東京大空襲、B29のピンポイント攻撃
今日は3月11日、あの東日本大震災から早いもので8年の年月が経過しました。続く福島第一原発の事故により、私は一時海外避難を選択した訳ですが、それからというもの、日本という国の呆れるばかりの原子力行政の実態が次々に露になってきました。その断片を掻い摘んで本ブログでお知らせしてきたのですが、原子力の闇は想像以上に深く、なかなか全体を把握するという訳にいきません。
先週も、埼玉県寄居にある自動車関連企業の工場内で比較的中規模の放射能漏れ事故が発生したようですが、なんとか収束しそうなので、わざわざ情報開示をしませんでした。実はこの程度の放射能漏れ事故は、この1年、時よりどこかで起きているのものであり、私もいちいち不安を煽るようなことはしたくないのでなるべく公表を控えるようにしています。
何故、自動車関連企業なのかは、過去の記事をお読みになっている読者様なら敢えて説明は不要でしょう。現代社会の動力源は小型化された原子力に大きく依存し始めているのですから。自動車メーカーが放射性物質を取り扱っていないと思う方がむしろ認識不足と言えます。だからこそ、福島であれだけの大事故を起しながら、原子力素材の生産プラントである原発を、経団連や電気事業連合会、そして経産省が停止しようとは言わないのです。
おっと、いきなり脱線してしまいました。今回の記事は、前回に続き1945年3月10日に発生した東京大空襲についてです。
■B29のピンポイント縦断爆撃
まず、こちら↓のサイト記事を参考に、東京大空襲時の出来事を時系列に書き出しました。書き出すと言っても、始まりと終わりだけですが。
http://historyjapan.org/great-tokyo-air-raid-2
1945年3月10日
00:08 第一弾が江東区に投下される
00:15 空襲警報が発令される
・・・・・・・・・・・・・・
02:00 この頃に空襲が終わる
02:37 空襲警報が解除される
東京大空襲には、機銃を外し、燃料も最小とし、焼夷弾を満載した米国の爆撃機B29が300機出動したと言われています。諸元によると最大積載時のB29の総重量は約43トン以上とありますので、こんな重い機体が高度1000m以下などという空気抵抗の大きい高度帯を飛行したとするなら、現代の旅客機と同じで時速300km以上は出していないと飛べないと思われます(*1)。ここでは便宜上、空襲時のB29の飛行速度を300km/hと固定します。
ここで、以下の図を見てください。
図1:東京大空襲分析図
空襲による消失範囲は概ね6kmの円内に収まることがこれで分かります。300km/hで飛行するB29編隊が円内を通過するのに要する時間は
60 × 6 / 300 = 1.2 (分)
つまり、各機 最大1分12秒しか投下時間がないことが分かります。この短い時間内で円内に限って焼夷弾を投下しなければならないのですから、パイロットも爆撃手も凄腕としか言いようがありません、しかも、同レベルの優秀な人員を300機分揃えたというなら米国恐るべしですね。
さて、次にこの計算結果を用いて現実に何が起きたかを考察します。証言や資料と組み合わせた事実関係は以下のようになります。
1)証言:空を覆うようなB29編隊
2)証言:B29は大きな化け物のように見えた
3)資料:出撃総数は300機
3)資料:爆撃は2時間続いた
5)計算:空襲エリアを1分12秒で通過
これら全てを合理的に説明し得る状況は、例えば
"30機程度のB29小編隊(全10編成)が12分おきに波状的に訪れ、1000m以下の超低高度で侵入し、1分強の限られた時間内に焼夷弾を大量投下した"
などが考えられます。ここでちょっと、この説明に私自身が納得がいかない点を列記しましょう
a)本当に全機こんな高精度(時間・位置)で焼夷弾を投下できたのか?
b)どうして、初期攻撃以後の波状攻撃に対して防御ができなかったのか?
c)投下ポイントからの離脱機に対して何も反撃できなかったのか?
