アーサー・ケストラー(小尾信弥、木村博訳)『ヨハネス・ケプラー 近代宇宙観の夜明け』、
現代の科学(SCIENCE STUDY SERIES)、河出書房新社(1977,9)
B6判、360ページの読み応えある本です。
この本を読むと、ケプラーは科学史上突出した偏執狂であるように感じます。
(参考)
コペルニクス(ポーランド人):1473-1543
ブラーエ(デンマーク人):1546-1601
ガリレオ(イタリア人):1564-1642
ケプラー(ドイツ人):1571-1630
ニュートン(イギリス人):1643-1727
ケプラーについて私たちが知っているのは惑星の楕円軌道を初めとする3法則くらいでしょう。
本書を読むとケプラーは想像を絶する波乱万丈な人生を送ったことが分かります。
また、ケプラーが生きていた時代の様子を知ることができるのも本書の魅力です。
本書は、ケストラー『夢遊病者たち』の第4章を取り出したものです。
第1章:英雄時代ーギリシャ時代の宇宙観
第2章:暗い幕間ー西欧中世の宇宙観
第3章:臆病なキャノン(僧会士)ーコペルニクスの生涯と宇宙体系
第4章:分水嶺ーケプラーの生涯と業績
第5章:道の分かれる所ーガリレオからニュートンへ
エピローグ
以下は、本書から引用したものです。
目次
まえがき
第1章:若き日のケプラー
一家の没落 ーヨブのようにー神秘な浄化作用ー任官ー占星術
第2章:『宇宙の神秘』
正立方体 ー『宇宙の神秘』の内容ーピタゴラスへの回帰
第3章:つのる苦しみ
宇宙のコップ ー結婚ーウォーミングアップーチコを待つ
第4章:チコ・ブラーエ
精度の追求 -新星ー魔法使いの島ー放浪ー出会いへの前奏曲
第5章:チコとケプラー
運命の重力 ー後継者
第6章:法則の発表
『新天文学』ー開戦ー第一撃ー八分の弧ー誤った法則ー第二法則
ー第1法則ーいくつかの結論ー重力の落とし穴-物質と精神
第7章:失意のケプラー
出版の困難 ー『新天文学』の承認ー沈滞ー大ニュース
第8章:ケプラーとガリレオ
神話物についての余談 -ガリレオの青春時代
ー教会とコペルニクスの宇宙体系ー初期のもめごとー望遠鏡の影響
ー衛星論争ー盾持ちー軌道の分離
第9章:混沌と調和
『屈折光学』 ー天災ー破門ー魔女裁判ー『世界の調和』ー第3法則
ー根本的なパラドックス
第10章:花嫁を計算する
第11章:晩年
『ルドルフ表』 ー緊張がぷっつり切れるーヴァレンシュタイン
-月の悪夢ー死
あとがき
ケプラーの書き残したものは、二つ折りの大判の書物にしておよそ20巻もあり、どのページをとってもいたるところ生き生きと躍動した文章が見い出せる。
第1章 若き日のケプラー
”一家の没落”
1571年12月 南西ドイツのシュヴァーベンにてケプラー誕生
”ヨブのように”
ケプラーは生まれつき近視に複眼(物が二重に見える)だった。
13歳で神学校に入学。
”神秘な浄化作用”
神学校ではラテン語による教育が行われた。流暢な会話も訓練された。
牧師への道を進む。ギリシャ語も学ぶ。
”任官”
20歳でチュービンゲン大学の学芸科を卒業。
コペルニクスの説を擁護。
神学科に4年間在籍。
自己分析:無定見、無思想、規律の欠如、軽率さ
グラーツの大学から数学と天文学の教授の地位を提供される。23歳。
一年後にその後の人生を支配する着想に捕えられる。
この着想から彼の革命的な発見が生まれた。
”占星術”
グラーツにおける義務の一つに占星術による毎年の予言歴の発行。
トルコ人の侵入を予言して当たる。
16世紀には占星術への信頼が再び高まる。
占星術は、ケプラーの生涯において重要な支配的な役割を果たした。
宮廷占星術師として生涯をおえた。
