五、「教会とわたしたち」(383) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その22)
12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。
だれが墓を必要とするのか
天が彼の墓石の役を果たすであろう。(前回はここまで)
ましてや、わたしたちの敵対者が、キリスト信者のしかばねが埋葬されない、と言って嘲笑うことなどあるべきでない。わたしたちにはすべての肢体を備えた肉体の復活が約束されている。それはただに地からだけでなく、しかばねが分解
し去ったもっとも奥深い諸要素の隠れ家からの復活である。
13 それでは、なぜわたしたちは同信のキリスト者のしかばねを埋葬するのか。
しかしながら、死者のしかばね、ことに美しく信仰深い者のしかばねは、軽侮され放置さるべきではない。なぜなら、それはあらゆる種類の善きわざの器官、また器として用いられたからである。もしわたしたちが、父親の着物・指輪、ある
いはそのような類いを、親がわたしたちにとって特別に親しい愛情の関係にあるという理由から、特に大切に思うとすれば、わたしたちが身につけることのできる何よりもわたしたち自身に傍近くあり、親しいものである肉体を、敬わなけれ
ばならないのは道理である。肉体はわたしたちに外側から付加されたものとして装飾の役に立つというのはない。それは人間の本性の一部なのである。
それゆえに、昔の義人たちの葬儀は注意深く~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)
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