JAL123便墜落事故-真相を追う-折れなかった垂直尾翼(1)
※訂正情報(2010.2.23 13:20) ×竜ヶ崎ウィング → ○尾ヶ崎ウィング
周囲の危険な状況は相変わらずです。そんな中でも調査は進み、日航機事故の全貌がほぼ解明できました。S氏や私を追いかける狂った連中のことも告発を続けなければいけませんが、まずは当初の目的である123便の真相についての発表を急ぎましょう。本シリーズでは、反証を示すことにより、事故調査報告書もとい、ボイスレコーダー(CVR)やフライトレコーダー(CFR)が真実を伝えていないことを証明していきます。
その前に、日航機事故とは何だったのかおさらいです。
これまでこのブログでご紹介した事実を総合すると、その本質は軍事物資輸送を巡る日米ソを巻き込んだ軍事衝突であり、闇夜の戦闘の秘密、そして政治的弱みを抱えた日本国政府(あるいは裏政府・軍産複合体)が国民を欺くために仕組んだ壮大な虚構なのです。
事故当日山に入った複数の地元住民の証言などを聞く限り、事故生存者は最大100名前後はいたと思われ、罪深くも、救出された4名以外は全て秘密隠蔽のため、放置されたか、薬剤、火炎放射機、ナイフ等で惨殺されたか、あるいは拉致連行された痕跡があります。なお、本件に直接関与し国際関係における大きな秘密を共有したという意味では、米国・ソ連(現ロシア)ともに日本政府と同じ罪を負う立場にあると言えるでしょう。そもそも無辜の民間人が巻き込まれ、命を落とす理由など全くないのですから。日本の未来、これからの国際関係を展望したとき、今こそ日航機事故の真実を、国民に向け、世界に向けて明らかにしなければなりません。
■小川さんは何を見たのか?
S氏が事故現場周辺で機体破片やミサイル破片を拾ってくる以前、この事故の唯一の物証と言われていたのが、乗客の小川哲さんが機内で撮影した数枚の写真です。この写真は、ご遺族のご判断から、事故から4年後の1990年10月14日に朝日新聞の朝刊および、他のメディアにて公表されました。
まずはその写真をもう一度ご覧ください。
写真1:小川さんが機内から撮影した写真 手前の丘陵とその先の湾 (YouTube、TV報道ビデオより)
写真2:小川さんが機内から撮影した写真 深い入り江の港湾 (朝日新聞 1990 10月19日朝刊より)
写真1,2共に共通するのは、窓の外に景色が写り込んでいること。写真1は丘陵と海岸線、写真2には奥まで続く深い入り江、おそらくどこかの港が写っています。これから、これらの写真を分析していきますが、まずは撮影者の小川哲さんがどこの座席に着座していたのかを、下図1で確認してください。図では、機体後方右側の窓から2番目の席に着座していることになっていますが、実際にはご家族の中で任意に席を決めていたと思われます。しかし、写真2の写真に機体主翼の右端が写っているので、少なくとも小川さんが右側に窓を見る位置に座っていたことが確認できます。
図1:小川さんの着座位置 赤丸:小川さん御一家、黄丸:川上慶子さん(生存者)
敬称略
■三浦半島でない理由
件の朝日新聞の記事では写真1は「相模湾と江の島、富士山」、写真2は「川崎の工業地帯」であろうと仮説を挙げています(ただし、断定はしていない)。まずは写真1が本当に朝日新聞の仮説通りなのかを検証してみましょう。まずは叩き台として、事故調発表の123便の飛行経路図(図2)を掲載します。
図2:事故調査委員会発表の飛行経路
この経路図から、江ノ島・富士山に向かって手前の丘陵と奥に相模湾が広がる方向を探し出します。図3の矢印の方向を見てください。
図3:三浦半島から江ノ島・富士山を眺める方向?