しかし、ケプラー自身は占星術を信じなかった。
第2章 『宇宙の神秘』
”正立方体”
25歳のとき『宇宙詩的神秘』(宇宙の神秘)を出版。
なぜ惑星が「20とか100ではなくて」、ちょうど6個だけ存在するのか、
またなぜこれら惑星の距離や速度が現にあるようなものになっているのか、
という疑問を持つようになった。
こうして、惑星運動の法則を求める彼の探求が開始された。
試行錯誤の末、存在しうる5種類の立方体(正四面体、立方体、正八面体、正十二面体、正二十面体)と6つの惑星の軌道との関係に気づく。
実は、この類推は正しくない。
この誤ったケプラーの信念は、偏執狂的妄想の兆候を示しながら彼の生涯の終わりまで続いた。
約四半世紀後に第二版を出版。
”『宇宙の神秘』の内容”
彼が将来見つけ出すことになる主要な発見の種子を含む。
天文学者ケプラーが公然とコペルニクス説を取り上げた最初の事例である。
この著書は、コペルニクスの死後の勝利を導き出す発端となった。
ケプラーより6歳年長のガリレオはコペルニクスについて沈黙を守り、ひそかに同意していた。
ケプラーは、コペルニクスが世界の中心として実際には太陽をおかず、地球軌道の中心をおいていたことを発見した。
彼は、一挙に、しかも偶然に太陽系の中心をそのあるべき位置に移してしまった。
彼以前の天文学者たちは誰一人提起したことのない次の問題を考察した。
惑星の太陽からの距離と、その「年」の長さ、すなわち「一回の公転に要する時間の長さ」との間の数学的関係を探り始めた。
より外側にある惑星は、軌道を一周するのにより長い距離を進むというだけではなく、軌道上を進む速さも遅い。
「なぜそうでなければならないのか」という疑問を立てたものは、ケプラー以前には誰一人いなかった。
ケプラーの答えは、「太陽から放射される一種の力があるにちがいない、その力が惑星を駆り立ててその軌道上をまわらせるのだ」というものだった。
駆動力は、「光の力と同じように」距離に比例して弱くなるから、外側の惑星ほどゆっくりと運動する。
この問題提起の革命的な意義はどれほど評価しても過大にすぎることはない、
なぜなら天体運動について幾何学的な記述のみでなく、物理的原因を結び付けようとする試みがなされたのだから。
”ピタゴラスへの回帰”
太陽中心の宇宙は、幾何学的により単純であり、いっそう満足のいくものだ。
神秘主義と科学の新たなピタゴラス的統合である。
第3章 つのる苦しみ
”宇宙コップ”
ヴェルッテンベルグ公フリードリッヒに五つの正立体を組み込んだ機械を作るように頼んだが実現しなかった。
”結婚”
1597年結婚。14年後に妻が狂死。
”ウォーミングアップ”
1597年『宇宙の神秘』出版。そのうち現金で200冊自己負担。
ガリレオ、チコ・ブラーエなど知りうるすべての学者に贈呈。
当時は、学者間で手紙のやり取りを行い情報交換する習慣があった。
無名のケプラーはこの本で一定の波紋を起こした。
当時の天文学者の仕事は、ひたすら観測した結果を記録するだけだった。
ケプラーの粗雑な推論を退けると同時に、その卓抜な才をただちにみてとった人こそ当時のもっともすぐれた天文学者チコ・ブラーエだった。
ケプラーがチコにあったのはそれから3年後だった。
チコに合う3年前ころからケプラーは真剣に数学の研究に取り組み始めた。
『宇宙の神秘』を書いたとき、彼は全く恐ろしいほど数学については無知だった。
彼は、地球の動きを探るために恒星の視差を観測することを知人の天文学者たちに頼んだが断られた。
ケプラー自身の観測装置はだだの棒を天井からひもで吊るしただけのものだった。
