亀の歩みで

急がず、慌てず、IT文化を楽しめたらいいと思っています。

姉の夢

2008-07-18 00:48:18 | Weblog
先日の7日に亡くなった姉の夢を見ました。
しかし 声は姉の声ではなかったのです。
妙な気分で起きました。

既にうんざり

2008-07-15 08:09:54 | Weblog
引越しのための段ボールがドサッと届き、玄関に立てかけたのはいいのですが、これに我が家にある全てを 不要なものと必要なものに選別し、なお且つトランクルーム行きと、仮住まい行きを分けなければなりません。
我が家は昭和50年に建てて、今まで3回も増改築をしました。
最後にちょっと額が嵩張りましたが 1階を増改築し 広げた和室の隣に小さなトイレを付けたので、これなら老後足腰が悪くなっても2階の寝室を1階にすることができると、老後に備えて準備万端整ったと快適な暮らしをしてました。
ところが主人が建て替えると言い出したのです。
私は反対。
2世帯住宅を建てるのならまだしも、子供達と同居する予定はなく、引越しの重労働を考えるととても同意する気持ちになれませんでした。
主人はお構いなしで業者を次々呼んでは検討を始め、間取りをどうするかということになり、それではと希望を言い出した私でした。
いつの間にか間取りは私が中心になって、財務省は主人となり、この8月仮住まいへの引っ越しとなったのです。
しかし、この暑い中、期限までにやれるのか?
もともと整理整頓の能力がない私が、前述のような仕分け作業をテキパキとやれるか考えるだけでも頭が痛くなります。身体が既に動かない。どうしましょう。

世田谷美術館で

2008-07-14 10:05:20 | Weblog
12日に世田谷美術館に初めて行ってみました。
家を出る前に時ならぬドシャ降り、バケツを何倍もひっくり返したようなドシャ降りが。
しばらく待つと雨が上がったので 主人が参加しているのグループ主催の写真展に。
何年か前からカメラに興味を持った主人は これまでも他の会場で写真展に出品していたのですが、主人の期待を裏切り、一度も観にいったことがありませんでした。
今回は、主人から、「来る?」と声がかかったので、娘と見に行きました。
砧公園の一角にある美術館。
中では主人のサークルだけでなく、千歳高校OBの写真展もあり、そのほかいくつかの展覧会を見ることができましした。
小さかった子供たちを連れて砧公園に遊びに来た頃 まだ美術館は建ってなかったし、草っ原で子供たちを一日自由に遊ばせて帰ったものです。
帰りに学芸大に娘を送りがてら、娘が行きたいと思っていた店で夕食をとりました。
小松菜の煮びたし、イカのゲソのサラダ、柚子そばどれも美味しくいただきました。
駐車場がないためコインパークに車を止めたのですが、食事も駐車代も娘が払ってくれた。

織姫になって

2008-07-13 09:27:14 | Weblog
この春倒れて入院していた長姉が7月7日 亡くなりました。
倒れて3か月 良く頑張ってくれました。
6月初めに姉の容態が安定していたので、心配はありましたがイギリスへ出かけてきましたが、その間に姉は口から食べられるようになったと聞いて喜んでいたのですが・・・・
6月の半ば過ぎに見舞うと、姉はナースセンターの隣の部屋に移されていて、浮腫みが酷くなって、厳しい状況に一変していました。
それから数日後 病院から次姉に血液を体の外に出して水分を除去する方法をとりたいがどうするかと、電話が入り、医者からは延命治療に繋がらないような話だったので私と相談して「OK」と答えたのです。
電話で承諾しただけでは済まなくて、家族の署名捺印が必要だというので、2日後次姉と二人で病院に行きました。
長姉の浮腫みはすっかり取れていました。
しかし意識レベルは格段に悪くなってしまっていました。
姉の顔や身体を丁寧に拭いてあげた後にナースセンターに行ったところ、出された用紙は、輸血の承諾書でした。医者から輸血の話は全く聞いていなかったので、看護婦の説明を聞いても納得がいかず、当日医者の話が聞けなかったので、出直して医者の話を聞くことになりました。
後日医者の話を聞く前に、姉を見舞うと、手のひら、足の裏、額が異常に赤くなってしまっていました。
意識レベルは悪いままです。
医者からは様々な話を聞き、姉の浮腫みをとる治療が「人工透析」であり、健康な人でも、透析することはかなりの身体的負担をかけている。
そのために意識がなくなったりすることを初めてわかりました。
医者は命を守ることが使命と考えていて、それが全てであるとの話でした。
私たち姉妹は 「医者に託している以上、医者の言うとおりにするしかないかも」と「輸血承諾書」にサインをしたのです。
しかし・・・帰りにいろいろ考えました。
この程 始めた人工透析は、長姉の今の容態から考えると延命治療になるのではないだろうか。
命はあるものの健康な人でも負担のかかる「人工透析」をすることでかえって苦しめているのではないだろうか。
翌朝の読売新聞の「長寿を支える」の欄を読んでますます、長姉を延命治療から救いたい気持ちが固まり、再び 病院に行き「これ以上「人工透析」は無しにしてほしい」と 婦長に納得していただき病院をあとにしました。
翌週、人工透析をしないでいる姉の容態を案じながら病院に行くと、姉は浮腫みがなく、返って水気がないシボシボ状態だったので看護婦に訊ねたら、今朝 人工透析をしたというではないですか。
「どのくらい透析しているの」と訊いたら「週3回です」と・・・・
話が違う・・・・病院に「医療相談室」があったので相談してみたところ、婦長とじっくりと話すことができて、婦長は私の気持ちを充分理解してくれたのです。
しかし、医者は一旦始めた治療をストップすることはできないと・・・・。
家に帰り主人と次姉に相談して、こちらの意思を纏めて7月5日に医者に送りましたが、医者は面談してからと一点張り。
延命治療は、治療との狭間で医者と患者の家族の考え方に違いがあるのを痛切に感じたのです。
仕方なく 医者と話すために7月8日に次姉と病院にいく約束をしました。
とにかく長姉を苦しめたくなかったので、楽に天寿を全うして欲しいと心から祈りに祈りました。
その翌日7月7日に 姉は 空の彼方に 先に飛び立った義兄のもとに。
折しも七夕の日。
子供がいない夫婦だったので 姉はさぞかし兄に会いたい思いで一杯だったこどだろう。
弔問して下さった近所の方から、生前 姉は「寂しい、寂しい」と言っていたと聞かされたのでした。
義兄が逝ってから4年 姉は 織姫になって最愛の彦星の夫の元へ旅立っていきました。
葬儀は無宗教で献花をしていただき、通夜では姉の好きだった「川の流れのように」「愛燦燦」を皆様に歌っていただきました。
姉の住む地域はご近所の繋がりが強くて、ご飯を差し入れてくれたり、葬儀には受付をしてくれ、遠くから来ている私たち姉妹を影で支えてくれました。