この時123便は4000m近く上空の、三浦半島の沿岸からは7~9km離れた地点を飛んでいます。もしも事故調発表のこの飛行経路上から富士山を眺めたのだとしたら、手前に見える丘陵は写真に写った部分だけでも1000m位の標高がないと、このようには絶対に写りません(計算方法は後で説明します)。三浦半島に1000m超級の山地などない、せいぜい200m程度であることは、神奈川県に在住の方ならご存知のはずです。
仮に、200mの程度の小山が写真1のようにそれなりの丘陵に見える位置を飛んでいたとするならば、123便は三浦半島上空400~500m、横須賀市の南西を南に向かっていたとみなすしかありません(計算過程は省略します)。しかしそれだと、江ノ島とみなされる沖合いに浮かぶ小島と、その先の小田原・熱海までの距離感、あるいは写真中央よりやや左側に鎮座しているはずの箱根山との高さが全く折り合いません。海岸線の形状も、どうも地図にみる相模湾とは著しく異なるようです。
どうやら、朝日新聞の「三浦半島から江ノ島・富士山を望む方向」という仮説は、事故調発表の飛行経路との整合に無理があるだけでなく、飛行経路を無視して地形と突き合わせ場合でも、写真にピタリと合致させるのは難しいようです。「富士山」と呼ばれている山型の黒い輪郭も、実際には雲の影のようにしか見えません。
■写っているのは伊豆半島東岸の白浜海岸
三浦半島でなければ写真に写った背景はどこなのか?S氏と私は、何度か伊豆半島の入り江の形状を調べに現地に向かい、ついに、小川さんの写真に写り込んだ背景と思われる場所を発見しました。
以下、その場所と特定するに至った根拠を示します。写真3は写真1の注目ポイントにマークを施したもの、写真4-Bは私たちが特定した、写真の背景と思われる場所(白浜海岸)の写真です。
写真3:写真1のチェックポイント
写真4:A ジャンボ窓枠(実物)と、B 尾ヶ崎ウィング(休憩所)から窓枠を通して見た白浜海岸
図4:白浜海岸付近の地形図(Googleマップより)
ここで、写真3のチェックポイントと写真4、図4を対比させます。なお、地形を比較する上で、事故当時と取材時の潮位の違いを考慮しなければなりません。
写真3撮影時刻 1985年8月12日 18:00- 19:00 平均潮位 152cm (東京港湾局)(*1)
写真4撮影時刻 2009年12月7日 16:00- 17:00 平均潮位 141cm (東京港湾局)
また伊豆半島東岸、伊東市の年平均潮位の推移から、伊東市、初島付近を中心に顕著な隆起(*2)が観測されています。データから類推すると、1985年からおよそ30cm程度の隆起が見込まれます。その分だけ現在の海面は低くなる、すなわち、事故当時の東京港湾の値に対する潮位の低下として現れていると考えれば、事故当時の潮位と、現地取材時の潮位の差は
141 - 152 - 30 = -41 (cm)
となります。データの示す水域が異なるので、必ずしもこの通りとは言い切れませんが、取材時の見かけの潮位は事故当時に比べておおむね 3~40cm 前後は低かったであろうと予想されます。これだけ潮位が異なっていれば、細かい海岸線の形状は小川さんの写真に比べて大きく異なっていると考えなければなりません。簡単に言えば写真4-Bは海上部分の増加として映像に現れてくるのが当然です。
[*1]東京港湾局 http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/choui/kako-harou/kako-index.htm
[*2]伊東の潮位 http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/kaiiki3.html
■白浜海岸が写真の背景と認められる3つのポイント
写真3に示した比較用のチェックポイントについて解説します。
① 海に突き出した部分
② 海上に見える小さな影
③ 本根岬山頂部の形状
④ 空中に浮かぶ黒い物体 (これについては次回以降に解説)
①の先端部分は、写真4-B では海面上に小高く現れた岩の周囲、図4からは本根岬の南側の付根に突き出した小さな岬とその先に小さく固まる岩礁地帯であると推測されます。この小岬から独立した先端の岩礁地帯の特徴がはっきりと写真3に現れていませんが、これは手前の山が重なって写り込んでいるためか、あるいは、写真4-Bをよく見ればわかるように、この岩礁地帯の平たい部分は人工建造物であり、港湾整備のため24年前と地形が変化したことなども考えられます。②の影については、写真4-B、図4によればそのすぐ岸側に見えるのが小さな漁港であり、状況からみて、この影は岩礁ではなく、漁港を出たばかり、あるいは漁港に戻る途中の漁船であったと考えられます。
判断にとって決定的だったのは、写真4の手前に写った丘陵③の形状で、左側の円錐形の頂上部と右側にかけて緩やかに上る鞍型の尾根の形状が、図4に示した本根岬の等高線と見事に合致しています。この他、対岸の海岸線が描く緩やかな2段構成のカーブラインがたいへん酷似している点、背景の寝姿山に続く丘陵の傾斜の度合いなど、全てを考え合わせると、この地が写真1の背景である可能性はかなり高いと判断されます。
これまで私たちは、地図上における地形の検証、および三浦半島から伊豆半島の全海岸線を経由して、静岡県の焼津まで全ての沿岸を実施調査し、写真1、および写真2の該当地域を探してきましたが、写真1については、伊豆の「川奈」など、複数の候補地があったものの、結局この白浜海岸付近以上に写真に近い特徴を有する場所を他に見つけられませんでした。
御巣鷹の尾根に至るまで、123便は1度ならず何度か、必ずどこかの海岸線を横切っています。小川さんの写真の背景となる所は、三浦半島から焼津までの海岸線上のどこかに存在しなくてはなりません。ですから、前述した現場検証を以って、伊豆半島東海岸、下田市白浜海岸・本根岬一帯が、小川さんが撮影した写真1の背景であるとここに断定したいと思います。
■事故調査報告書に現れない高度と進路
背景となる場所が特定できたことにより、地図データと、実測値を用いて123便の飛行位置、飛行方向と飛行高度の計算が可能になります。幸い、私たちは123便の窓枠の実物を御巣鷹の尾根で回収しており(写真4-A)、その横幅が31cmであることが測定できています。ガラスが取り付けられたときの実際の内のり幅は、3cm減の28cmとみなし、小川さんが窓から50cm離れたところで撮影したと仮定すれば、飛行位置と方向は図5のように、高度については図6の様に、三角測量の要領で計算式を使って求めることができます。
図5:123便の飛行位置と方角 伊豆の東海岸を東に向かって飛んでいる
図6:123便の飛行位置と高度を計算するための初期条件
計算は、相似や三平方の定理など、中学校レベルの数学の知識があれば十分可能です。三角関数の近似計算法(高校数学)を知っていればより計算が楽になるでしょう。これらの計算から導かれた結論は次のようになります
-- (新)日本の黒い霧 結論 --
「JAL123便は、伊豆半島下田東岸にある天領山の上空をほぼ真東に向かって飛行している。その高度はおよそ 700m。」
ちなみに、事故調発表の飛行経路からは
-- 事故調発表 --
「JAL123便は、伊豆半島下田、白浜海岸の上空 7000mを西に向かって飛行した。」
と読み取れます。事故調ではレーダー記録とフライトレコーダ(CFR)を解析した結果ということですが、方角も高度も私たちの導いた結論とは全く異なります。ジャンボのような大型機が今にも着陸せんばかりの超低空飛行をしていたわけですから、コクピット内の会話も公表されたボイスレコーダー(CVR)とは明らかに異なっていたでしょう。この時すでに「何か爆発したぞ」などと、のんびり機体の状況を確認していられるような状況でなかった。少なくとも、小川さんの写真はそのことをはっきりと私たちに伝えているのです。
では、123便はなぜこのような異常な飛び方をしたのか?、そして写真2に写った場所はいったいどこなのか?これらの疑問の回答については次回以降に本シリーズの続きとしてお知らせします。また、123便が御巣鷹上空まで操舵能力を保ち続けた事実(迷走飛行はなかった)、相模湾上空に旧ソ連軍のMIG-25戦闘機が現れ、少なくとも海上で1機が撃墜された可能性についてなど、これまで日航機事故の真相究明で取り上げられることが無かった新事実についてもお知らせしたいと思います。
* * *
以前の記事で、私がなぜボイスレコーダー(CVR)の分析を行わないのか、その理由について少し触れたことがありましたが、今回、改めてその理由がご理解いただけたのではないかと思います。小川哲さんの写真を厳密に解析して得られた結論は、公表された事故報告書や、CFR や CVRのデータを真っ向から否定するものなのです。
CVRを聞いて心を震わせた皆さん、CVRを分析し真実を突き止めようとした皆さん、残念ながら、CVRの音声が公表されてからのこの10年間、皆さんはその良心・良識を悪意ある人たちにただ弄ばれていただけなのです。このまま誤った道を歩み続けても、真実に辿り着くことは永遠に叶いません。これまでの手法を改め、もう一度足元から事実を積み上げること、それ以外に真実に近づく王道はないのです。
DIXIT EIS IESUS SI CAECI ESSETIS NON HABERETIS PECCATUM NUNC VERO DICITIS QUIA VIDEMUS PECCATUM VESTRUM MANET
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
管理者
周囲の危険な状況は相変わらずです。そんな中でも調査は進み、日航機事故の全貌がほぼ解明できました。S氏や私を追いかける狂った連中のことも告発を続けなければいけませんが、まずは当初の目的である123便の真相についての発表を急ぎましょう。本シリーズでは、反証を示すことにより、事故調査報告書もとい、ボイスレコーダー(CVR)やフライトレコーダー(CFR)が真実を伝えていないことを証明していきます。
その前に、日航機事故とは何だったのかおさらいです。
これまでこのブログでご紹介した事実を総合すると、その本質は軍事物資輸送を巡る日米ソを巻き込んだ軍事衝突であり、闇夜の戦闘の秘密、そして政治的弱みを抱えた日本国政府(あるいは裏政府・軍産複合体)が国民を欺くために仕組んだ壮大な虚構なのです。
事故当日山に入った複数の地元住民の証言などを聞く限り、事故生存者は最大100名前後はいたと思われ、罪深くも、救出された4名以外は全て秘密隠蔽のため、放置されたか、薬剤、火炎放射機、ナイフ等で惨殺されたか、あるいは拉致連行された痕跡があります。なお、本件に直接関与し国際関係における大きな秘密を共有したという意味では、米国・ソ連(現ロシア)ともに日本政府と同じ罪を負う立場にあると言えるでしょう。そもそも無辜の民間人が巻き込まれ、命を落とす理由など全くないのですから。日本の未来、これからの国際関係を展望したとき、今こそ日航機事故の真実を、国民に向け、世界に向けて明らかにしなければなりません。
■小川さんは何を見たのか?
S氏が事故現場周辺で機体破片やミサイル破片を拾ってくる以前、この事故の唯一の物証と言われていたのが、乗客の小川哲さんが機内で撮影した数枚の写真です。この写真は、ご遺族のご判断から、事故から4年後の1990年10月14日に朝日新聞の朝刊および、他のメディアにて公表されました。
まずはその写真をもう一度ご覧ください。
写真1:小川さんが機内から撮影した写真 手前の丘陵とその先の湾 (YouTube、TV報道ビデオより)
写真2:小川さんが機内から撮影した写真 深い入り江の港湾 (朝日新聞 1990 10月19日朝刊より)
写真1,2共に共通するのは、窓の外に景色が写り込んでいること。写真1は丘陵と海岸線、写真2には奥まで続く深い入り江、おそらくどこかの港が写っています。これから、これらの写真を分析していきますが、まずは撮影者の小川哲さんがどこの座席に着座していたのかを、下図1で確認してください。図では、機体後方右側の窓から2番目の席に着座していることになっていますが、実際にはご家族の中で任意に席を決めていたと思われます。しかし、写真2の写真に機体主翼の右端が写っているので、少なくとも小川さんが右側に窓を見る位置に座っていたことが確認できます。
図1:小川さんの着座位置 赤丸:小川さん御一家、黄丸:川上慶子さん(生存者)
敬称略
■三浦半島でない理由
件の朝日新聞の記事では写真1は「相模湾と江の島、富士山」、写真2は「川崎の工業地帯」であろうと仮説を挙げています(ただし、断定はしていない)。まずは写真1が本当に朝日新聞の仮説通りなのかを検証してみましょう。まずは叩き台として、事故調発表の123便の飛行経路図(図2)を掲載します。
図2:事故調査委員会発表の飛行経路
この経路図から、江ノ島・富士山に向かって手前の丘陵と奥に相模湾が広がる方向を探し出します。図3の矢印の方向を見てください。
図3:三浦半島から江ノ島・富士山を眺める方向?