この仕掛けでも恒星の視差は確認できるはずだったが、北極星の視差は確認できなかった。
このことは、地球は動かぬものであるか、あるいは宇宙の大きさ(恒星天の大きさ)がそれまで考えられていたよりずっと大きいかであった。
もっとも根本的な課題は、惑星の運動が一様な速さで行われているのではなく、太陽に近づくと早くなり、遠ざかると遅くなることだった。
その理由を知るには離心率を調べることが必要だが全く不正確にしたわかっていなかった。
ケプラーが必要とした正確なデータを持っているのはチコ・ブラーエだけだった。
チコは、自説を完成させるまで自分の観測結果を公表するのを拒んだ。
”チコを待つ”
ケプラーがもしチコの観測結果を売るのに成功していなかったら惑星の法則を発見することはできなかったろう。
ニュートンも彼の理論を打ち立てることもできなかったろう。
ケプラーがチコに合った時はすでにチコの余命は18か月しか残っていなかった。
ケプラーは、宗教的迫害を受けてグラーツから追い立てられた。
1600年1月1日チコを訪れるためグラーツを去る。
第4章 チコ・ブラーエ
”精度の追求”
ケプラーは貧乏人だったがブラーエはデンマークの大領主で貴族の子であった。
海軍中将の父による教育によりチコは偏屈で尊大な人物になった。
学生時代に決闘し鼻の一部をそぎ落とされた。
その部分は金と銀でできた鼻で補修された。
13歳の時、部分日食を見て天文学に興味を持った。
部分日食は予測されたもので、その予測可能性に衝撃を受けた。
14歳でプトレマイオスの著書から出発し17歳で最初の観測を実行した。
チコは、ケプラーのような天体への思弁的な興味ではなかった。
真鍮と樫材で作られた直径38フィートの巨大四分儀を作った。
これはやがて世界を驚かせた一連の伝説的な機械の最初のものである。
チコが何ら画期的な発見をしていないが「近代の観測天文学の父」と呼ばれるのは正確で継続された観測を行ったからだ。
”新星”
1572年11月11日の夕方、カシオペアの近くに金星より明るい星が出現した。
この新星は、目のいい人なら昼間でも確認できた。
それは、その後18か月間同じ場所にとどまっていた。
肉眼で見えなくなったのは翌々年の5月末だった。
この事件が世間を震撼させたのは、それが当時のアリストテレス派やプラトン派、キリスト教などの根本教義に背くことだったからだ。
天体のすべての変化、すべての生成と衰退が生ずるのは地球のすぐ近く、すなわち月よりも下の(内側の)球圏に限られるはずだったからだ。
一方、遠方の恒星がはめ込まれている第八天は、天地創造の日以来、永遠に不変であるとされていた。
チコは、六分儀を完成したばかりで、それを使って新星が天空に静止していることを確認した。
チコは、翌年『新星について』を出版。
27ページにわたる正確な記述がなされた。
5年後、彼はアリストテレスの宇宙論にとどめの一撃を加えた。
1577年の大彗星がこれまで彗星について考えられてきたような地球近傍の現象ではなく、月よりも「少なくとも6倍」以上遠いところにあることを証明した。
”魔法使いの島”
デンマーク国王からフヴェーン島とそれに伴うすべての財産を授けられた。
チコは、以後20年間そこに住み、精密観測の方法というものの範を世界に示した。
”放浪”
51歳の時に再び放浪の旅に出た。
しかし、その時までには彼のライフワークはほとんど終わっていた。
彼は、太陽系についてのたくえつした探求につけ加えて、天空図の改定を企てた。
その結果、1000個もの恒星を含むものとなった。
チコの傲慢さは国中で嫌われ国王からも見放された。
1597年の頃、フヴェーン島を離れた。
