37回目の夏-失われたウェストサイドストーリー
本日は令和4年8月12日。日本航空123便が遭難したあの日からもう37年目の夏です。
37年前と言えば、私もまだ世間知らずの学生で、見るもの聞くものの全てに興味深々の頃でした。その自分がそろそろ老い先を考え始めなければならない年齢を迎えるとは、あの時にはとても想像できなかったことです。
私が123便の調査を始めて既に13年を数えますが、この間いったい何を成し得たのか、自分の至らなさに歯痒い思いを覚えるのは当然ながら、既に高齢の域に入られた犠牲者のご遺族関係者様に至っては、いったいどのような心境でおられるのか、それを思うと心苦しいばかりです。
ここで毎年のお願いとなってしまいますが、読者の皆様におかれましては、123便の姿がレーダーから消えたと言われる時刻、午後6時56分前後になりましたならば、わずかな時間でよいので、犠牲者のご冥福を祈ってあげてくださいますよう、お願い申し上げます。
これは多くの同胞が亡くなられた事件である。それを忘れないためにも。
■第2の遭難現場
本日を迎えるに先立ち、今年もまた123便の遭難現場へと足を運び慰霊を行ってきました。今回は、学生時代の同期の友人がこの事件の犠牲になったという方、話にはよく聞くが現場にはまだ一度も訪れたことがなく、ぜひ手を合わせに行きたいという方、そのような方々を連れ立っての訪問となりました。
写真1:慰霊のため遭難現場付近を訪れる
写真2:こちらは御巣鷹の尾根へ続く登山道
沢が荒れ整備がたいへんだったでしょう。関係者の尽力に感謝です
御巣鷹の尾根を訪れたことのある方なら、どうして写真1が遭難現場なのだと首を傾げたかもしれません。それもそのはずで、ここは群馬県ではなく長野県側、現在の南相木ダムのダム湖畔の風景なのです。
私はここを第2の遭難現場と呼んでいますが、ここの存在については私が運用している(神)ブログメルマガで僅かに触れているのみです。というのも、これまで発見された軍機やミサイル破片の存在にすら強い拒否反応を示す世間一般に向けて、この第2現場の存在について詳細を示すのは時期尚早であると考えているからです。
ですから、今回の記事でもそれについて殊更強弁するつもりもないのですが、読者様には次の2つの事実についてご自身でよく考えて頂きたいと思っています。
(1)殆ど使用されることない揚水発電所が何故ここに作られたのか?
(2)どうして御巣鷹の尾根に最も近い川上村が救助拠点にならなかったのか?
(1)についてはかなり前に記事にしていますが、そもそも「大電力は長距離送電できない」という物理的制約に従えば、海沿いの発電所で作った大電力をこんな山の中に送電できないし、ここからの電気を遠く離れた都会に回すことなどできるはずもないのです。
関連記事:大電力送電の大嘘
つまり、数兆円は掛かっているだろうこの南相木ダムを含む神流川ダムは全く別の目的で建設されたのは自明のことなのです。この殆ど使われない施設の為に、千曲川源流周辺の土砂が複数の山体ごと大量に持ち運び去られたのです。私はこの行為を国による「証拠隠滅」と捉えています。
また(2)については過去の記事「The Paths of Mountain Wanderers」、「35回目の夏 - 小片に刻まれた想い」で軽く触れていますが、実は川上村に限らず123便事件において長野県側での動きが殆ど報道されないのは極めて不自然なことなのです。
以上は3年前に、1985年当時の川上村村長に近かった方から直接伺ったお話なのです。
また、日本航空内では現地へ急遽派遣される社員に対し「現地へのアクセスは群馬ルートで」という指示が出されていたと当時の日航に在籍していた方の証言もあります。とにかく、長野県側に人を寄せたくないという意志が随所に見られるのです。
地図は現場周辺の地形図(現在)。県境の尾根を越えると長野県川上村があり、そこには人が住み農地の広がる平地がある。何故ここに救援本部を設置せず、遠く離れ急峻で平地の確保が難しい上野村が選ばれたのか?