*1 時速300km以上:航空力学的にはその速度でもB29は飛行できないというのが私の考え、というか計算結果ですが、それについてはひとまず議論を保留しておきます。
■そこだけ切り取ったような高精度爆撃
図1を見ていてつくづく思うのは、まるで
このエリアだけ空間を切り取ったように焼失している
ということです。神田や八丁堀など、多少西の方にも広がっていますが、それでも
皇居や霞ヶ関だけはしっかり避けている
のが見て取れます。前述参考サイトによると、東京大空襲当日には強い風が吹いていたといいます。投下した焼夷弾は当然風に流されますから、爆撃手は風速を見越して爆撃ポイントを定めていたのでしょうか?そうだとすれば、やはり凄腕としか言いようがありません。そして、次々に訪れる全300機のほとんどが、おそらくそのミッションを達成したようですから、それもまた驚きです。そして、驚きと同時に、そんなことが技術的にも確率的にも起こりうるのだろうかと、強い疑問がふつふつと沸き起こってくるのです。
■2時間なされるままだったのか?
さて、おそらく高度1000m以下の高射砲射程圏内を悠々と飛行する大型爆撃機を、なぜ帝都防空隊は撃墜しなかったのか?それが前回記事の疑問点でしたが、参考サイトにあるように、米軍は機銃すら外して日本本土に乗り込んで来たようです。それは、米軍は高射砲どころか、迎撃戦闘機の出現すら考慮していなかったという事実の裏返しでもあります。
投下第一弾が江東区であったという記述より、おそらく、爆撃機は南の東京湾側から爆撃を初め、目標圏内離脱後は関東内陸部を旋回して海上に抜けているはずです。そんな作戦行動を2時間近く中止することなく実行できたのも、日本側からの反撃がほとんどないことを知っていたからなのでしょう。
そこまで日本の実情を知りながら、米軍はどうして、民間密集居住地である東京の下町を狙ったのでしょうか?反撃がないと知っていたなら、軍需工場や、それこそ霞ヶ関や皇居など簡単に狙えるはずです。そして、広島・長崎の悲劇を待つことなく、戦争を終結させることもできたはずなのです。
長崎の悲劇の場合、犠牲になったのは軍艦工場の三菱重工長崎造船所ではなく、同市内の一般市民でした。沖縄の場合など、日本との戦争に勝利するのが目的なら、戦術的には沖縄に進攻する必要すらなかったのです。
第2次世界大戦の末期、日本は反撃意志もなく、いたずらに降伏を先延ばしにしてきました。そして、米軍も反撃がないことを分かっていながら、一般市民がただ犠牲になるだけの攻撃を繰り返してきました。ここに両国の示し合わせがあったかどうか、証拠こそありませんが、少なくとも戦争末期の両国のやり方は、
勝敗ではなくただ人を殺したかった
だけのようにしか思えません。もっというと、東京大空襲の焼失範囲が極めて限定的なのは、地上側で予め防火設計が厳密になされていたから、つまり、日本側で大火災発生のシミュレーションがすでに出来上がっていたからなのだとも考えられるのです。下手をすると、地上で火を付け回っていたのは日本側なのかもしれないのです。
図2:ご存知、火付盗賊改方の鬼平(© Saito Production)
火付盗賊改方の影の仕事は火付役の赤猫たちを差配すること
空襲当時は特別高等警察、今なら消防庁が該当か
こうした、第2次世界大戦における「日米共謀の疑義」は、空襲から40年後の123便事件を巡る米国の不可解な動きに再び現れます。詳しくは本ブログの過去記事をもう一度ご覧ください。
写真1:御巣鷹の現場を訪れた米国事故調査団(赤枠は軍人)
「そしてミサイルは発射された(6)」より
* * *
文の最後になりますが、東日本大震災でお亡くなりになられた全ての犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
先週も、埼玉県寄居にある自動車関連企業の工場内で比較的中規模の放射能漏れ事故が発生したようですが、なんとか収束しそうなので、わざわざ情報開示をしませんでした。実はこの程度の放射能漏れ事故は、この1年、時よりどこかで起きているのものであり、私もいちいち不安を煽るようなことはしたくないのでなるべく公表を控えるようにしています。