その時、家族、助手たち、召使たち総勢20人と観測機械ほかをまとめて出発した。
最終的にはデンマーク領を離れプラハに到着した。
そこで皇帝ルドルフ二世から皇帝付きの数学官に任命された。
もし、チコがデンマークにとどまっていたらチコの生涯の残り少ない晩年にケプラーが彼を訪問する余裕はなっかただろう。
”出会いへの前奏曲”
ケプラーとチコは、出会う前に二年にわたって手紙を交換してた。
両者の関係はそもそもの初めから気まずかった。
それは若いケプラーが犯した罪のない失策に原因があった。
しかし、チコはケプラーの異常な才能を見抜いた。
第5章 チコとブラーエ
”運命の重力”
1600年2月4日、チコとブラーヘは出会った。
チコは53歳、ケプラーは29歳だった。
チコのチームに加わったケプラーに与えられたテーマは最も難しい惑星として有名な火星の観測だった。
ケプラーは火星の軌道の解明を八日間で解いてみせるといったが、結局八年に近い年月を必要とした。
この惑星との苦闘がケプラーの『新天文学』という著作を生み出した。
ケプラーは、チコの精密な観測に圧倒された。
チコは、豊富なデータを持っていたが年老いてしまってこの材料から新しい宇宙モデルを打ち立てるだけの大胆な想像力を失いつつあった。
チコは、秘蔵の観測データを開陳することを渋った。
しかし、ケプラーの火星観測を成功させるにはチコの観測結果を吐き出さないわけにはいかなかった。
”後継者”
ケプラーとチコの出会いからチコの死まで18か月あった。
しかも、ケプラーはたびたびグラーツへ戻ったため両者の間に直接的な接触があったのはその一部に過ぎなかった。
チコは美食家による病魔に侵され次第に錯乱状態に陥った。
チコは、痛みが治まったときケプラーに願いを伝えた。
「ケプラーは新しい宇宙観を、コペルニクスのでななくチコの体系の上に築くべきだ」ということだった。
チコの死から二日後、ケプラーは皇帝の枢密顧問官からチコの後継者として帝国数学官に任命された。
第6章 法則の発表
”『新天文学』”
ケプラーは、帝国数学官としてプラハに1601年から1612年まで滞在した。
その期間は彼の生涯で最も実り多い時期であって、二つの新しい科学を打ち立てた。
一つは器械光学、もう一つは物理学的天文学であった。
1609年出版の彼の傑作には意味深長な題がつけられている。
『新天文学』
ーチコ・ブラーエ卿の観測結果から、火星の運動の考究により得られた、因果律もしくは天界の物理学に基づく天文学ー
これには三つの法則のうち次の二つが述べられている。
(1)諸惑星は太陽の周りを円軌道ではなく楕円軌道をなして運行し、その楕円の一方の焦点に太陽が位置している。
(2)一つの惑星はその軌道を一様な速さで運動するのではなく、その惑星から太陽へ引いた直線が等しい時間内には常に等しい面積を掃くように運動する。
ニュートンの万有引力の法則はケプラーの三つの法則から導き出された。
従って、ケプラーの法則は近代的な意味での最初の「自然法則」であった。
ケプラーは、コペルニクスやガリレオ、ニュートンたちと違って自分の足跡をおおい隠すようなことはしなかった。
ケプラーは、自分の考えを秩序正しく教科書風に世間に押し出すことができなかった。
彼は、自分の考えをそれが彼の頭に浮かんだ順序通りに書いていくしかなかった。
まちがいや遠回り、彼が落ち込んだ罠などそのすべてを含めたものだった。
『新天文学』は、アカデミックではなく笑いはしゃぐといったバロック風で書かれている。
ひとりよがりで親しみやすく、苛立っている部分が多々ある。
それは、それは創造的精神の機能の仕方を暴露するめったにない本なのである。
”開戦”
