ったのを詠んだ・歌……おとこ白ゆき降ったのを詠んだ・歌)(きよはらのふかやぶ)

(冬なのに、空より、花が降りくるのは、雲の彼方は、春であろうか……もの揺れながら、そのような・み空より、おとこ花が降り繰り返すのは、わが・心雲の彼方には、春の情があるのだろうか)。

 

「冬…季節の冬…ふゆ…振ゆ…揺れうごく」「空…天空…(旅の)そら…境遇…うわの空…気もそぞろなさま」「花…雪…この花…おとこ花」「来る…来る…繰る」「雲…心雲…煩わしくも心に湧き立つもの」「春…季節の春…心の春…春の情」。

 

冬なのに天空より、白い花が降りくるのは、雲の彼方の季節は、春であろうか――歌の清げな姿。

揺れ動くのみになったみ空より、白いお花が降りくるのは、わが・心雲の彼方には、次なる・春の情があるのだろうか――心におかしきところ。

 

揺れ動くのみのおとこの将来、希望的に推量した歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)