はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●長谷川等伯展「等伯と一門の精鋭たち」

2016-05-22 | Art

石川県の七尾美術館「平成28年度春季特別展 長谷川等伯展~等伯と一門の精鋭たち~」

2016.4.23~5.29

 等伯のみならず、等伯の養父の長谷川宗清、等伯の息子たちや弟子の作品も。七尾のお寺の所蔵の仏画など、等伯が生まれ育った現地ならではの充実の展示だった。

第一展示室は、晩年の等伯の作品

「山水図襖」京都市圓徳院 1588(51歳)(部分)

もとは三玄院の襖で、等伯は勝手に上がり込んで制止を振り切り、一気に描いたのだとか。笹や芝が下の方にのみ描かれて、唐紙の桐の模様と調和している。この桐の模様を見ていたら、こう描きたくてたまらなくなったんでしょうか。

 

「松竹図屏風」七尾美術館 (50~60代)

竹がまっすぐ、潔く、勢いが。心に雑念や迷いがあってはひけない筆。奥行き感を出そうとしている。左からするりと流れるような曲線を描いて画面にすべりこんでくる松の枝と、垂直な竹、何度も目が追ってしまう。

 

「猿公図屏風」七尾美術館(50~60代)

剥落が多く状態は悪いですが、この猿公図と上の松林図は昨年発見されたのだそう!。

そういえば年始に東博で猿の絵がたくさん展示されていましたが、みんなこの東南アジアにしかいないテナガザルだったな。ニホンザルは森狙仙くらいで。

南宋の牧谿の猿を参考にした「牧谿猿」。当時南宋にはテナガザルがいたのかな?珍しかったのかな?

 

「水辺童子図襖」京都市両足院(63歳ごろ) 忘れられない作品。

小さい子が本当に子供らしい。でも寂しい。

立派に描こうとかではなく、描きたい世界を描いた、そんな感じ。この童子は、晩年の作に時折登場し、あの世とこの世の橋渡し、または若くして亡くなった息子の久蔵を重ねて描いた、といわれている。

激しい水の流れ、角の鋭い岩場で、一人の子はどこかに向かって微笑みかけているけれど、その相手や対象物は描かれていない。もう一人の子もどこかわからないところを見ている。風のなかに微かに親の声を聴いたのかも、と切なくなる。たっぷりとられた余白とともに、少し不思議な情景でもあり、確かにこの世ならぬところにいる子供たちなのかも。

 

一番印象深かったのは「烏梟図屏風」

烏をこんなに存在感たっぷりに黒々と描く屏風。等伯は動物を描くことは多かったそうですが、この絵は趣が他とは違い、異様に感じました。

七尾に行った後に、川村美術館の「烏鷺図」も見ましたので、合わせてそちらの日記に書きました。


第二展示室は「故郷ー能登の長谷川一門」。

能登での、等伯の養父とその経脈は興味のあるところ。

等伯の養父の宗清は、染物業者でありながら、絵仏師としても多くの絵が確認されているそうです。阿部龍太郎「等伯」では、人格高く描かれ、その絵を見たいと思っていたので、幸運でした。

宗清では、「日蓮聖人像」が2点、「涅槃図」一点が展示されていました。

技術的なことはよくわかりませんが、輪島市成隆寺の「日蓮聖人図」1554(47歳)には、宗清の深い精神性も感じるような気がしました。

 

等伯が七尾時代、絵師になって間もない20代に描いた「日乗上人像」。

宗清の絵と構図、布のしわまで似た作品。宗清から細やかに学んでいたのでしょうか。上人の表情からは、まだまだ等伯の若さを感じました。等伯にとって宗清は大きい存在だったのでは、と想像したり。

 

「涅槃図」は、宗清と等伯1566(29歳)のものが並んで展示されていました。(↓は宗清)


