15日で小正月も終わり、正月気分はなくなったのだろう。
昔と違って、今日では 新年早々からお店が開いているし、じっくりお正月気分も薄くなった気がします。
実家の母は大みそかまで、煮物や、私たちの着物の丈を直したりと、働きどうしで新年を迎えていました。
その代り、新年は 家族でお正月を祝い、比較的ゆったりと過ごしていました。
7日には「七草粥」をいただき、門松はこの日まで、玄関の上に飾ったお飾りはそのまま15日まで飾っていたような気がしています。
我が家では、新婚当時は、実家でしていたとおり、門松と玄関飾り、それに車にもお飾りをつけていましたが、世間を見てみると、車のお飾りをする人が少なくなって、我が家もいつしかつけなくなりました。
そして今は玄関のお飾りをつけたら、門松は無し、門松をつけたら玄関のお飾りはしないようになりました。
新聞に松の内についての記事がでていました。
今では松の内というと7日が主流になっていますが、関西や地方によっては15日まで松の内というところがある。一説には小正月までをつなげて松の内というとも言われている。
喜田川守貞という幕末の考証家によれば 昔は関東も15日までだったようです。
江戸時代 第4代将軍家綱の治世当時、江戸では火事が多く、寛文2年(1662)1月6日に、
「町中表裏之松かさり明七日之朝取申可事」という「町触(マチブレ)」が発令されて町人に通達されたようです。
これが徹底されるまでには何年かかかったようですが、この町触と同時に「左義長(サギチョウ)の禁止令」が発令されたそうです。
左義長とは宮中に始まる小正月の火祭りで、民間では門松や注連飾りを集めて燃やす行事のこと。江戸では火事を防ぐために厳禁となっていたらしい。
燃やす際の囃し言葉から、別名「どんど焼き」と呼ばれていて現在でもこの行事は続いているところがあちこちにあるようです。
昔と違って、今日では 新年早々からお店が開いているし、じっくりお正月気分も薄くなった気がします。
実家の母は大みそかまで、煮物や、私たちの着物の丈を直したりと、働きどうしで新年を迎えていました。
その代り、新年は 家族でお正月を祝い、比較的ゆったりと過ごしていました。
7日には「七草粥」をいただき、門松はこの日まで、玄関の上に飾ったお飾りはそのまま15日まで飾っていたような気がしています。
我が家では、新婚当時は、実家でしていたとおり、門松と玄関飾り、それに車にもお飾りをつけていましたが、世間を見てみると、車のお飾りをする人が少なくなって、我が家もいつしかつけなくなりました。
そして今は玄関のお飾りをつけたら、門松は無し、門松をつけたら玄関のお飾りはしないようになりました。
新聞に松の内についての記事がでていました。
今では松の内というと7日が主流になっていますが、関西や地方によっては15日まで松の内というところがある。一説には小正月までをつなげて松の内というとも言われている。
喜田川守貞という幕末の考証家によれば 昔は関東も15日までだったようです。
江戸時代 第4代将軍家綱の治世当時、江戸では火事が多く、寛文2年(1662)1月6日に、
「町中表裏之松かさり明七日之朝取申可事」という「町触(マチブレ)」が発令されて町人に通達されたようです。
これが徹底されるまでには何年かかかったようですが、この町触と同時に「左義長(サギチョウ)の禁止令」が発令されたそうです。
左義長とは宮中に始まる小正月の火祭りで、民間では門松や注連飾りを集めて燃やす行事のこと。江戸では火事を防ぐために厳禁となっていたらしい。
燃やす際の囃し言葉から、別名「どんど焼き」と呼ばれていて現在でもこの行事は続いているところがあちこちにあるようです。