火星が鍵となる位置を占めているのはその軌道がはなはだしく円からずれていることだった。
それは最も著しく楕円である。
ケプラーは当初火星の軌道が楕円であることを知らなかった。
いまだに円であると考えていた。
この考えにとらわれていたために悪戦苦闘した。
”第一章”
ケプラーがやるべきことは、円の半径、火星の近日点と遠日天と結ぶ軸の方向、太陽の位置、円の中心の位置などを確定することだった。
彼は、チコの観測データから4個を取り出し近似法で火星の軌道を計算した。
ケプラーの下計算(原稿のまま残っている)は、二つ折り判で900ページに達するものだった。
(当時、ネイピアの対数表はなかった)
計算間違いをし、その後に再び計算間違いをした結果、両者が間違いを帳消しにしてぼぼ正しい結果を得ることもあった。
最終的に彼の計算結果はチコのほかの観測結果とも一致することが分かった。
”八分の弧”
続く第二章で彼は火星の軌道が円であるという当初の仮説が間違っていることを発見した。
彼の計算結果、チコの得た別の火星の位置と八分の弧に相当する分だけ食い違っていることが分かった。
ケプラーは、この違いを無視することができなかった。
”誤った法則”
一様な運動の公理はすでに捨てられていた。
ケプラーは、神聖な円運動という公理もそうなるだろうとほのめかした。
彼は、観測地点である地球自体の運動を調べなおすことにした。
そこで彼は画期的な方法を思いついた。
それは、観測地点を地球から火星に移すことだった。
その結果、次のことが分かった。
地球は他の惑星同様いちような速さで運動しているのではない。
太陽からの距離に従って早く、あるいは、遅く公転している。
近日点と遠日点においては地球の速度は単純明快に距離に反比例している。
ケプラーは、惑星を動かす力が太陽にあると推測した。
”第二法則”
理論的には間違った推論により掃引面積が一定であるという第二法則を発見した。
これは、第一法則(楕円軌道)の発見より前である。
”第一法則”
ケプラーは、前述の八分の弧のずれのため火星の軌道を決めることに失敗した。
そらから彼は途方もない回り道に出発した。
まず地球の運動を再検討し、それから物理学的考察を行い、ついに第二法則を発見した。
そこに至るまでに6年も要した。
結論として、惑星の軌道は円ではないというただそれだけのことだった。
軌道は、両側で内側に湾曲し、他の端では外側に出っぱっている。
つまり、軌道は円形ではなく長円形なのだ。
しかし、このことから別の悪夢の旅が始まった。
それは、なぜ長円形なのかという問題だった。
その物理的理由を見つけなければならない。
長円形の候補として卵形についても1年間検討した。
卵形の理由が分からなかった。
それからまる18ヶ月を要して真理は円形と卵形の中間にあるに違いないと結論した。
そこで、知人への手紙に「火星の軌道はまるで完全な楕円であるかのようです」と書いた。
さらに驚くべきことには、彼は計算で楕円をしょっちゅう使っていたのだ。
しかし、それは卵形曲線を求めるための補助手段だった。
つまり、この時期には彼にとって卵形曲線はもう真の固定概念になっていたのだ。
ケプラーの頭脳の中にへばりついて離れない一個の数があった。
その数とは、0.00429であった。
この数から卵形は一瞬に消えてしまった。
彼は、もう一度無から出発することに決めた。
彼は、軌道の種々の20個の火星の位置と太陽との距離を完璧に計算した。
すると、やはり軌道はある種の長円であり、相対する2つの端で内側へ平たくなっている円のようだった。
その円と火星軌道との間に狭い弓形の残され、なんとその幅は前述した半径の0.00429倍であった!!!