宗清のものは、長谷川無分(長谷川派の祖。宗清の父か?)の長壽寺本に誠実に再現したものということです。

等伯の涅槃図は、それに沿いながらも、細部にちょこちょこアレンジを加えていて、探すのも楽しく興味深かった。

特に右下のあたり、大きめの虎とピューマ?が加えられれていて、全体のバランスも良くなったように思えます。各動物も、より生き生きとリアル感が増したような。お釈迦様の死を嘆き悲しんでいます。

 等伯の涅槃図には宗清の落款も押され、宗清がサポートしたことがうかがわれる、と解説に。当時宗清は62歳。等伯が自分の踏襲だけでなく、そこから成長していくのを、あたたかく見守っていたようにも思えます。

 

等伯の息子、長谷川久蔵と伝えられる作品を見られたのも貴重でした。

「祇園会図」(部分)


人物の顔つきや丁寧に描かれた町の様子からも、久蔵の人がらは穏やかだったのかなと想像しました。


この展示室では「長谷川等誉」という絵師の涅槃図や日蓮聖人図などが展示されていました。宗清と似た構図です。能登で活躍した長谷川派の絵師のようですが、等伯とのつながりなど詳しくはまだわかっていないそうです。

 

第三展示室は、「継承ー等伯を継ぐもの」。

長男の久蔵は、才能のある絵師だったようですが早世。

次男の宗宅「秋草図屏風」は、萩の葉がリズミカルでかわいらしく、右のススキの動きもも好きだと思いました。過剰なものも描かれていません。宗宅も才能を感じますが、残念ながら等伯の死後早くに亡くなったそうです。

 

「山杉図屏風」も好きな作品。6曲一双のうちの右隻のみの展示。

どこか現代の絵のような印象を受けました。杉の木の形は、ヨーロッパの風景のようにも見えたり。

右から左へと、季節が春から夏へと移っています。枯れていた木が萌ぎはじめ、緑濃くなったころに、滝の水流でさっと爽やかな気分に。

落款はありませんが、宗宅の作という説が有力のようです。この二枚の絵からは、宗宅の人柄もしのばれる気がします。


次の息子の宗也「竜虎図屏風」は、どことなくマイルドな龍。座り方もしなっている虎。優しい人柄だったのでしょうか。そのためか、弟に出し抜かれ?等伯の継承者は、弟の左近ということになっているそうです。

 

その左近の「16羅漢図」には、若さと気性の強さが感じられるような。等伯の線を意識しているようです。でも少し、上滑りな感じもしないでも・・。

 

この美術館には、東博の「松林図」の精巧なレプリカがあり、その前にちょうどよくソファを置いてくれています。国立博物館の展示では混雑していますが、こちらでは、しんとしずまりかえった空間でひとり占め。

松と松の間の余白のところ、東博で見たときには、たいへんかすかながらも刷毛目が見えた気がしたのですが、こちらではなにもないように見えました。自分の記憶があいまいなのか、それとも東博のライトがすごいのかな?。

細部はともかく、誰の人影もなく、少し離れたところからゆっくり見られたせいか、今回は松の濃淡に見とれました。靄の中、ときに現れる濃い松は、等伯の感情の極みのように思いました。

 

美術館のビデオはいろいろあり、全部見たかったけれど、時間がなくて後ろ髪をひかれつつ、美術館を後にしました。

七尾城跡や、お寺のあるエリアも行きたいところでしたが、二時間に一本の特急電車を逃すことはできず、七尾駅の周りだけ少し歩いてみました。

等伯が生まれ育った七尾は、今は静かな町でした。通りには、あまり人はいませんでしたが、古い民家も残り、趣がありました。

海まですぐなので、日本海を見てきました。満潮で、こちらに向かってどんどん潮が満ちてきていて、ちょっと怖いほど。迫力でした。

駅はこじんまり。

  

GWには多くの人が訪れたそうです。毎年GW前後に等伯にちなんだ展示を行っているようですので、来年も来たいと思います。

 