何故、自動車関連企業なのかは、過去の記事をお読みになっている読者様なら敢えて説明は不要でしょう。現代社会の動力源は小型化された原子力に大きく依存し始めているのですから。自動車メーカーが放射性物質を取り扱っていないと思う方がむしろ認識不足と言えます。だからこそ、福島であれだけの大事故を起しながら、原子力素材の生産プラントである原発を、経団連や電気事業連合会、そして経産省が停止しようとは言わないのです。
おっと、いきなり脱線してしまいました。今回の記事は、前回に続き1945年3月10日に発生した東京大空襲についてです。
放射能漏れ事故に遭遇したら
「直ちに影響はありません」。これが、この手の放射能漏れ事故に関して今の私がお答えできる限度となります。事故の影響は生涯における発ガンリスクの上昇など、目に見えないところに現れるでしょう。残念ながら、日本国内で絶対安全な場所と呼べるところはありません。常に原発と隣り合わせているのだと覚悟し、発酵食品の積極的な摂取や、睡眠を多くとりストレスや疲労の蓄積を防ぐなど、発病を予防することを第一に心がけてください。過度な心配こそ大敵です。
私見ですが、10人中9人いや100人中99人がガンになる時代がやって来ても、おそらくこの国は変わろうとしないでしょう。一時の利便のために命を差し出しても良いという、今のままでは。
「直ちに影響はありません」。これが、この手の放射能漏れ事故に関して今の私がお答えできる限度となります。事故の影響は生涯における発ガンリスクの上昇など、目に見えないところに現れるでしょう。残念ながら、日本国内で絶対安全な場所と呼べるところはありません。常に原発と隣り合わせているのだと覚悟し、発酵食品の積極的な摂取や、睡眠を多くとりストレスや疲労の蓄積を防ぐなど、発病を予防することを第一に心がけてください。過度な心配こそ大敵です。
私見ですが、10人中9人いや100人中99人がガンになる時代がやって来ても、おそらくこの国は変わろうとしないでしょう。一時の利便のために命を差し出しても良いという、今のままでは。
■B29のピンポイント縦断爆撃
まず、こちら↓のサイト記事を参考に、東京大空襲時の出来事を時系列に書き出しました。書き出すと言っても、始まりと終わりだけですが。
http://historyjapan.org/great-tokyo-air-raid-2
1945年3月10日
00:08 第一弾が江東区に投下される
00:15 空襲警報が発令される
・・・・・・・・・・・・・・
02:00 この頃に空襲が終わる
02:37 空襲警報が解除される
東京大空襲には、機銃を外し、燃料も最小とし、焼夷弾を満載した米国の爆撃機B29が300機出動したと言われています。諸元によると最大積載時のB29の総重量は約43トン以上とありますので、こんな重い機体が高度1000m以下などという空気抵抗の大きい高度帯を飛行したとするなら、現代の旅客機と同じで時速300km以上は出していないと飛べないと思われます(*1)。ここでは便宜上、空襲時のB29の飛行速度を300km/hと固定します。
ここで、以下の図を見てください。
図1:東京大空襲分析図
空襲による消失範囲は概ね6kmの円内に収まることがこれで分かります。300km/hで飛行するB29編隊が円内を通過するのに要する時間は
60 × 6 / 300 = 1.2 (分)
つまり、各機 最大1分12秒しか投下時間がないことが分かります。この短い時間内で円内に限って焼夷弾を投下しなければならないのですから、パイロットも爆撃手も凄腕としか言いようがありません、しかも、同レベルの優秀な人員を300機分揃えたというなら米国恐るべしですね。
さて、次にこの計算結果を用いて現実に何が起きたかを考察します。証言や資料と組み合わせた事実関係は以下のようになります。
1)証言:空を覆うようなB29編隊
2)証言:B29は大きな化け物のように見えた
3)資料:出撃総数は300機
3)資料:爆撃は2時間続いた
5)計算:空襲エリアを1分12秒で通過
これら全てを合理的に説明し得る状況は、例えば
"30機程度のB29小編隊(全10編成)が12分おきに波状的に訪れ、1000m以下の超低高度で侵入し、1分強の限られた時間内に焼夷弾を大量投下した"
などが考えられます。ここでちょっと、この説明に私自身が納得がいかない点を列記しましょう
a)本当に全機こんな高精度(時間・位置)で焼夷弾を投下できたのか?
b)どうして、初期攻撃以後の波状攻撃に対して防御ができなかったのか?
c)投下ポイントからの離脱機に対して何も反撃できなかったのか?