ケプラーは、種々の計算を行い火星の軌道に関する公式を見出した。
その時点では、まだその公式が楕円を表していることに気付かなかった。
次に何が起こったか。
われわれがは喜劇の最高潮に達した。
ケプラーは、楕円軌道を徹底的に調べたいとして彼の公式を投げ捨ててしまった。
しかし、彼は軌道は楕円でなければならないと確信した。
彼は、観測された無数の火星の位置(ほとんどすべて暗記していた)が楕円でなければならないと感じた。
しかし、彼が偶然と直感により得ていた先の公式が楕円であることを知らなかった。
それでこの公式を放棄して幾何学的手法により楕円を組み立てた。
そして、これと先の公式が一致することを見出した。
だが、なぜ楕円軌道を描くのかは知る由もなかった。
”いくつかの結論”
ケプラーは、楕円に関する法則よりも彼の5個の正立方体の方を誇っていた。
彼は、無限の忍耐力を持って、うんざりするほど続く試行錯誤の手続きという道に沿ってこつこつと歩みを進める。
しかし、0.00429という数字に出会ったとき、それをチャンスとみて楕円軌道にたどり着いた。
”重力の落とし穴”
ケプラーの特別商標の物理学は、アリストテレスとニュートンとの中間にあるものだった。
それは、分水嶺上の物理学であった。
彼は今少しで万有引力を発見するところだった。
重さというものは物体間にあって結合あるいは接触しようとする傾向である。
ちょうど磁力のように。
だから地球は石を、石が地球を引き付けるよりはずっと強く引き付ける。
ケプラーは、潮の干満について最初の正しい説明をした。
それを「月が天頂に位置するような地域へ向かう」海水の運動であるとした。
後の著作『夢』では、彼は潮の干満を月だけの引力によってではなく、月と太陽を合わせた引力によって説明した。
彼には太陽の引力が地球まで達していることがわかっていた。
しかし、このことにもかかわらず、彼の宇宙論における太陽は引力ではなくて、物を押し運ぶ箒のような作用をするものと考えた。
ニュートンは、自分が最初に万有引力の概念を思いついたのではないことを自覚していた。
第7章 失意のケプラー
”出版の困難”
『新天文学』の執筆は、六年にわたる障害物競走であった。
しかし、それが出版されるまでにはなお四年の月日を要した。
その理由は、印刷代を払う金がなかったこととチコの相続人たちとの争いのためだった。
”『新天文学』の承認”
ケプラーの友人や文通者たちからは否定的な反応しかなかった。
彼の師からも支持されなかった。
ケプラー発見のもつ重大さと、それのはらむ意味とを最初に悟ったのは、かれのドイツ人同胞でもなくイタリアのガリレオでもなくて、イギリス人であった。
数学者トマス・ハリエット、21歳で他界した天文学の天才ジュリマイア・ホロックスであり、最後にニュートンであった。
”沈滞”
ケプラーは、『新天文学』は彼のいう究極の目標に向かう単に一つの飛び石に過ぎないと確信していた。
その頃には、彼は国際的に有名な学者だった。
彼には心気症があり、自ら放血をしたりした。
『新天文学』の出版後の一年は衰退のどん底にあった。
”大ニュース”
パドアの数学者がオランダ式覗き眼鏡を使って五個の惑星の他に、さらに四個の惑星を発見したというニュースがケプラーに届いた。
第8章 ケプラーとガリレオ
”神話物についての余談”
ガリレオがしなかったこと:
望遠鏡、顕微鏡、温度計、振り子時計、慣性の法則、太陽の黒点の発見。
ピサの斜塔から錘を投下しなかったし、「それでも動く」とも言わなかった。
彼が行ったことは、力学という近代科学の基礎を築いたことだった。
”ガリレオの青年時代”
大学二年の時に「一定の長さの振り子は、振幅に無関係に一定の周期で振れる」ことを発見した。
”教会とコペルニクスの宇宙体系”
ケプラーとガリレオとの初めてのふれあいが1597年に起こった。
ケプラーは26歳でグラーツの数学教授であり、ガリレオは32歳でパドアの数学教授だった。