●千葉市美術館「吉田博展」

2016-05-22 | Art

千葉市美術館 「生誕140年 吉田博展」 2016.4.9~5.22

先日行ってきました。
吉田博(1876-1950)を知りませんでしたが、水彩画がとても美しく、油彩、版画と多彩。
ダイアナさんの執務室に掛けられていたとか、フロイトが愛したとか、海外で評価が高いのに、日本で有名でないのが不思議なほど。

水彩にはとくに見とれました。

感じてはいるけどとりたてて認識しない採光、体にまとう空気を、可視化しているような。

夕暮れの色はこんなだった。朝の光は、こんなに澄んでいた。靄はこんな感じで立ち上っている。そういうものを、手につかめる形で絵にしている。

そして、もし自分が外国人旅行者だったらきっと目を留めるであろう日常の光景を絵にしているので、その美しさを再認識。


彼は、旅する画家、切り拓き戦う画家、折れない画家。その人生は、映画が一本作れそう。

久留米生まれ。絵を見込まれて、図画教師の家へ14歳で養子に。京都での修行、さらに東京の小山正太郎主宰の不同舎に修行の場を切り拓いたのが、17歳。

不同舎調のスタイルがあるようで、当時の鉛筆画やデッサンを見ると、吉田博の絵の基礎がここにあると感じる。先輩弟子の小杉放庵が「絵の鬼」と評するくらいだから、どれだけ打ち込んだんだろう。10代での基礎がしっかりしているから、その後の彼もあるのだと思いました。

「村里の子供たち」1894-95  心にすうっと入ってくるよう。

当時は水彩画ブーム。イギリス由来の、外国人が見た視線のような風景。それがとても心地よい。

 18歳にして養父を亡くし、一家を養う立場となる!生活費は、横浜のアメリカ人に絵を売って稼ぐ。けっこう売れていたとか。

そして23歳で渡米。洋画界で幅をきかせる黒田清輝一派への対抗。官費でフランス留学する彼らに反発し、自費でアメリカへ。

借金をして買った片道切符でデトロイトに降り立って向かったのは、後にフリーア美術館を作るフリーア邸。横浜で出会っていたというのが驚き。

フリーアが出張中で会えない不運。が、困難を倍返しにする彼の強さ。作品を持ち込んだデトロイト美術館で、館長が感激し、いきなりの展覧会開催。サラリーマン13年分くらいの売り上げ。その後も各地で大売り上げ。

途中渡ったパリでは、浅井忠、黒田清輝、和田英作らにも会っているそうですが、「皆、平ベタだ。おかしな色だ。殊に黒田、久米初めダメだ」と日記に。ヒロシ、強い。

帰国後の作品は、それまでの作品の雰囲気は残しつつも、もっとひかれる作品だった。

「土手の桜」1901-03

「霧の夕陽」1903

「霧の農家」1901-3

 

そして二度目の外遊は、義妹の16歳のふじをとともに。兄弟展は大成功。

今回は、ボストン郊外の芸術村で二人、制作に打ち込む。

油彩の「チューリンガムの黄昏」1905

ポツンとした灯り。暮れているけれどまだ雲が見える、この曖昧な時間。眼が慣れてくると草原のやわらかい感じも見えてくる。

 

フロリダの「ポンシデレオン旅館の中庭」1906

フロリダの暖かさと眩しいくらいの陽光。

彼の絵は、日本でも海外でも、温度と彩度と湿度が手の中に感じられる。

さらにロンドン、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、スペイン、モロッコ、はてはエジプトまで。この時代にスフィンクスを描いた日本人がいるって驚き。

3年あまりの旅。

帰国後、黒田清輝らの白馬会と、吉田博らの太平洋画会(名前からして官費でフランス帰りの黒田らに対抗)との対立。黒田を殴ったとかいうのは、このころの話のよう。

油彩も描いたようですが、彼の水彩画、特に銚子を描いたこの静かな作品は見入ってしまいました。

「新月」1907

すぐに移ろうであろうこの時間と、ほのかに灯った民家の灯り。この時間て、どうしてこんなに美しいと思うんだろう。

 