*1 時速300km以上:航空力学的にはその速度でもB29は飛行できないというのが私の考え、というか計算結果ですが、それについてはひとまず議論を保留しておきます。
■そこだけ切り取ったような高精度爆撃
図1を見ていてつくづく思うのは、まるで
このエリアだけ空間を切り取ったように焼失している
ということです。神田や八丁堀など、多少西の方にも広がっていますが、それでも
皇居や霞ヶ関だけはしっかり避けている
のが見て取れます。前述参考サイトによると、東京大空襲当日には強い風が吹いていたといいます。投下した焼夷弾は当然風に流されますから、爆撃手は風速を見越して爆撃ポイントを定めていたのでしょうか?そうだとすれば、やはり凄腕としか言いようがありません。そして、次々に訪れる全300機のほとんどが、おそらくそのミッションを達成したようですから、それもまた驚きです。そして、驚きと同時に、そんなことが技術的にも確率的にも起こりうるのだろうかと、強い疑問がふつふつと沸き起こってくるのです。
■2時間なされるままだったのか?
さて、おそらく高度1000m以下の高射砲射程圏内を悠々と飛行する大型爆撃機を、なぜ帝都防空隊は撃墜しなかったのか?それが前回記事の疑問点でしたが、参考サイトにあるように、米軍は機銃すら外して日本本土に乗り込んで来たようです。それは、米軍は高射砲どころか、迎撃戦闘機の出現すら考慮していなかったという事実の裏返しでもあります。
投下第一弾が江東区であったという記述より、おそらく、爆撃機は南の東京湾側から爆撃を初め、目標圏内離脱後は関東内陸部を旋回して海上に抜けているはずです。そんな作戦行動を2時間近く中止することなく実行できたのも、日本側からの反撃がほとんどないことを知っていたからなのでしょう。
そこまで日本の実情を知りながら、米軍はどうして、民間密集居住地である東京の下町を狙ったのでしょうか?反撃がないと知っていたなら、軍需工場や、それこそ霞ヶ関や皇居など簡単に狙えるはずです。そして、広島・長崎の悲劇を待つことなく、戦争を終結させることもできたはずなのです。
長崎の悲劇の場合、犠牲になったのは軍艦工場の三菱重工長崎造船所ではなく、同市内の一般市民でした。沖縄の場合など、日本との戦争に勝利するのが目的なら、戦術的には沖縄に進攻する必要すらなかったのです。
第2次世界大戦の末期、日本は反撃意志もなく、いたずらに降伏を先延ばしにしてきました。そして、米軍も反撃がないことを分かっていながら、一般市民がただ犠牲になるだけの攻撃を繰り返してきました。ここに両国の示し合わせがあったかどうか、証拠こそありませんが、少なくとも戦争末期の両国のやり方は、
勝敗ではなくただ人を殺したかった
だけのようにしか思えません。もっというと、東京大空襲の焼失範囲が極めて限定的なのは、地上側で予め防火設計が厳密になされていたから、つまり、日本側で大火災発生のシミュレーションがすでに出来上がっていたからなのだとも考えられるのです。下手をすると、地上で火を付け回っていたのは日本側なのかもしれないのです。
図2:ご存知、火付盗賊改方の鬼平(© Saito Production)
火付盗賊改方の影の仕事は火付役の赤猫たちを差配すること
空襲当時は特別高等警察、今なら消防庁が該当か
こうした、第2次世界大戦における「日米共謀の疑義」は、空襲から40年後の123便事件を巡る米国の不可解な動きに再び現れます。詳しくは本ブログの過去記事をもう一度ご覧ください。
写真1:御巣鷹の現場を訪れた米国事故調査団(赤枠は軍人)
「そしてミサイルは発射された(6)」より
* * *
文の最後になりますが、東日本大震災でお亡くなりになられた全ての犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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