情報と物質の科学哲学 情報と物質の関係から見える世界像

情報と物質の関係を分析し、波束の収縮問題、心身問題、クオリア、時間の謎に迫ります。情報と物質の科学哲学を提唱。

情報とは何か 空気のような情報概念

2019-06-11 09:01:14 | 情報と物質の科学哲学
科学的分野でも情報という用語は頻繁に使われます。
むしろ、情報という用語を使わないで議論を進めるのは不可能です。

しかしながら、議論の初めに情報概念の科学的定義をあげることはありません。
何故でしょうか?
それは、情報概念があまりにも当然すぎるものなので敢えてそれに触れる必要性を感じないからでしょう。

このような状況は、日常生活でもあります。
空気という存在がこれにあたります。
人間が生きるために食料が必要なことは子供でも知っています。
でも、人間が生きるために空気が必要なことを言うことはありません。
常識以前のことだからです。

情報概念は、丁度この空気に相当する立場にあると言えます。
大多数の唯物論者である科学者は様々な場面で情報という用語を使いますが、最終的な場面ではすべての現象を物理法則で説明できる筈だと言います。
このとき、非物質的概念である情報の存在は無視されます。
あるいは、無視していること自体に気づいていません。
実に奇妙なことです。

脳神経科学において情報概念が不可欠であることは自明です。
それにも関わらす、脳神経科学で情報概念の科学的定義について議論することはありません。
これは、より一層奇妙なことです。

そのため、情報概念を「フロギストン」や「エーテル」になぞらえる人もいます:
ペドロ・C・マリジュアン ”情報を超えて-古典的概念から新しい科学へ-”、
現代思想、Vol.24-11、青土社(1996-09)

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唯物論者・物理主義者のご都合主義あるいは二枚舌

2019-06-10 14:58:47 | 情報と物質の科学哲学
これまでのブログで情報概念は物質に還元できないことを度々説明してきました。
言い換えると、脳やコンピュータに関わる現象の説明において情報概念を消去あるいは物質に還元することは不可能なのです。

現代科学において情報概念が不可欠であることは周知の事実です。
唯物論者あるいは物理還元主義者も例外ではありません。

しかし、ヒトの行動、脳、心などに関する現象の説明の場面になると、それらの現象はすべて物理法則で説明できると主張します。
説明の際、情報概念の必要性を敢えて隠してしまいます。
もしかすると、そのことに気づいていないかも知れません。

これらのことを参考にすると、唯物論者あるいは物理還元主義者の説明態度はご都合主義的あるいは二枚舌的と言えます。

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喜多村直『ロボットは心を持つか-サイバー意識論序説-』について

2019-06-10 10:43:49 | 情報と物質の科学哲学
喜多村直『ロボットは心を持つか-サイバー意識論序説-』、共立出版(2002)
は、哲学にも深い関心を持つロボット工学者による野心作です。
かなり広範囲にわたって関連する話題を取り上げているため、ロボットの心について関心がある人にもお薦めです。

但し、以下のような気になる点があります:
なによりも情報概念の定義がありません。
情報という用語を常識的な意味で使っています。
著者は、自ら唯物論者である明言しています。
情報は心的概念と身体概念の間、あるいは心と物の間にあり、主観と客観の中間に位置する。
心的過程は情報処理過程である。
と主張しています。

非物質的概念である情報の重要性を指摘しながら、その一方で自らを唯物論者であると明言するのは矛盾しているように思いますが...

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数学は完璧な精密科学か?

2019-06-07 14:32:43 | 数学
数学は精密科学の王とされています。
確かにその厳密性、論理性を見ると誰もが納得できます。

しかし、数学のすべての分野がそうであるとは限りません。
集合論の歴史を見ればそのことが分かります。
集合論の誕生から様々なパラドックスが指摘され、その度に対応策が講じられて来ました。
クロネッカーらの直感主義者は、集合論の創始者であるカントールを厳しく糾弾して、カントールをノイローゼにしました。

20世紀数学の巨峰ヒルベルトは数学の価値は自由性にあるとしてカントールを擁護しました。
現代の数学者で集合論に疑義を挟む人はいないでしょう。
万が一、そのような主張をする数学者がいれば”色物数学者”のレッテルを貼られることは必至です。

しかし、当ブログの「非論理的な無限小数」「非論理的な対角線論法」において、無限小数には定義不能な無限小数が存在し、そのことが実数の非可算濃度の要因になっていることを示しています。

結局、集合論には不完全なところがあり、数学は完璧な精密科学とは言えないことが分かります。

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非論理的な対角線論法

2019-06-07 09:13:09 | 数学
カントールの対角線論法は、自然数の濃度より実数の濃度の方が大きいことを証明する手段として今でも教科書や参考書に載っています。

しかし、この証明法には数学を専門にしない人を煙に巻くようなところがあるので、ネットを見ると多くの反論や疑問があります。

東大名誉教授で哲学者の野矢茂樹による「無限論の教室」(講談社現代新書)は、この対角線論法に対する疑問を中心に無限にかかわる話題を取り上げています。
大学での講義をまとめたもので、初心者にも無限の不思議さをさまざまな角度から取り上げています。
語り口も軽妙でとても読みやすくお薦めです。

当ブログも「非論理的な無限小数」について書きました。
結論は、「数字がランダムに続く無限小数は、非論理的である」ということです。

つまり、無限小数は、次の異質な集合に分けられます:
無限小数={定義可能な無限小数} ∪ {定義不能な無限小数}

カントールの対角線論法には非論理的な定義不能な無限小数も含まれています。
これは取りも直さず対角線論法自体も非論理的であることを示しています。
当然、その結果得られる連続体濃度非可算)も非論理的な概念になります。

因みに、定義可能な無限小数の集合の濃度は可算になることがゲーデル数を使うことにより容易に証明できます。
言い換えると、実数が非可算濃度になる原因は、定義不能な無限小数の存在にあるのです。
定義不能な無限小数を一つの確定した概念として認めて、それらを1個、2個と数えることにどのような根拠があるのでしょうか。
そのようなことが精密科学の王とされる数学で許されることなのでしょうか。

更に、実数が定義可能な無限小数だけかなるとしても何ら矛盾は生じません。
何故なら、定義不能な無限小数そのものを数学的論証に取り上げること自体が不可能だからです。

以上の分析は、連続体仮設の反例に応用できます。

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