「月見草と浴衣の女」も月見草が幻想的。

外国を旅した彼の外国人目線は、美しいもの、美しい時間に、とてもよく気づいていて、日常すぎて鈍感になっている私にも、しんしんと伝えてくる。

それが可能なのは、彼の絵のうまさゆえなのでしょう。彼は「むまい」(うまい)ということをとても重視していた。絵の鬼と言われ培った力量は、昨日今日の画家とは比べようもないですが、けしてそれだけでもない。

不同舎で学んだ姿勢か、上っ面だけでなく描くものと自然の中に、自らが入っていることを大切にしていたように思えた。

 

この後、穂高や槍ヶ岳などの高山の絵がつづきます。

それも本格的に登山に打ち込んだこその絵。歩き、壁を登り、野営をはり、何日も吹きさらされながら朝に夕に時々刻々とおりなす変化。

「鷲羽岳の野営」1926は、焚き火の灯りにも、その実感を感じたような。


山では「三千米」1938も印象深い作品。

 

この前には、関東大震災で罹災した太平洋画会を救うため、1923年、三度目の渡米。震災の3か月後という行動力。

絵はあまり売れなかったけれど、転んでもただでは起きない彼の強さ。現地でもてはやされていた浮世絵版画の質の低さに驚き、自分ならもっといいものが作れるのに、と自ら製作に乗り出す。49歳のチャレンジ。

まっしぐらで、負けん気の強さ。それがまた、中途半端でなく、凄い。

一般的な色絵は10回位色を擦り重ねるそうですが、彼は30回以上、100回のものもあったとか。

そして版画でも、時間の移り変わりが面白い。

同じ版木でする、瀬戸内海の「帆船」1926のシリーズは、全部で6枚。見比べると面白い。

午前は、空気が澄んでいる

靄がかかったら、向こうの舟が見えなく・・

夕は、逆光が美しく、海も空も茜色に溶け合う

 

そしたら夜は…

こうきたか。船にもポツリと小さな灯り。

吉田マジック。

夜の美しさの秘密、朝のすがすがしさの秘密。その時間に、自分が何を見て何を見ていないのか、時々刻々と変わる変化の秘密を、彼が時間をかけて抽出したエッセンス。

同じ版木で擦り分けたシリーズは、大正から、さらには昭和には入り60を過ぎて回った世界の光景まで、いろいろあり、どれも感嘆。

マタホルン山、スフィンクス、カンチャンジェンガ  、タジマハールなど。だんだん、朝がこうなら夜はどう来るか?を予想するのが楽しくなった。

 

彼自身にも再現不可能といわしめたインドの一枚は、目をみはるほど。

「フワテプールシクリ」1931

同系色で擦り出され、版画と思えないほど。アラベスク模様の透かし窓と、床に反射する光や光沢。他の作品では移り変わる時間の流れが惜しまれるような美しさでしたが、これは、時の流れが止まったかのような。

この「インドと東南アジア」シリーズを見ていると、すぐにもふらりと旅に出たくなりそう。

そして戦争。

「急降下爆撃」1941

絵も急転直下。戦争にも動じてない。従軍中に搭乗経験があったようですが、彼は本当に強い。

戦後は、自宅の洋館がGHQに接収されそうになったら、自ら乗り込んで収用を免れたとか。さらに、アメリカで人気のあった吉田家は、進駐軍関係者が集まり、缶詰やチョコがあふれたとか。

戦後の作品は少ないようですが、「農家」1946には、しみじみ。

 戸外の明るさと逆に、薄暗い室内はどこかホッとする。台所の火が、ちょっとラトゥールのよう。

これは最後の木版画だそう。

ドラマティックな彼の人生、幼くして子供を亡くすという悲しい出来事もあったようです。「頑固一徹」、「コワモテのむずかしや」、「すきあらば高いところに登りたがる」とかなりな言われよう。なのにあんなにも美しく静かに心に馴染む風景。絵にも彼にも、とてもひかれた展覧会でした。