ケプラーは『宇宙の神秘』をイタリヤに行く友人に託してガリレオに進呈した。
ガリレオは、それに対して以下のような感謝の手紙を送った。
私は、何年も前にコペルニクスの教えを採用しています。
しかし、それを公の場に持ち出す気にはなりませんでした。
それによってわが師コペルニクス自身の運命を思って恐ろしかったからです。
この手紙は、多くの理由で重要である。
第一に、ガリレオが若い頃に確信をもってコペルニクス信奉者になっていたことである。
しかし、彼がコペルニクスの宇宙体系を支持することを公にしたのはなんと49歳のときだった。
講義ではプトレマイオスの古い天文学を教え、コペルニクスを拒絶していた。
また、地球の運動を否定する講義もしていた。
もし、地球が回転しているなら地球は壊れてしまうだろう。
また、雲は後ろに取り残されてしまうだろう。
ところが、これらのことは彼自身が何年も前に論破していたことなのだ。
彼の秘密主義には驚かされる。
第9章 混沌と調和
”『世界の調和』”
ケプラーは、1618年にこの著書を出版した。
これは『宇宙の神秘』の続きであって、彼の終生の固定観念の極点だった。
ここでケプラーが企てたことは、幾何学、音楽、占星術、天文学、認識論などのすべてを包括する総合のうちに、宇宙の究極の秘密を暴くことだった。
”第三法則”
『世界の調和』の中で第三法則がでてくる。
それは、いかなる二つの惑星の公転周期の二乗も、それらの太陽からの平均距離の三乗に比例するというものである。
この法則は忍耐強い頑固な試みの実りであった。
はてしない試行錯誤の末にこの法則にたどり着いた。
”根本的なパラドックス”
第三法則の客観的な重要性は、それがニュートンのために「最終の手がかりを用意するものであった」。
ニュートンの少なからぬ業績は、ケプラーの著書の中で特に目立つことのない三つの法則に関する記述を見つけ出したことにある。
しかし、ケプラーにとってそれらは「一人の気の振れた建築家が設計したバロック風寺院を構築するための煉瓦の中のいくつかである」というそれだけの意味しか持っていなかった。
彼は、これらの法則の真の重要性を全く認識していなかった。
彼は、初期の本の中で「コペルニクスは彼がいかに豊富であるかを知らなかった」と述べている。
同じことがケプラー自身にも当てはまるのだ。
まさしくこれはパラドックスだ。
第10章 花嫁を計算する
(引用省略)
第11章 晩年
”ルドルフ表”
ケプラーの晩年の大著書は、応用天文学における彼の最高の業績であった。
それは、長いこと待たれていた『ルドルフ表』である。
この表は、チコの終生の骨折り仕事に基づいている。
しかし、この著書の出版には大いなる苦難が待っていた。
まず、彼の住んでいたリンツには大仕事を任せられる印刷所がなかった。
そこで彼は再び熟練工を探す旅に出た。
ついに1627年7月に作業が完成した。
ケプラーは、定期市で紙を買い活字のいくつかを鋳造し、印刷所の親方としてふるまい、事業全部の支払いを行った。
その初版のうち1000部をたずさえ、売却する手はずを整えるため自らフランクフルトに出かけた。
それはまさしくワンマンショーのようだった。
彼の『ルドルフ表』は一世紀以上もの間天文の研究に不可欠のものであった。
”緊張がぷっつり切れる”
彼はリンツを去り、あちらこちらへ旅に出た。
これは、放埓な父や叔父の遺伝からくるようなものであった。
様々な方面から就職先を斡旋されたが、旅費がないこともあってすべて断った。
”死”
ライプチッヒからみすぼらしい老馬に乗ってニュールンベルクへと旅をつづけた。
彼が次に訪れたのは11月2日レーゲンスブルクであった。
その3日後、発熱して床に就いた。
1630年11月15日に亡くなった。
享年59歳であった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます