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123便事件 - 事故とすませたい心

またこの日が訪れました。あの忌まわしい惨劇から33回目の8月12日です。夕刻6時過ぎに羽田を離陸した日本航空123便の推定不時着時刻は18:55頃です。読者様におかれましては、どうかその時刻に、全ての犠牲者のご冥福と、残されたご遺族様の心のご安寧をお祈りください。

* * *

私は、本件に関しては「事故」とか「墜落」と言う言葉をなるべく使いたくありません。何年もの調査の結果、それが事実でないことを確信しているからです。そして、何かの利害のため、とてつもなく大きな権力が、本件を事故で終わらせようと画策してきたことを肌身で感じています。

私と同じように、この件が事故でないことを凡そ理解・認識していながら、私に向かって「恐ろしくないのか?」、「命が惜しくないのか、手を引け」とアドバイスしてきた方は何人もいらっしゃいます。これらのご親切には御礼を申し上げると同時に、丁重にお断りを申し上げてきました。

私だって、恐ろしいと思ったこと、手を引こうと思ったことは何度もあります。それでもこうして調査研究を継続し、時に間違え、馬鹿にされながらもその結果をこうしてブログで発信してきたのは、勇気だとか正義だとかそんな聞こえの良い理由からではありません。信仰心というのもまた違います。

自分の心中が一番わからないものですが、敢えてその理由を説明するなら、やっぱり恐ろしいから、そして悲しいからです。人がその目で物を見ようとせず、積み重ねた経験と知識に反してまで物を見ないことの正当性を考える。それって、本当に自分の人生を生きていると言えるのでしょうか?世の中全体がそうなってるとしたら、この世界とはいったい何なのでしょうか?

「あれは事故だった」。そう報道するマスコミや関係機関への疑いを一切排除し、自分の関心事にのみ気持ちを向けるのは確かに楽ですし、賢明な生き方とも言えます。私がそれに賛同し得ないのは、本件で犠牲になられた方々と自分の間に大きな違いはなく、昨日までの平穏な人生が一転して悲劇となり、それが誰にも理解されず、事故犠牲者という憐みの対象としてこの世から簡単に葬り去られること、そうなる事に対し何か本質的な違和感を感じるからです。

「事故ですませたい」。その心は同時に、何か大事な物を失っているように思うのです。


戦争の悲劇ですませたい…
広島・長崎の原爆も、123便事件同様、嘘で固められた史実であることがわかってきました。

■123便、犠牲者人名検索ページ

123便犠牲者の人名検索ができるページを作りました。今は機能も体裁も粗っぽいですがご容赦ください。適宜データを更新し操作性を高めたいと思います。なお、住所が特定できるような記述については伏字にしています。

ここでは、どんな方々が同機に乗っておられたのか改めてご確認ください。家族連れ、子供、女性、外国人・・・皆、私たちと変わらない人間です。その方々が一日にしてこの世から失われたことの意味を改めてお考えください。
http://debussy.php.xdomain.jp/passengersearch.html


RESPONDIT IESUS ET DIXIT EIS ET SI EGO TESTIMONIUM PERHIBEO DE ME IPSO VERUM EST TESTIMONIUM MEUM QUIA SCIO UNDE VENI ET QUO VADO VOS AUTEM NESCITIS UNDE VENIO AUT QUO VADO
イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」
(ヨハネの福音書 第8章14節)


キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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