この時123便は4000m近く上空の、三浦半島の沿岸からは7~9km離れた地点を飛んでいます。もしも事故調発表のこの飛行経路上から富士山を眺めたのだとしたら、手前に見える丘陵は写真に写った部分だけでも1000m位の標高がないと、このようには絶対に写りません(計算方法は後で説明します)。三浦半島に1000m超級の山地などない、せいぜい200m程度であることは、神奈川県に在住の方ならご存知のはずです。
仮に、200mの程度の小山が写真1のようにそれなりの丘陵に見える位置を飛んでいたとするならば、123便は三浦半島上空400~500m、横須賀市の南西を南に向かっていたとみなすしかありません(計算過程は省略します)。しかしそれだと、江ノ島とみなされる沖合いに浮かぶ小島と、その先の小田原・熱海までの距離感、あるいは写真中央よりやや左側に鎮座しているはずの箱根山との高さが全く折り合いません。海岸線の形状も、どうも地図にみる相模湾とは著しく異なるようです。
どうやら、朝日新聞の「三浦半島から江ノ島・富士山を望む方向」という仮説は、事故調発表の飛行経路との整合に無理があるだけでなく、飛行経路を無視して地形と突き合わせ場合でも、写真にピタリと合致させるのは難しいようです。「富士山」と呼ばれている山型の黒い輪郭も、実際には雲の影のようにしか見えません。
■写っているのは伊豆半島東岸の白浜海岸
三浦半島でなければ写真に写った背景はどこなのか?S氏と私は、何度か伊豆半島の入り江の形状を調べに現地に向かい、ついに、小川さんの写真に写り込んだ背景と思われる場所を発見しました。
以下、その場所と特定するに至った根拠を示します。写真3は写真1の注目ポイントにマークを施したもの、写真4-Bは私たちが特定した、写真の背景と思われる場所(白浜海岸)の写真です。
写真3:写真1のチェックポイント
写真4:A ジャンボ窓枠(実物)と、B 尾ヶ崎ウィング(休憩所)から窓枠を通して見た白浜海岸
図4:白浜海岸付近の地形図(Googleマップより)
ここで、写真3のチェックポイントと写真4、図4を対比させます。なお、地形を比較する上で、事故当時と取材時の潮位の違いを考慮しなければなりません。
写真3撮影時刻 1985年8月12日 18:00- 19:00 平均潮位 152cm (東京港湾局)(*1)
写真4撮影時刻 2009年12月7日 16:00- 17:00 平均潮位 141cm (東京港湾局)
また伊豆半島東岸、伊東市の年平均潮位の推移から、伊東市、初島付近を中心に顕著な隆起(*2)が観測されています。データから類推すると、1985年からおよそ30cm程度の隆起が見込まれます。その分だけ現在の海面は低くなる、すなわち、事故当時の東京港湾の値に対する潮位の低下として現れていると考えれば、事故当時の潮位と、現地取材時の潮位の差は
141 - 152 - 30 = -41 (cm)
となります。データの示す水域が異なるので、必ずしもこの通りとは言い切れませんが、取材時の見かけの潮位は事故当時に比べておおむね 3~40cm 前後は低かったであろうと予想されます。これだけ潮位が異なっていれば、細かい海岸線の形状は小川さんの写真に比べて大きく異なっていると考えなければなりません。簡単に言えば写真4-Bは海上部分の増加として映像に現れてくるのが当然です。
[*1]東京港湾局 http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/choui/kako-harou/kako-index.htm
[*2]伊東の潮位 http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/kaiiki3.html
■白浜海岸が写真の背景と認められる3つのポイント
写真3に示した比較用のチェックポイントについて解説します。
① 海に突き出した部分
② 海上に見える小さな影
③ 本根岬山頂部の形状
④ 空中に浮かぶ黒い物体 (これについては次回以降に解説)
①の先端部分は、写真4-B では海面上に小高く現れた岩の周囲、図4からは本根岬の南側の付根に突き出した小さな岬とその先に小さく固まる岩礁地帯であると推測されます。この小岬から独立した先端の岩礁地帯の特徴がはっきりと写真3に現れていませんが、これは手前の山が重なって写り込んでいるためか、あるいは、写真4-Bをよく見ればわかるように、この岩礁地帯の平たい部分は人工建造物であり、港湾整備のため24年前と地形が変化したことなども考えられます。②の影については、写真4-B、図4によればそのすぐ岸側に見えるのが小さな漁港であり、状況からみて、この影は岩礁ではなく、漁港を出たばかり、あるいは漁港に戻る途中の漁船であったと考えられます。