写真は川上村内の現場最短地点(引用元:Google)。高原野菜の農地が広がる
大量の軍機破片が見つかっている話は以前から本ブログで取り上げていますが、そうなるとその機体本体を人目に触れないようどのように運び出したのか?当然それが疑問として上がってきます。
つまり、同事件を事故に見せかけるためには搬出路と廃棄場所の確保は必須であり、その為に取られた措置が
西側(長野県側)の報道管制・行動規制
であったと考えられるのです。
この視点を得た時、これまで同事件に関して注目されることの少なかった長野県、そして南に続く山梨県や静岡県などの現場西側エリアこそが、同事件の処理及びその隠蔽に於いて非常に大きな役割を果たしたことが見えてくるのです。
さて、先に述べた「第2の遭難現場」とは、そのような現場西側の不可解な動きを調査する中で浮上した問題なのですが、これについては機が熟したと思われた時に改めて公表したいと考えています。
今はっきりとお伝えできるのは
その時西側で何が起きていたのか、それが事件解明の鍵
であるということだけです。
画像は「事件の記憶-改ざんされた事故報道」から。離れた2箇所が炎上している
なお、私が他のブログを含め取り扱っている芸能・科学・アニメそして歴史等の話題は、一見関係ないようですが全て123便事件の全容を理解するための前準備であるとご理解ください。
まずこの辺の基礎知識を頭に入れて頂かないと、これから展開する123便事件の深層はまるで理解できないでしょう。それほどまでに、この123便事件の闇は深いのです。
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
DIXITQUE DOMINUS AD ABRAM POSTQUAM DIVISUS EST LOTH AB EO LEVA OCULOS TUOS ET VIDE A LOCO IN QUO NUNC ES AD AQUILONEM ET AD MERIDIEM AD ORIENTEM ET AD OCCIDENTEM
主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。」
(創世記 第13章14節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
37年前と言えば、私もまだ世間知らずの学生で、見るもの聞くものの全てに興味深々の頃でした。その自分がそろそろ老い先を考え始めなければならない年齢を迎えるとは、あの時にはとても想像できなかったことです。
私が123便の調査を始めて既に13年を数えますが、この間いったい何を成し得たのか、自分の至らなさに歯痒い思いを覚えるのは当然ながら、既に高齢の域に入られた犠牲者のご遺族関係者様に至っては、いったいどのような心境でおられるのか、それを思うと心苦しいばかりです。
ここで毎年のお願いとなってしまいますが、読者の皆様におかれましては、123便の姿がレーダーから消えたと言われる時刻、午後6時56分前後になりましたならば、わずかな時間でよいので、犠牲者のご冥福を祈ってあげてくださいますよう、お願い申し上げます。
これは多くの同胞が亡くなられた事件である。それを忘れないためにも。
■第2の遭難現場
本日を迎えるに先立ち、今年もまた123便の遭難現場へと足を運び慰霊を行ってきました。今回は、学生時代の同期の友人がこの事件の犠牲になったという方、話にはよく聞くが現場にはまだ一度も訪れたことがなく、ぜひ手を合わせに行きたいという方、そのような方々を連れ立っての訪問となりました。
写真1:慰霊のため遭難現場付近を訪れる
写真2:こちらは御巣鷹の尾根へ続く登山道
沢が荒れ整備がたいへんだったでしょう。関係者の尽力に感謝です
御巣鷹の尾根を訪れたことのある方なら、どうして写真1が遭難現場なのだと首を傾げたかもしれません。それもそのはずで、ここは群馬県ではなく長野県側、現在の南相木ダムのダム湖畔の風景なのです。
私はここを第2の遭難現場と呼んでいますが、ここの存在については私が運用している(神)ブログメルマガで僅かに触れているのみです。というのも、これまで発見された軍機やミサイル破片の存在にすら強い拒否反応を示す世間一般に向けて、この第2現場の存在について詳細を示すのは時期尚早であると考えているからです。
ですから、今回の記事でもそれについて殊更強弁するつもりもないのですが、読者様には次の2つの事実についてご自身でよく考えて頂きたいと思っています。
(1)殆ど使用されることない揚水発電所が何故ここに作られたのか?