判断にとって決定的だったのは、写真4の手前に写った丘陵③の形状で、左側の円錐形の頂上部と右側にかけて緩やかに上る鞍型の尾根の形状が、図4に示した本根岬の等高線と見事に合致しています。この他、対岸の海岸線が描く緩やかな2段構成のカーブラインがたいへん酷似している点、背景の寝姿山に続く丘陵の傾斜の度合いなど、全てを考え合わせると、この地が写真1の背景である可能性はかなり高いと判断されます。
これまで私たちは、地図上における地形の検証、および三浦半島から伊豆半島の全海岸線を経由して、静岡県の焼津まで全ての沿岸を実施調査し、写真1、および写真2の該当地域を探してきましたが、写真1については、伊豆の「川奈」など、複数の候補地があったものの、結局この白浜海岸付近以上に写真に近い特徴を有する場所を他に見つけられませんでした。
御巣鷹の尾根に至るまで、123便は1度ならず何度か、必ずどこかの海岸線を横切っています。小川さんの写真の背景となる所は、三浦半島から焼津までの海岸線上のどこかに存在しなくてはなりません。ですから、前述した現場検証を以って、伊豆半島東海岸、下田市白浜海岸・本根岬一帯が、小川さんが撮影した写真1の背景であるとここに断定したいと思います。
■事故調査報告書に現れない高度と進路
背景となる場所が特定できたことにより、地図データと、実測値を用いて123便の飛行位置、飛行方向と飛行高度の計算が可能になります。幸い、私たちは123便の窓枠の実物を御巣鷹の尾根で回収しており(写真4-A)、その横幅が31cmであることが測定できています。ガラスが取り付けられたときの実際の内のり幅は、3cm減の28cmとみなし、小川さんが窓から50cm離れたところで撮影したと仮定すれば、飛行位置と方向は図5のように、高度については図6の様に、三角測量の要領で計算式を使って求めることができます。
図5:123便の飛行位置と方角 伊豆の東海岸を東に向かって飛んでいる
図6:123便の飛行位置と高度を計算するための初期条件
計算は、相似や三平方の定理など、中学校レベルの数学の知識があれば十分可能です。三角関数の近似計算法(高校数学)を知っていればより計算が楽になるでしょう。これらの計算から導かれた結論は次のようになります
-- (新)日本の黒い霧 結論 --
「JAL123便は、伊豆半島下田東岸にある天領山の上空をほぼ真東に向かって飛行している。その高度はおよそ 700m。」
ちなみに、事故調発表の飛行経路からは
-- 事故調発表 --
「JAL123便は、伊豆半島下田、白浜海岸の上空 7000mを西に向かって飛行した。」
と読み取れます。事故調ではレーダー記録とフライトレコーダ(CFR)を解析した結果ということですが、方角も高度も私たちの導いた結論とは全く異なります。ジャンボのような大型機が今にも着陸せんばかりの超低空飛行をしていたわけですから、コクピット内の会話も公表されたボイスレコーダー(CVR)とは明らかに異なっていたでしょう。この時すでに「何か爆発したぞ」などと、のんびり機体の状況を確認していられるような状況でなかった。少なくとも、小川さんの写真はそのことをはっきりと私たちに伝えているのです。
では、123便はなぜこのような異常な飛び方をしたのか?、そして写真2に写った場所はいったいどこなのか?これらの疑問の回答については次回以降に本シリーズの続きとしてお知らせします。また、123便が御巣鷹上空まで操舵能力を保ち続けた事実(迷走飛行はなかった)、相模湾上空に旧ソ連軍のMIG-25戦闘機が現れ、少なくとも海上で1機が撃墜された可能性についてなど、これまで日航機事故の真相究明で取り上げられることが無かった新事実についてもお知らせしたいと思います。
* * *
以前の記事で、私がなぜボイスレコーダー(CVR)の分析を行わないのか、その理由について少し触れたことがありましたが、今回、改めてその理由がご理解いただけたのではないかと思います。小川哲さんの写真を厳密に解析して得られた結論は、公表された事故報告書や、CFR や CVRのデータを真っ向から否定するものなのです。
CVRを聞いて心を震わせた皆さん、CVRを分析し真実を突き止めようとした皆さん、残念ながら、CVRの音声が公表されてからのこの10年間、皆さんはその良心・良識を悪意ある人たちにただ弄ばれていただけなのです。このまま誤った道を歩み続けても、真実に辿り着くことは永遠に叶いません。これまでの手法を改め、もう一度足元から事実を積み上げること、それ以外に真実に近づく王道はないのです。
DIXIT EIS IESUS SI CAECI ESSETIS NON HABERETIS PECCATUM NUNC VERO DICITIS QUIA VIDEMUS PECCATUM VESTRUM MANET
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
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