(2)どうして御巣鷹の尾根に最も近い川上村が救助拠点にならなかったのか?
(1)についてはかなり前に記事にしていますが、そもそも「大電力は長距離送電できない」という物理的制約に従えば、海沿いの発電所で作った大電力をこんな山の中に送電できないし、ここからの電気を遠く離れた都会に回すことなどできるはずもないのです。
関連記事:大電力送電の大嘘
つまり、数兆円は掛かっているだろうこの南相木ダムを含む神流川ダムは全く別の目的で建設されたのは自明のことなのです。この殆ど使われない施設の為に、千曲川源流周辺の土砂が複数の山体ごと大量に持ち運び去られたのです。私はこの行為を国による「証拠隠滅」と捉えています。
また(2)については過去の記事「The Paths of Mountain Wanderers」、「35回目の夏 - 小片に刻まれた想い」で軽く触れていますが、実は川上村に限らず123便事件において長野県側での動きが殆ど報道されないのは極めて不自然なことなのです。
"123便の遭難現場(御巣鷹の尾根)がどの辺か絞れてきた時点で、川上村の村長は「現場に最も近く平地も多いこの村が救助拠点になるのは間違いない」と判断し、村内の小中学校に受け入れ準備を始めるよう指示を出したのです。
ところが、実際には川上村には声が掛からず、村長はどうしてそのような判断になったのかと首を捻っていました。"
ところが、実際には川上村には声が掛からず、村長はどうしてそのような判断になったのかと首を捻っていました。"
以上は3年前に、1985年当時の川上村村長に近かった方から直接伺ったお話なのです。
また、日本航空内では現地へ急遽派遣される社員に対し「現地へのアクセスは群馬ルートで」という指示が出されていたと当時の日航に在籍していた方の証言もあります。とにかく、長野県側に人を寄せたくないという意志が随所に見られるのです。
地図は現場周辺の地形図(現在)。県境の尾根を越えると長野県川上村があり、そこには人が住み農地の広がる平地がある。何故ここに救援本部を設置せず、遠く離れ急峻で平地の確保が難しい上野村が選ばれたのか?
写真は川上村内の現場最短地点(引用元:Google)。高原野菜の農地が広がる
大量の軍機破片が見つかっている話は以前から本ブログで取り上げていますが、そうなるとその機体本体を人目に触れないようどのように運び出したのか?当然それが疑問として上がってきます。
つまり、同事件を事故に見せかけるためには搬出路と廃棄場所の確保は必須であり、その為に取られた措置が
西側(長野県側)の報道管制・行動規制
であったと考えられるのです。
この視点を得た時、これまで同事件に関して注目されることの少なかった長野県、そして南に続く山梨県や静岡県などの現場西側エリアこそが、同事件の処理及びその隠蔽に於いて非常に大きな役割を果たしたことが見えてくるのです。
さて、先に述べた「第2の遭難現場」とは、そのような現場西側の不可解な動きを調査する中で浮上した問題なのですが、これについては機が熟したと思われた時に改めて公表したいと考えています。
今はっきりとお伝えできるのは
その時西側で何が起きていたのか、それが事件解明の鍵
であるということだけです。
画像は「事件の記憶-改ざんされた事故報道」から。離れた2箇所が炎上している
なお、私が他のブログを含め取り扱っている芸能・科学・アニメそして歴史等の話題は、一見関係ないようですが全て123便事件の全容を理解するための前準備であるとご理解ください。
まずこの辺の基礎知識を頭に入れて頂かないと、これから展開する123便事件の深層はまるで理解できないでしょう。それほどまでに、この123便事件の闇は深いのです。
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
DIXITQUE DOMINUS AD ABRAM POSTQUAM DIVISUS EST LOTH AB EO LEVA OCULOS TUOS ET VIDE A LOCO IN QUO NUNC ES AD AQUILONEM ET AD MERIDIEM AD ORIENTEM ET AD OCCIDENTEM
主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。」
(創世記 第13章14節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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